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信じないかもしれないけど、僕はね、治るって確信があるんですよ(『僕は、死なない。』第26話)


全身末期がんから生還してわかった
人生に奇跡を起こすサレンダーの法則

 
26 入院初日


 6月13日の朝、入院用の荷物をまとめると、病院へ向かって自宅を出た。

 居間を出るとき、ふと「ここに生きて戻ってこられるかな?」と思ったが、そんなことはすぐに忘れた。不思議なことに、不安はほとんどというか、全くなかった。僕はまるでリゾート旅行に行く気分だった。

 入院にあたり僕は三つのことを決めていた。

 一つ目は脳転移は放射線治療を行なうこと。もうこれは四の五の言っている場合じゃない。病院の言うことを聞こう。

 二つ目はがん細胞を採取して、DNAを含め、再度、検査をしてもらうこと。昨年の大学病院の結果は山中さんの話もあり、信用していなかった。

 三つ目は、病気だけど、病人にならないこと。身体は病気だけど、心は健康で行くんだ。『夜と霧』のフランクルのように、どんな過酷な状況でも、最後まで人間らしく、自分らしく、ニコニコと楽しんで生き抜こう。

 僕は妻と長男の3人で東大病院の門をくぐった。入退院センターで入院の受付を済ませると、足早に指定された病棟に向かった。僕の入院する場所は13階北というところ。

 エレベーターを13階で降りると、北病棟に向かい、ナースステーションで受付の女性に話しかけた。

「今日からお世話になります、刀根と申します」

「刀根さんですね、お待ちしていました。この病棟の師長をしています山越と申します」すぐ後ろからハキハキとした声とともに、元気な女性が現れた。山越師長は僕たちの前に立ってテキパキと病棟を案内し始めた。

「刀根さんのベッドはこちらになっております」

 僕のベッドは、ナースステーションのすぐ隣の部屋だった。

「ありがとうございます」

「今、刀根さんの担当看護師を呼びますね」

 しばらくすると若い女性看護師がベッドにやってきた。

「はじめまして、嶋田と申します。今日から担当をさせていただきます。よろしくお願いいたします」

 とても清潔感がある、優しい感じの人だった。

「こちらこそ、よろしくお願いします」僕と妻は頭を下げた。長男が少し恥ずかしそうに笑った。

「お食事ですが、普通食と肉抜きを選べますが、どうしますか?」

「はい、肉抜きのほうで」

「食事の場所はベッドと食堂が選べますが、どちらにしますか?」

「ベッドで1人で食べるのは寂しいので、食堂にします」

 嶋田さんは一つひとつ、質問を確認すると「また来ますね」そう言って去って行った。

「よさげな人ね」妻が言った。僕はうなずいた。

 しばらくすると山越師長が昼食を運んできてくれた。トレイに載っているのは久しぶりの味がついた食事だった。しかも10カ月ぶりの白米だった。

「夕食からは食堂でご準備しますね」彼女は微笑むと、ナースステーションに帰っていった。

「久しぶりの普通のご飯だねー」妻が笑いながら言った。

「うん、まあ肉抜きだけどね。でも、すごく美味しそうな匂いがするよ。もうこうなったら選り好みしていられないね。病院にいるときは普通に食べることにするよ」

「うん、そうだね、きっとそういうことなんだと思う」妻も言った。

 久しぶりの味つきの食事は、病院食という質素なものだったけど、最高に美味しかった。なんせ、塩も砂糖もコショウも全て、調味料はやめていたのだから。

 しばらくして安心したのか、妻と長男は帰っていった。

 夕方、嶋田看護師が書類を抱えてやってきた。

「これからの予定をお話しさせていただきます。最初の何日かは検査が中心です。明日、CTの撮影予定です。MRIは予約が取れ次第行ないます。頭部の腫瘍に対する放射線治療は、来週の19日から23日まで5日間の予定が入っています。そして明後日の15日に、肺のがん細胞を採取する生体検査をする予定です。その結果を見てから肺のほうは治療方針を決めるということなので、退院の予定は未定ということになっています」

 僕は入院するとき、井上先生にもう一度、僕のがん細胞を摂取して検査をしてほしいと頼んでおいた。それを15日にやってくれるという。全ては僕の希望通りだった。

 僕の不安を少なくするような気遣いなのか、嶋田さんはゆっくりと優しく説明をしてくれた。ずいぶん若いのにしっかりしている。僕は思わず聞いてみた。

「嶋田さんは何年目?」

「え、3年目です」

「そうか、じゃあプリセプター(新人教育)とかもやってるんだ」

「えー、よくご存知ですね」彼女は驚いて言った。

「うん、僕も病院の仕事をしてたことがあってね。いや、病院内の仕事じゃなくて、研修の講師だけど。コミュニケーションとかの」

「ああ、なるほど」彼女は笑った。

「いやあ、まさか自分が入院することになるなんて、思いもしなかったよ。ミイラ取りがミイラになった気分」僕も笑った。

 嶋田さんも笑いながら答えた。「えっと、起床は午前6時で、部屋の電気がつきます。消灯は午後9時です」

 嶋田さんはそのあと入院中の食事やシャワー、パジャマのことを説明してくれた。

「それから、あのー、アンケートがあるので、それに答えてもらってもよろしいでしょうか?」彼女はアンケート用紙を僕に渡した。

 そこには二つのアンケートが記されていた。

・ 今の自分の病状について……7段階評価で、7が一番不安、1が全く不安なし

・ 今回の入院について……7段階評価で、7が一番不安、1が全く不安なし

 僕は質問に目を通すと、全く躊躇せずに両方とも1にマルをつけた。嶋田看護師の目が丸くなっている。不思議なものを見た、そんな感じで。そして遠慮気味に言った。

「えーっと、あの……これ、両方とも1にマルをつけた人、初めて見たんですけど……どういうお気持ちなんですか?」

 僕は答えた。

「嶋田さん、信じないかもしれないけど、僕はね、治るって確信があるんですよ」自分の言葉に思わず笑ってしまった。

「え?」

 嶋田さんの表情が止まった。彼女はカルテで僕の状況を知っているはずだった。肺がんステージ4で骨はおろか脳や肝臓にも転移している人。それなのに、根拠なく治るって言いながら穏やかに笑っている……。もしかすると頭のおかしな人が入院してきたのかと思ったのかもしれない。

「僕は確信があるんです」

「そ、そうなんですね」嶋田さんはちょっと笑いながらナースステーションに帰っていった。

 しばらくして男性の医師がやってきた。

「沼田と申します。刀根さんの病棟での主治医となります。よろしくお願いします」ひと昔前の苦みばしったハンサムな顔立ちの男性だった。しかし顔色は悪く、かなり疲れているようだった。

「刀根です、よろしくお願いいたします」 

 沼田先生が去った後、しばらくして3人の医師がベッド脇にやってきた。

「加茂です」一番年上の男性は40代だろうか、いかにも頭のよさそうな人だった。

「福山です」20代後半だろうか、背が高く、ニコニコした感じのよい青年だった。

「若葉です」一番若い彼は、あきらかに緊張しているようだった。まだ患者慣れしていないように僕は感じた。

「これから、病棟では私たちが毎日の診察や検査などを担当します。刀根さんのことはチームで診ていきますので、ご安心ください」福山先生が爽やかに言った。

「ありがとうございます。心強いです」

 すごいなー、先生がぞろぞろ出てくる。こんなにたくさんの先生が僕を診てくれるのか。なんだか感謝の気持ちが湧いてきた。3人が帰ってからしばらくすると、またカーテンを開けて白衣の男性がやってきた。先日、入院を決めたときの外来の担当、井上先生だった。

「刀根さん、体調はいかがですか?」

「あ、井上先生、わざわざ来てくれたんですか」

「ええ、気になったもので……。私は外来では刀根さんの担当ですが、こちらの病棟では、えーっと、担当は沼田先生になります。どうかゆっくり治療してくださいね」

「ありがとうございます」

 井上先生はにこやかに帰っていった。やっぱりここに入院してよかった。ベッドに横になり、クリーム色の天井を見ながら、本当にそう思った。

 一通り、医師や看護師たちが帰った後、夕食の時間になった。メニューは魚と味噌汁、野菜のおひたしだった。味のついた料理を口に入れる。唾液が待ってましたとばかりに一気に口の中に広がった。歯がしびれるほど美味しかった。

 味って、すごい。最高にうまい。ああ、なんて幸せなんだ。ここはやっぱり最高のリゾートだよ。

 食堂から見える夕日に赤く照らされたスカイツリーを眺めながら、僕は幸せに包まれていた。

 食堂から帰ってきてベッドで寝ていると、おもむろにカーテンが開いた。

 ん?と思って顔を上げると、そこには4年前に引退した元ボクサーの大場君がいた。

「お、大場!」

「刀根さん、お久しぶりです。おれ、今日ジムの矢沢さんからメールもらって、映画館で映画見てたんですけど、いても立ってもいられなくって……」そう言って、言葉を詰まらせた。

「泣くな、泣くなよ、僕は大丈夫だから!」

「はい、顔を見て安心しました。実はカーテン開けるの怖くって……」

「大丈夫、僕は治るからさ。治るって確信があるんだよ」

「そうなんすか? でも、おれ、刀根さんなら治るって思います」

「ありがとう、絶対に生還するから大丈夫だよ」

 その後、食堂に移動していろんな話をした。彼とは引退後に連絡が取れなくなっていた。仕事がうまくいかなくて相当苦労しているらしいと噂話も聞いていた。今はその仕事は辞め、新しい職場で活躍しているとのこと、一安心だった。

「おれ、もう一度ボクシングやりたいんです。やっぱり、一度あのリングを経験したら、あれ以上のものって味わえないですよ」

「そうか、やっぱりそうだよな。大場はまだ若いんだから、全然やり直せるさ。仕事の状況を整理したらまた始めるといいよ」

「はい、おれ、今日、刀根さんに会って本気でそういう気になりました。ありがとうございます!」

 大場君は元気に帰っていった。

 大場君と別れて食堂から戻ると、ベッド脇の椅子に男性が座っている。誰だろう? 男性が振り向いた。数年前にボクシングジムを辞めた先輩トレーナーの小沢さんだった。小沢さんが辞めて以来、一度も会ってなかった。

「よっ、刀根さん、元気?」にこっと笑って手を上げた。

「ええ、元気っすよ」僕も笑った。

「ほら、これ持って来ましたよ」

 彼は灰色のビニール袋をいたずらっぽく僕に手渡した。中を覗くとエロ本だった。さすが。

「俺は刀根さんは大丈夫だと思ってますから、心配してません」小沢さんはニコッと笑うと、またひょい、と手を上げて帰っていった。そういう彼の気遣いが嬉しかった。

 僕はベッドの上に残った灰色のビニール袋を見て思った。うむ、確かに大丈夫なんだが、さすがにこれを見る気にはならないな……嶋田さんに見つからないようにしなくっちゃ。エロ本を親から隠す中学生の気分になり、自然と笑みが口元に浮かんだ。

 こうしていろいろあった入院初日が終わった。

次回、「27 検査の日々」へ続く

僕は、死なない。POP


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