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❖足元美術館XXⅢ(二つの「落ち『バ』」の異なる運命)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年6月29日)

今回も4年前も、私の部屋は鳥たちにとって居心地が良い何かがあるのだろうか。4年前はトイレの換気扇の蓋の隙間から、今回は室内のエアコンと室外機を繋ぐパイプの穴から、鳥が入って巣作りをしている。

朝、早い時間にゴソゴソと作業を始めるので、かけていたアラームの前にその音で目覚めることも少なくない。作業が音だけならばまだ許せるが、作業で運び込んだ資材がエアコンと壁の隙間からパラパラと落ちてくるのである。

あるときは何かの枝の一部分。
あるときは何かの葉っぱ。
あるときはプラスチックの切れ端。

巣作りのために鳥たちが持ってくる資材は多種多様である。

そのままにしていると、ゴミとして溜まっていくので、片付けるこちらの身にもなってほしいが、鳥たちは鳥たちで、次の世代を産み育てるための最善なる場所を作るため必死なのだろう。来る日も来る日も、資材を運び入れ、それを隙間に押し込めて、素敵な空間を実現しようとしている。

ある日の朝、散らかっていた資材を小さなチリトリとホウキで片付けてから出かけることにした。
しかし昼過ぎに戻ってくると、また床に何かが落ちていた。

それはいつも落ちている資材よりも大きいだけでなく、ゴミと呼ぶにはあまりにも美しすぎた。
大きな黒っぽい羽だった。

これは資材ではなく、作業をしている張本人が自ら落としてしまったものかもしれない。
全体として黒っぽいのだが、繊細な毛の一本一本に張りがあり、眺める角度によって輝きを放っている。

誰かの体から抜け落ちてしまったものだから、役割を終えたはずなのに、ゴミとは思えなかった。
もしこれが「落ち葉(ば)」だったならばどうだろう。葉っぱは枝についているときはとんでもない働き者だ。光を集め、二酸化炭素を取り込んで、内部でデンプンを作りながら、酸素も吐き出す。そんな激務に耐えられなくなったか、引き際を決めたか分からないが、枝から離れ地上に落ちた葉に、かつての勢いや潤いは感じられない。疲れ切った姿で横たわっている。それまでがむしゃらに働いてくれたことを考えると申し訳ない気持ちになるが、その姿は「ゴミ」に近づいている。

私の部屋に落ちていた羽はどうだろうか。それまで誰かの体と繋がっていたときは、飛翔・防寒・防水・防御など、多種多様な役割を与えられていたのは葉と同じだ。そして、体から離れて地上に落ちたのも同じ。しかしここからが違う。葉は勢いや潤いを失ってゴミに近づいていくが、羽は落ちてなお輝きを保っている。依然として勢いと潤いが感じられる。

その結果、この「落ち羽(ば)」には新たな役割が与えられる。古来より羽扇の材料とされたり、服や部屋の装飾の材料とされたりする。つまり「落ち羽(ば)」は落ちて終わりではなく、次なる展開が待っているのである。それが分かっているから、地上に落ちてダラダラしている暇などない。次の役割に生き甲斐を感じることが分かっているからなのか、キラキラツヤツヤしたままである。

その勢いと潤いに惹かれて、私もゴミとは思えなかった。だから今でも机の上で活き活きしている。

「わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない、という事実である。それゆえに人間から生きがいをうばうほど残酷なことはなく、人間に生きがいをあたえるほど大きな愛はない。」
これは日本の精神科医でありハンセン病患者の治療に人生をささげた神谷美恵子の言葉である。この言葉から人間がエネルギーに満ちて生きていくには「生きがい」というものが非常に重要であることが分かる。地上に落ちた葉と羽についても同じことがいえるのではないか。葉は役割を終え、さらなる生きがいがないため、存在としての輝きを失ってしまうが、羽は次なる役割に生きがいを見出すことができるので存在としての輝きを放ち続けるのである。

二つの「落ち『バ』」の異なる運命。
落ち『葉』とは異なる落ち『羽』の価値が足元にはあった。

ちなみに「羽」はラオ語で「ປີກ(ピーク)」という。同じくタイ語では「ปีก(ピーク)」になる。

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