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翻訳資料 シュリーフェン「カンナエの戦い」『カンナエ』より

ドイツの陸軍軍人アルフレート・フォン・シュリーフェン(1833~1913)は1891年から1906年までドイツ陸軍の参謀総長を務めたことで知られています。シュリーフェンは第一次世界大戦が勃発する1914年の前年に亡くなっているので、第一次世界大戦の初期にドイツ軍がフランスに対して実施した攻勢が失敗したことと直接的な関係はありません。しかし、シュリーフェンの戦略構想がその後のドイツ軍の計画に影響を及ぼしたという観点から、彼の議論に批判を加える研究者もいます(Herwig 1997; Holmes 2003)。

ただ、そのような歴史上の影響を考慮から外し、20世紀の初頭を生きた軍事学の研究者としてシュリーフェンの業績を再評価する研究者もいます。例えばアントゥリオ・エチェヴァリア(Antulio J. Echevarria)はシュリーフェンが火器の射撃速度の向上、射弾威力の拡大、有効射程の延伸などの技術革新を踏まえ、部隊の主力を広く展開し、正面において敵と大規模に交戦する従来の戦い方を抜本的に見直すべきであると主張していたことを肯定的に評価しています(Echevarria 2013; 2000)。このような観点から見れば、シュリーフェンの考察は後の機動戦の発想に通じる部分があるとも言えます。

この点に関してシュリーフェンがどのような議論を行っていたのかを理解するためには、実業家で、著述家でもあったイヴァン・ブロッホ(1836~1902)が書いた『将来の戦争』(1909)という著作に言及しなければなりません。この著作は当時の軍事学研究者の間で大きな論争の的になったものです。

ブロッホの見解によれば、近代的な科学技術の成果を応用した火器を装備する部隊を相手に攻撃を加えたところで、もはや攻撃が成功する見込みはなくなり、あらゆる戦闘は塹壕戦に移行せざるを得なくなります。さらにブロッホは踏み込み、もはや戦争は対外政策の手段として用をなさないとさえ主張していました。シュリーフェンはこのブロッホの議論を一部で受け入れましたが、戦争が対外政策の手段として役に立たなくなるという主張に対しては反対しました。彼が将来の戦場で塹壕戦を打破する鍵になると見ていたのが機動力でした。堅固な防御陣地を占領した敵部隊に対し、正面から攻撃を加えるならば、たちまち猛烈な射撃を受け、攻撃は頓挫することは確かです。しかし、敵部隊を正面から拘束し、我の主力を敵部隊の側面へ動かす包囲機動を柔軟に実施できれば、敵部隊を撃滅することは十分に可能なはずだとシュリーフェンは考えました。

ただし、単に敵部隊を正面と側面の二面から同時に攻撃するような小さな包囲では不十分です。敵部隊の背面を脅かして、戦意を完全に喪失させるような大胆な包囲機動でなければ有効な機動にはならないとシュリーフェンは考えました。これがシュリーフェンの運用思想であり、「カンナエの戦い」はその基本思想が明確に示されている論稿です。この論稿で取り上げられたカンナエの戦いとは、紀元前216年8月、ポエニ戦争でカルタゴ軍を指揮するハンニバルが、ローマ軍を巧妙な機動で包囲した戦闘です。当時、ハンニバルは兵力で敵のローマ軍より劣勢だったのですが、それでも包囲機動を成功させたのです。

19世紀の軍事学研究者の間では、兵力で優勢である場合に限って包囲が戦術的に有効であるという考え方が定説になっていたのですが、シュリーフェンはたとえ兵力で敵に劣っていても、包囲機動は実行可能ではないかと考えるようになりました。現代の社会科学の立場から見れば、シュリーフェンが分析に用いた手法は一般化が困難な単一事例の定性的分析にすぎません。シュリーフェン自身もカンナエの戦いが軍事史において非常に特殊な事例であり、ハンニバルのような軍事的天才であったからこそ実行できた可能性が高いことを理解してはいました。それでも、シュリーフェンはカンナエの戦闘におけるハンニバルの包囲は将来の戦術を考える上で重要な示唆を与えるはずだと確信していたようです。

もし読者がシュリーフェンの軍事思想ではなく、ハンニバルの戦史に興味がある場合は、この翻訳資料を読まれる必要はないと思います。むしろ、2017年に出版されたHuntの『ハンニバル(Hannibal)』のような最新の研究成果を参照すべきでしょう。これは歴史学の著作ではありますが、戦略と戦術の両方で非常に優れた分析を展開しています。シュリーフェンが分析で依拠した情報源は非常に限られていたようであり、多くの史実を軍事的な推定で補った形跡があります。そのため、現代の研究者の見解と異なる戦況の経過が記述されている箇所が少なくありません。詳細は注釈で説明しています。

底本:Schlieffen, Alfred von. 1931. Cannae. U.S. Army Command and General Staff College.


「カンナエの戦い」

アルフレート・フォン・シュリーフェン 著
武内和人 訳

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 紀元前216年8月2日、ハンニバル将軍が率いるカルタゴ軍は、(訳注、イタリア半島の南東部の)アプリア平野からカンナエ村近くの河口へと向かって西の方向に流れるアウフィドゥス川の北岸で、テレンティウス・ウァロ執政官が率いるローマ軍がいる西の方に対して陣取っていた※。当時、ウァロはもう一人の執政官であるアエミリウス・パウルスと毎日交代しながら軍を指揮していた。

※ カルタゴ軍とローマ軍の位置関係に関しては異説がある。シュリーフェンはカルタゴ軍が海を背にしていたと考えたが、最近の研究では逆にローマ軍が海を背にして戦っていたと推定するものもある(Hunt 2017: Ch. 15)。この場合はアウフィドゥス川の北岸ではなく、南岸において戦闘が起きたと想定される。以下の訳注では著者の記述に合わせるため、北岸で戦闘が起きたと想定している。

 ローマ軍の兵力は以下の通りである。

重装歩兵 55,000名
軽装歩兵 8,000名
騎兵 6,000騎

 これらに加えて、ローマ軍は二か所に構築した野営陣地に以下の兵力を持っていた。

重装歩兵 2,600名
軽装歩兵 7,400名
合計 10,000名

 以上の数値を合計すると、ローマ軍の兵力は79,000名に達した計算になる。これに対してハンニバル軍の兵力は下記の通りに過ぎなかった。

重装歩兵 32,000名
軽装歩兵 8,000名
騎兵 10,000騎

 前面に著しく優勢な敵軍が対陣し、背面には海岸があったので、ハンニバル軍が占領していた陣地は非常に不利だった。それにもかかわらず、ローマ軍の陣中ではパウルスはセルウィリウス代理執政官と会議を開き、戦闘を避けたいと話し合っていた。どちらもカルタゴ軍の騎兵が優勢であることを恐れていたのだ。ティキヌスの戦い(前218年11月某日)トレビアの戦い(前218年12月18日)トラシメヌス湖畔の戦い(前217年6月21日)でハンニバルに勝利をもたらしたのは、この騎兵の働きによるところが大きかった。
 ところが、ウァロは決戦を挑み、借りを返すことを望んだ。ウァロはローマ軍の重装歩兵55,000名がカルタゴ軍の重装歩兵32,000名に対して優勢であることを頼りにしていた。というのも、カルタゴ軍の重装歩兵の内訳を見ると、カルタゴ兵はわずか12,000名に過ぎなかった。残りの20,000名はイベリア人とガリア人であって、装備と訓練から見れば、支援部隊としては不適格な兵力であると考えられていた。ウァロは攻撃に向けた準備を急がせ、指揮下のローマ軍を戦闘態勢へと移行させた。
 ウァロは騎兵を左右両翼に配置した。ただ、戦端を開いてから、敵を包囲し、味方騎兵を支援する任務を帯びた軽装歩兵によって、主力の側面を掩護する方法については、ほとんど検討されていなかった。

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