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【映画解釈/考察】『君たちはどう生きるか』「世界の意識の一員としてのジブリの世界」



映画『君たちはどう生きるか』の無宣伝戦略は、作品の主題本位によるものだったのではないか

映画『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿監督の総決算的かつおまけ的な作品という制作過程の問題があったと思われますが、公開前から今までのジブリ作品と比べて、何かが違うことを感じずにはいられない作品であったことは、間違いないかと思います。

それは、主に宣伝方法であったことは、確かなのですが、それは戦略的な問題ではなかったのでないかというのが、鑑賞後まず感じたことでした。

そして、その違和感を考える上で、どうしても外せないのが、宮崎駿監督が少年時代に読んだであろう吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の内容です。

 ストーリーとは、関係ないと言いつつも、わざわざこの映画の題名に拝借したのは、それが、重要な意味を持っているのに他ならないからだと考えるの普通です。

 つまり、少年時代に読んだ、本を持ち出してまで、宮崎駿監督が伝えたかったものは何か、または、宮崎駿監督が、今になって達した境地が原作の中にあるのではないか、そう考えざる得ないわけです。

円環構造と自由意志(眞人の母が、運命を知った上で、眞人に『君たちはどう生きるか』を読ませるように仕向けたのはなぜか。)


それを、さらに強く感じさせられるのは、眞人の母親であるヒミ(ヒサコ)は、自分が眞人少年を残して焼死してしまうこと、息子である眞人が後の母親である少女ヒミ(ヒサコ)に下の世界で再会することを知った上で、上の世界(現実の世界)に戻る選択をしていた点です。しかも、わざわざ『君たちはどう生きるか』の本の中に、眞人に向けてメッセージを残しています。

これは、テッド・チャンの小説『あなたの人生の物語』を原作とした映画『メッセージ』と同じように、過酷な運命を知りながらも、敢えてその流れを受け入れる選択をしています。

それは、現実世界が同じ流れの繰り返しであることを示していて、輪廻と呼ばれるものであり、ニーチェの言葉で言えば、永劫回帰であり、ボルヘスで言えば、円環構造になります。

これは、小説『君たちはどう生きるか』にも、このような話は描かれていて、僕たちはこの流れのなかを生きていると言及されています。

また、映画『君たちはどう生きるか』のプロット自体も、大叔父=宮崎駿から眞人=宮崎駿へという円環構造になっています。

そして、大事なのが、ニーチェも言っていますが、その流れの中で、積極的に関わる選択=自由意志を行使することができるのが人間であるという主張です。

上の世界に戻った母ヒミ(ヒサコ)は、それを具体的に実行しています。それは、眞人を産み、眞人にあるメッセージを残します。それが、小説『君たちはどう生きるか』の本です。

このことを考える上で、重要なのが、眞人が下の世界で何をしたのかということに結びついています。つまり、眞人は、大叔父の世界を開放する役割を担っていたことになります。

下の世界と意識が蓄積する世界(ワラワラ、石の塔、人形が表象するもの)


そもそも、塔の下にある下の世界とは、何を表しているのか、村上春樹の本を好んで読む人たちは、本作との共通点を感じた人も多かったと思いますが、それは、精神、または深層心理、つまり、無意識を含む意識の世界だと想像できます。

この作品で象徴的なのが、ワラワラの存在です。可愛らしい存在ですが、下の世界にいるワラワラが上の世界の生命の源である描写がされています。これは、下の世界が意識の存在する世界であり、唯識思想の阿頼耶識のような世界であることをしたものであることを連想させます。

私たちの意識は、別次元で出現したものを、私たちの体が受信し、私たちの意識と認識しているものは、もとの次元に帰っていくというものです。

この考え方を、補強するように、上の世界の人たちは、下の世界では、人形の形をしています。これは、上の世界において、私たちの存在が、意識を受信する存在であることを表象していると考えられます。

そして、石の塔が、空から降ってきたという事実も、私たちの意識が別次元から来たことを表していると考えられます。

今まで下の世界と表現してきた世界を、意識が蓄積する世界と定義してみます。ユングで言えば、集合的無意識の世界とも言い換えることができます。

しかし、厳密に言うと、眞人が紛れ込んだ世界は、大叔父が統治する世界です。言い換えると、大叔父を中心に回っている世界です。

大叔父を中心に回っている世界と後継者としての眞人(アオサギ、インコ、ペリカンが表象するもの)


そして、大叔父は、眞人を後継者として据えようとしています。なぜ眞人なのだろうか。

大叔父は、眞人が血縁であることと、純粋な石(意識)か悪意の混じった石(意識)を見分けることのできる人物であることを理由に挙げています。

これは、大叔父と眞人が似た性質や境遇を有していることを暗示しています。

それは、眞人が下の世界に引き込まれた理由と同意義でもあります。

マヒトは、上の世界の悪意(戦争)に、よって大事な、母を失っています。そして、上の世界の人間とトラブルを起こし、自ら頭に傷をつけ、外の世界から自分を隔離します。

この自らの頭を傷つけるという自傷行為は、上の世界=外の世界の自分を悲観し、外の世界と自分を隔離しようとすり試みと言えます。

眞人が、頭に傷をつけた後で、アオサギと会話できるようになり、下の世界に引き摺り込まれます。

大叔父を中心に回っている下の世界は、人間の悪意(怨念)の意識を遺跡の中に封印しています。そして、ずる賢さや醜さを有する意識は、インコやアオサギの形をしていて、インコ王によってコントロールされています。ペリカンは、衝動の無意識を表象しているのではないかと思います。しかも、誰かが中心に回っている世界(象徴界)の犠牲者として描かれています。

小説『君たちはどう生きるか』でも、誰かが中心に回っている世界に対して疑問を呈しています。なぜなら、一人ひとりが世界の一部であり、お互いが影響し合うことで世界が回っていると吉野源三郎は、考えているからです。

眞人は、人間のずる賢さや悪意に絶望していた少年であったからこそ、大叔父の後継者としてふさわしい人物であったと言えます。

眞人が後継者にならなかった理由と最後のシーンに込められたメッセージ


しかし、眞人は、大叔父の後継者の依頼をきっぱりと断ります。これは、これまでも、言及してきたように、小説『君たちはどう生きるか』の影響=母親のヒミ(ヒサコ)の意思の影響があるのは、明らかです。

そして、何よりも、眞人本人も言っていますが、下の世界の冒険を伴にしたアオサギの存在です。

 アオサギは、人間のずる賢さや醜さの象徴的なキャラクターであるわけですが、眞人は、そのアオサギとの友情によって夏子を救い出します。

これは、世界には、ずる賢くて醜い意識だけではなく、世界の一員としての思い遣りや愛情と言った意識も、含まれていることを物語っています。これは、『君たちはどう生きるか』で吉野源三郎が最も伝えたかったものの一つだと思います。

夏子の存在も、そうです。夏子が下の世界に入って行った理由の一つとして、眞人が下の世界に引き込まれないように、自分または自分の子を身代わりにするためというのがあったと考えられます。これは、眞人やアオサギと同様に、誰かのためを思い行動であり、小説『君たちはどう生きるか』の内容にも一致しています。

 アオサギ、夏子、キリコ、そして、ヒミとの交流を通して、眞人が上の世界=開かれた世界で、ナツコや弟とともに、生きていこうと決意します。

そして、母であるヒミ(ヒサコ)も大きな決断をしています。それは、自己犠牲のもと、眞人を産むために、上の世界に戻り、ヒミ(ヒサコ)の意志を眞人に伝えることです。

 それは、たとえ、世界の構成員の一人にすぎない存在であったとしても、世界にむけて自由意志(選択)を行使することで、小さくても、開かれたこの世界に、何かしら影響を与えることができるというものメッセージが含まれていたのではないでしょうか。

それは、眞人とアオサギの最後の会話で、石の話が、交わされた場面にも表れています。眞人が、下の世界から、一つの石を持ってきてしまったのを、アオサギが指摘する場面です。

前述の通り石は、意識の集合体=下の世界の断片だとすると、その一部を眞人が持ってきたということですが、これも前述の通り、その意識を受け取り、さらに眞人がそれの影響で、さらなる意識を生み出して、意識の集合体=下の世界に還元することを暗示した描写であると捉えることができます。

つまり、宮崎駿少年=眞人だとすると、多くの前人から受け取ったイマジネーション(意識)をもとに、将来、アニメーションを生み出すことを暗示していて、さらに、大叔父=宮崎駿監督だとすると、宮崎駿監督が生み出した作品が、意識の欠片となって次世代の人々に影響を与えることになることを示唆していると考えられます。まさに、円環構造になっています。


二つの意味(シニフィエ)をもつテキストと大叔父の世界とスタジオジブリ


このラストの場面から分かるように、映画『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿監督自身の私的な内容と小説『君たちはどう生きるか』を元にしたメッセージの2つの意味をもったテキストだということが明らかです。

つまり、この映画『君たちはどう生きるか』の大叔父の世界が、スタジオジブリを表しているのは、明らかだということです。もう、既に多くの指摘があるように、13個の積み木がジブリ作品または宮崎駿監督作品の数を表しているのも、間違いないでしょう。

そして、ジブリ映画の後継者を指名できず、制作部門を解散していることは、大叔父の世界から、インコたちを開放したシーンと重なります。

なぜ、宮崎駿監督が、引退後に、撤回し、わざわざこの作品を創ったのか。宮崎駿監督がただ創りたくなったというのは実際あったにしろ、やはり、意義があったと思います。

宮崎駿監督が少年時代に回帰し、自らが、宮崎駿=スタジオジブリ中心主義を捨て、世界の意識の一員としてのスタジオジブリを再構築しようとする試みの成果が、映画『君たちはどう生きるか』だったのではないだろうか。

前述の通り、石の塔が、空から降ってきたという事実は、ジブリ作品が、世界の意識の蓄積の中から生まれたものであることを表していて、ラストの開放は、ジブリの世界を還元する意志と読み取れます。

実際、現実的な問題も、勿論あったかと思うが、本作が、多くの制作会社の協業で作られていることに驚かされます。制作会社のアニメ映画の宣伝も多く、目立っていました。

また、ナツコの産場に入る禁秘とは、スタジオジブリの制作に関する禁秘とも受け取れます。そして、未だに分かっていない意識の生まれる空間のことを指しているのかもしれません。

最後に、最初の話に戻ると、無宣伝戦略は、興業収入を第一に考えた戦略ではなく、原作の主題本位のあり方を目指していたのではないかと思うのです。

また、あのアオサギとは、高畑勲監督よりも、宮崎駿監督を騙しながら導く鈴木敏夫プロデューサーだったのかもしれません。

そう言えば、主題歌担当した米津玄師のコンサートに鈴木敏夫プロデューサーと宮崎駿監督が連名で花を出していたのが印象的でした。

原作『君たちはどう生きるか』の中で、世界を構成している見えない人々に、感謝をしなければならないということが強調されていたのを思い浮かべました。

映画『君たちはどう生きるか』は、ジブリに関わっている、見えていないすべての人々にありがとうの感謝を伝えるための映画だったと思うのです。







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