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メモ 日露戦争の観察から示されていた間接照準射撃の重要性

日露戦争(1904~1905)の戦術を調査すると、それが多くの面で第一次世界大戦(1914~1918)の戦闘様相を予見させるものであったことが分かります。各国の観戦武官は日露戦争で現地調査を行っていますが、その多くが戦場で発揮される火力の激しさに強い印象を受けていました。

当時、観戦武官の中にはロシア軍が日本軍に対して間接照準射撃(indirect fire)を実施していることを記録した軍人がいました。この間接照準射撃は、射手から見えない目標に対する射撃の方法であり、観測員から受け取った情報に基づいて射手が射撃目標に対する弾着点を少しずつ近づけるように射撃を統制します。当時まだ一般的ではなかったものの、砲兵戦術の分野で大きな革新に繋がる可能性がある手法でした。

イギリス陸軍軍人のVincentは1908年10月30日に英国王立防衛安全保障研究所において「日露戦争における砲兵(Artillery in the Manchurian Campaign)」と題する講演を行い、日露戦争の現地調査の成果を報告しています。Vincentの調査によれば、ロシア軍が間接照準射撃を初めて成功させたのは7月24日の大石橋の戦いであり、8月24日から9月4日まで続いた遼陽会戦ではロシア軍がさらに普及活用したと述べて、その革新性を強調しました(Ibid.: 36)。大石橋の戦いにおいては、ロシア軍は味方の退却を支援するために砲兵のみを展開しており、渡河を試みた日本軍の部隊の接近を阻止しました。

遼陽会戦の事例ではロシア軍の砲兵は稜線の背後、つまり日本軍の視界外に展開して射撃を行ったので、日本軍の砲兵は戦闘の間、ロシア軍の火砲の正確な位置を掴めず、一方的に砲撃される事態に陥りました(Ibid.: 37)。間接照準射撃は観測手から報告を受けるまで次の射撃を実施できないので、直接照準射撃よりも時間を要する傾向があります。そのため、射撃可能な時間が限られた機会目標に対しては直接照準射撃が有効であることをVincentも指摘していますが、彼は日本軍の側で当時のロシア軍の火力運用を観戦した経験から、ロシア軍の間接照準射撃は十分に正確かつ迅速であったと評価しています(Ibid.: 42)。

この時代の間接照準射撃に関する戦術的分析が興味深いのは、こうした重要な知見がすぐに組織的に受け入れられなかったことです。つまり、1914年に第一次世界大戦に突入するまで、イギリス陸軍の内部では砲兵部隊で間接照準射撃を行わせることに対して反対が続きました。

その理由は一つではありません。例えば間接照準射撃が命中弾を得るまでに多くの砲弾を消費しなければならないことが不安視されたこともありました。当時の後方支援能力では砲兵に弾薬を絶え間なく補給することには困難だと考えられていたので、余計な弾薬を消費する間接照準射撃は問題だとされていました。当時の間接照準射撃では目標の発見から射撃までに時間がかかるため、移動目標に対して有効な射撃ができないという見方もあったようです。

日露戦争でその有効性が確認されたにもかかわらず、間接照準射撃が砲兵戦術に採用されることが遅れたことに関しては、ジョナサン・ベイリーの「軍事史と学ばれた教訓の病理学:事例研究としての日露戦争」が詳細に検討しており、知的惰性が働いた事例として考察しています。

戦術というものは、日々発達していく性質がありますが、いったん組織がドクトリンとして定着させた戦術を変更すると、複雑な調整手続きや、追加の訓練のための費用が発生してしまいます。正しい知識があったとしても、それを組織が能力に変換できるとは限らないことを示している事例ではないかと思います。

参考文献

Vincent, B. (1908). Artillery in the Manchurian Campaign, Journal of the Royal United Services Institution, 52:359, 28-52. https://doi.org/10.1080/03071840809416901

ジョナサン・ベイリー「軍事史と学ばれた教訓の病理学:事例研究としての日露戦争」ウィリアムソン・マーレー、リチャード・ハート・シンレイチ編、今村伸哉監訳『歴史と戦略の本質:歴史の英知に学ぶ軍事文化』原書房、2011年、43-86頁

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