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歴史を学ぶ

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歴史に関する記事をこちらにまとめています。
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#軍事史

戦間期の米軍はいかに「作戦」の視点を確立したのか:Carrying the War to the Enemy(…

現在の軍事理論では、軍隊の戦略行動と戦術行動を統合し、指導する技術を作戦術(operational …

論文紹介 軍事作戦において指揮官が認識すべき情報の意義と限界

マイケル・ハンデル(Michael I. Handel)は軍事学の分野で情報戦に関する業績を数多く残した…

メモ 日露戦争の観察から示されていた間接照準射撃の重要性

日露戦争(1904~1905)の戦術を調査すると、それが多くの面で第一次世界大戦(1914~1918)の…

論文紹介 戦争の複雑性とマーケット・ガーデン作戦の敗因

軍事学の研究では戦争の結果は完全な予測が不可能であり、複雑性に富んだ現象であると考えます…

複数国が参加する連合作戦は外交交渉と不可分の関係にある:1943年のカサブランカ会談…

1943年1月14日、フランス領モロッコで開催されたカサブランカ会談は、第二次世界大戦で同盟関…

論文紹介 なぜウクライナは1994年に核兵器放棄を決断したのか?

1991年にソビエトが解体され、ウクライナが国家として独立したとき、その領土にはソビエト軍が…

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なぜ戦間期の英国はドイツとの対立を避け、宥和に動いたのか? The Ultimate Enemy(1985)の紹介

1933年にアドルフ・ヒトラーが新政権を発足させてから、ドイツは将来の戦争を見据え、軍備を積極的に拡張しました。ただ、その進展状況に関する情報は注意深く隠されたので、ドイツの意図と能力を知ることは外国政府にとって簡単なことではありませんでした。イギリスも例外ではなく、当時のドイツの情報を取得することに苦戦していました。 カナダの歴史学者ウェズリー・ワーク(Wesley K. Wark)は、著作『究極の敵(The Ultimate Enemy)』(初版1985年)の中で戦間期

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論文紹介 なぜソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻したのか?

1979年12月、ソ連は国境に集結させた部隊をアフガニスタンの領域に侵攻させ、アメリカを含めた…

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論文紹介 イラクが核開発を進めようとした狙いは何だったのか?

1979年3月27日、イラクの副大統領でありながら、すでに事実上の最高指導者として権力を掌握し…

宇宙領域の冷戦史『世界史を動かすスパイ衛星』(1990)の紹介

1992年9月、アメリカ国防総省は初めて国家偵察局(National Reconnaissance Office)の存在を…

メモ 訓練と経験が部隊の戦闘力に及ぼす影響:ラ・エ・デュ・ピュイの戦闘(1944)

1944年7月3日、北フランスのノルマンディー地方に上陸し、内陸方面に向かって前進を開始したア…

軍事と外交を統合する戦略を探求したジョージの強制外交理論 The Limits of Coercive …

強制外交(coercive diplomacy)は、すでに何らかの望ましくない行動を開始している相手に対し…

メモ なぜ中国はベトナム戦争に介入したのか?

1965年、中国は北ベトナムに戦闘支援部隊を派遣することを決定しました。当時、北ベトナムはソ…

第一次世界大戦におけるフランス軍の戦略と作戦を分析したPyrrhic Victory(2008)の紹介

第一次世界大戦(1914~1918)でフランスは西部戦線の作戦で中心的な役割を果たしました。フランス軍が戦場に送り出した兵の数は841万名に上り、そのうちの138万名が命を落としました。Robert A. Doughty氏の『ピュロスの勝利(Pyrrhic Victory)』(2008)は陸上戦を中心にフランス軍の戦略と作戦の変遷を記述した研究成果です。 Doughty, R. A. (2008). Pyrrhic Victory: French Strategy and