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歴史を学ぶ

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歴史に関する記事をこちらにまとめています。
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#軍事史

ベトナム戦争で米軍が冒した犯罪を暴き出す『動くものはすべて殺せ』(2013)の紹介

2013年、ベトナム戦争でアメリカ軍の戦争犯罪に関する包括的な調査の結果をまとめた著作『動く…

第二次世界大戦で経済学者クズネッツはどのように米国の産業動員に関わったのか?

1941年に第二次世界大戦に参戦したアメリカ政府は、ドイツ、日本、イタリアに対抗するため、自…

文献紹介 なぜヒトラーは情報戦に敗れたのか:Hitler's Spies(1978)

2024年1月、軍事情報の歴史を専門とする歴史学者デイヴィッド・カーンが亡くなりました。彼の…

第一次世界大戦の経験をもとに機動戦の可能性を追求したフラーの考察

20世紀のイギリスの軍人ジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、第一次世界大戦に参加し…

文献紹介 戦間期のドイツ軍は教育訓練をいかに改革したか?:The Path to Blitzkrieg…

ドイツ軍は第一次世界大戦が終結してから第二次世界大戦が始まるまでの間に、さまざまな改革に…

多額の費用がかかる軍隊の工廠システムは現代に必要とされているのか?

軍隊は武器などの需要を満たすために外部の事業者に頼るのではなく、独自の工廠(arsenal)を…

戦間期の米軍はいかに「作戦」の視点を確立したのか:Carrying the War to the Enemy(2011)の紹介

現在の軍事理論では、軍隊の戦略行動と戦術行動を統合し、指導する技術を作戦術(operational art)と概念化し、その基本原則や戦闘・後方支援の関係、統合運用などを検討しています。軍事思想の歴史においては、作戦術は第一次世界大戦の経験からソ連で発達したものと考えられており、アメリカに持ち込まれたのは冷戦の後期になってからであると解釈されることがあります。 しかし、Mathenyはその定説に挑戦する見解を打ち出しました。その見解によれば、アメリカ軍も第一次世界大戦の経験

論文紹介 軍事作戦において指揮官が認識すべき情報の意義と限界

マイケル・ハンデル(Michael I. Handel)は軍事学の分野で情報戦に関する業績を数多く残した…

メモ 日露戦争の観察から示されていた間接照準射撃の重要性

日露戦争(1904~1905)の戦術を調査すると、それが多くの面で第一次世界大戦(1914~1918)の…

論文紹介 戦争の複雑性とマーケット・ガーデン作戦の敗因

軍事学の研究では戦争の結果は完全な予測が不可能であり、複雑性に富んだ現象であると考えます…

複数国が参加する連合作戦は外交交渉と不可分の関係にある:1943年のカサブランカ会談…

1943年1月14日、フランス領モロッコで開催されたカサブランカ会談は、第二次世界大戦で同盟関…

論文紹介 なぜウクライナは1994年に核兵器放棄を決断したのか?

1991年にソビエトが解体され、ウクライナが国家として独立したとき、その領土にはソビエト軍が…

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なぜ戦間期の英国はドイツとの対立を避け、宥和に動いたのか? The Ultimate Enemy(19…

1933年にアドルフ・ヒトラーが新政権を発足させてから、ドイツは将来の戦争を見据え、軍備を積…

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論文紹介 なぜソ連は1979年にアフガニスタンに侵攻したのか?

1979年12月、ソ連は国境に集結させた部隊をアフガニスタンの領域に侵攻させ、アメリカを含めた西側諸国を驚かせました。この時のアフガニスタンで革命評議会議長として権力を掌握していたのはハフィーズッラー・アミーンでしたが、彼は12月27日に大統領宮殿でソ連の国家保安委員会が送り込んだ特殊工作員によって暗殺されました。アメリカは、このソ連の軍事行動に対して反発し、安定の方向に向かっていた米ソ関係は1979年以降に新冷戦と呼ばれるほど悪化の一途を辿ることになりましました。 冷戦終

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