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日中戦争で中国共産党はどのように兵士家族の支援に取り組んだのか?

長期戦を遂行するためには、軍隊の動員基盤を継続的に強化する処置が欠かせません。このためには兵士を送り出す家族に対する支援も必要です。これは政府軍の人事のみならず、反乱軍の人事を考える場合にも当てはまります。

中国大陸で日中戦争(1937~1945)が勃発したとき、毛沢東はそれまで敵対してきた蒋介石と和解し(第二次国共合作)、一致して日本に対抗する戦略をとりました。同時に、自らが率いる中国共産党の軍事部門を拡大することにも努めています。1937年に党の武装部隊であった中国工農紅軍を八路軍に改編した当時、その兵力はおよそ2万8000名ほどでした。しかし、8年にわたる民衆工作と軍事行政を通じて党は兵力を増強し、日中戦争が終わる1945年には90万名の兵力を保有していました。

この組織の急拡大で重視された措置の一つが兵士家族への支援でした。毛沢東は前線に送る兵士の戦意を維持する上で家族支援の重要性を認識しており、これを充実させるための制度を導入しています。ただ、その支援も実施の段階でさまざまな課題に直面し、必ずしも満足できる成果を出すことができていません。

まず、八路軍の兵士のほとんどは土地を持たない貧しい農民でした。八路軍全体に関しては統計データが見当たりませんが、1940年7月に第120師団(師)を構成していた津南自衛軍の第2大隊(営)第7中隊(連)に所属していた85名を対象にした調査資料が残されています。それによると、中隊に占める農民の割合は70名と全体の8割を超えており、そのうちの「貧農」は69名、割合としては80.2%を占めていました(『中国八路軍、新四軍史』509頁)。労働者だった兵士も12名おり、14%の割合を占めていたことが確認できますが、多くの兵士は戦地にいても農地のことが気がかりでした(同上)。兵士は農繁期になるたびに家に残した家族の生活を心配し、脱走するケースがよくありました。脱走は部隊の規律を悪化させる深刻な問題であり、戦闘力の喪失に直結するため、党は脱走の予防という意味でも兵士家族が安心して生活できることを保障することが必要だったのです。

毛沢東は、党の指導において民衆工作の重要性を常に強調していましたが、「優抗工作」は兵士家族に対する民衆工作として位置づけられます。これは兵士家族の生活を保障する行政支援として見なすことができます。同じ村に住む村民を組織化した上で、兵士家族の農地を耕作させる「代耕」と、村民に食料を村政府に供出させ、それを兵士家族に配給する「代糧」という2つの支援制度を導入し、これらを組み合わせることで兵士家族が生活できるようにしました。これ以外にも、兵士家族は勤労動員を免除されるなど、さまざまな優待が与えられていました。

しかし、この制度は兵士家族の社会的地位がさほど高まっていない時期に始まったこと、兵士家族のために動員された村民に対して行政が何ら見返りを与えなかったことから、さまざまな問題を引き起こしています。例えば、村民は兵士家族の農地の耕作を忌避し、農作業でも手を抜く傾向が見られたため、代耕された農地の収穫は例年より減少することがよくありました。農地が適切に管理されていないため、兵士家族の農地は数年で荒れ、それが収入の減少に繋がりました。

このような場合、兵士家族はより多くの代糧を必要とするようになるため、村内で兵士家族に再分配される食料は増加し、その負担を背負わされる他の村民との社会関係が悪化することがありました(同上、520頁)。一部の村民は不満を募らせ、兵士家族に対する嫌がらせを行い、また公然と罵倒するような事件も起きました。このような出来事が前線の兵士に伝わると部隊には動揺が広がり、士気に悪影響を及ぼしました。

1940年末から1941年初めにかけて、優抗工作の実務を担う優抗委員会は兵士家族が代耕と代糧を受領する権利を持つことを改めて明確にしましたが、優待証明書の発行基準を厳格にし、累進課税で適応される基礎控除(免税点)を超えない範囲で優待を制限する措置を講じました(同上、520-1頁)。また、兵士家族にも勤労動員の対象とすることによって、村民の動員負担を均一化し、地域社会における兵士家族への風当たりを弱くすることも試みられています。村内の対立を深刻にしないため、代耕の従事者を選抜する際にも、兵士家族との関係が注意深く考慮されるようになりました。

優抗工作の課題は、社会的な軋轢だけではありませんでした。戦争が長期化するにつれて、根拠地の経済状況が悪化すると、兵士家族に分配する余剰の食料を村落として確保することが難しくなってきました。経済状況の悪化は1940年の秋の時点で深刻化しており、1か月あたり住民一人が勤労動員に従事する時間は7日から半月に伸びていました。この労働力の不足を補うためにも、兵士家族の優待を見直し、彼らも動員の対象とすることがやむを得なくなりました(同上、521頁)。

1943年以降に根拠地の経済状況がさらに悪化すると、優抗工作の維持が困難となり、改めて制度の見直しが行われています。農業の生産性向上のため、経済活動の自由化を進める「大生産運動」の推進が決定されました(同上)。この方針に従って1943年から一部の地域では代耕の従事者には兵士家族の農地の収穫量で基準を超過した分に関しては自分の収入として受け取れることにしました(同上、522頁)。これは実際に代耕の生産性を向上させたようです。ただ、その成果は経済状況を改善させるには至らず、1945年に日中戦争が終わるまで経済危機は長く続いていました。

毛沢東は、八路軍の戦闘力を高めるために、多くの兵士を必要としていましたが、動員された農家では労働力が不足するため、彼らの生活の基盤が「破壊」されるということを認識していました。そのため、「家庭を打ち固める」ことを目的とした「優抗工作」を重視したものの、実施段階で社会的な反発と経済的な困難から政策当局は思い通りの成果を上げることができていません。組織に人材を定着させる上で家族支援の取り組みを強化したことには意義がありましたが、この事例はその支援制度を実質的なものにするために、社会的な理解と経済的な基盤が欠かせないことを示しています。

参考文献

宍戸寛ほか『中国八路軍、新四軍史』河出書房新社、1989年

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