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❖足元美術館XXⅣ(美しき汚れ)❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2023年7月7日)

コンクリートの割れた隙間に紐が落ちていた。

ラオスではラオス正月であるピーマイラオや他のお祝い事のときに行われる行事でこの紐を手首につけてもらう。その儀式はバーシーと呼ばれる。この紐の正式な名前は分かっていないので、この紐も便宜上バーシーと呼んでおくことにする。

ピーマイラオのとき寺院にいくと、僧侶がお経を唱えながら、手首にバーシーをつけてくれる。ミサンガに似ているが、儀式の後、三日くらいすれば外しても良いらしい。ただ、そのままつけておいて自然と外れると縁起が良いという捉え方もあるようだ。

ラオスも雨季に入り、かなりの頻度で雨が降る。歩道などのちょっとした石ころなどであっても、地面を覆いつくすような溢れる雨水によって流されてしまうから、こんな軽いバーシーなどひとたまりもない。それなのに、こうして地面に残っているのは、ここ数日は珍しく雨が降っていないからではないだろうか。

そう考えると、これが持ち主の手首から外れたのは、今日か昨日かとにかく直近の出来事だと思われる。ピーマイは4月中旬なので、持ち主は長い間、バーシーをつけていたのだろう。今は7月初め。2カ月半くらい大切につけていたわけである。

そんなバーシーが外れてここにあるということは、それだけの長い時間を経て、見事に自然な形で外れたということだろう。

バーシーの色は寺院によって異なっていて、白、オレンジ、ピンク、赤、緑、黄色など非常に鮮やかである。足元にあったのは白とオレンジが織り交ぜられていたが、色はくすんでいた。

見る人によっては「汚れている」で片付けられてしまうかもしれない。確かに見た目はお世辞にもきれいとは言えない。地面に落ちたあと、土や砂をかぶってしまった影響はあるだろう。ただこれは2カ月以上も持ち主と行動を共にしてきた。だから単なる汚れではない。

持ち主の手首でしっかりと生き抜いた証拠である。
自然と外れるまで役割を全うした証拠である。

人間も動物も生活の様々な道具も、存在する時間、活動する時間が長くなれば当然に古びてくる。
物体としての量的な価値は「劣化」しているかもしれない。しかしその時間の経過には経験・年輪・伝統など色々な言葉をあてることができると思うが、とにかく「味わい」のようなものがあり、それは物体の形状からは判断できない質的な価値なのである。

そんな「味わい」が、足元のバーシーにも感じられた。
しっかりと生き抜き、役割を全うして力尽きた、その姿は潔さそのものであり、見た目を上回る輝きを放っていた。

「芸術は苦難と労苦の忍耐を持つ人間の魂に蓄えられた蜜である。」
これはアメリカの作家であるセオドア・ドライサーの言葉である。彼によれば、芸術が持っている華やかさ、美しさ、輝きのようなものは、偶然や楽な方法で得られるものではなく、苦しみを経て得られるものである。そのような努力を積み重ねたからこそ、その先で得られる成果は価値の高いものになるという原理は、様々な事象に適用できる普遍的なものだと感じる。

同様の原理が足元のバーシーにも適用されていた。それゆえバーシーは美しかったのである。

ちなみに「美しい」はラオ語で「ງາມ(ンガーム)」という。タイ語では「สวย(スアイ)」になる。

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