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【一人で勝手に旅気分】136

(過去の旅についての振り返りです)
★ 止揚もいいけれど、共存する姿はもっと素敵(2018年8月18日)
クアラルンプールから電車で少し移動したところにクランという港町があります。
マレーシアはイスラーム国家なので、本当にたくさんのモスクを見かけますが、その中でもかなりお気に入りのモスクを紹介します。

Masjid Bandar Diraja Klangというモスクで、クラン川沿いにあります。

バンコクに住んでいて、ふと気づいたことですが、散策していて見かけるモスクの多くは、川や運河沿いにあります。そして、このクランの町のモスクも川沿いに多くありました。

バンコクにしても、クランにしても、現在ほど道路網が発達していなかった時代から、こうした地域にはアラビア半島からインド洋を経由し、船でやってきて活動していたムスリム商人が多くいたはずです。その時代、内陸での移動手段でも、川や運河を使い、船で移動していたと思います。つまり、川や運河は昔から使われているメインストリートなわけです。

そうしたヒトやモノの往来がさかんな川や運河には、居住や商売だけでなく宗教に関わる施設が集まるのも自然なことだったのでしょう。つまり、川や運河沿いのモスクは「利便性」に基づいて存在していることになります。

社会という科目を教えていると、「利便性」と対比されることが多い概念として「芸術性」というものがあります。例えば、ヨーロッパ中世において、修道院など中心に作られた聖書の写本などに記される文字は、かなり凝った作りになっていて、文字としての価値よりも一つの芸術作品としての価値が高いことに気づかされます。このような写本が素晴らしいのは言うまでもないことです。しかし、それはあくまで「芸術性」から捉えた場合であって、情報を伝える文字として考えると、一つの写本を完成させるために相当な時間がかかりますし、またシンプルなフォントと装飾を凝らしたフォントの間で情報に差がないことから、「利便性」から捉えた場合は、多くの無駄があることになるでしょう。つまり、写本の文字については、多く付随する要素の中に「芸術性」があったわけです。

これに対して、iPhoneを先駆けとして最近のスマートフォンは、余計なボタンなどをできる限りつけないことで見た目がすっきりしています。そのため、さきほどの写本の話とは逆に付随する要素を取り除いたところに「芸術性」が生まれているわけです。しかし高齢者やガラケーに慣れてきた人などにとっては、役割が明確に分化されたボタンが見当たらないスマートフォンは使いにくいことになるでしょう。つまり、携帯電話については、多く付随する要素の中に「利便性」があったわけです。

ここまで、「芸術性」と「利便性」があたかも二律背反の概念であるかのように展開してきました。しかし、クランの町の川沿いにそびえるモスクの姿は、2つの概念が共存できることを証明していました。

川沿いであるがゆえにアクセスしやすいという「利便性」をモスクは備えています。そして、川沿いであるがゆえに川面に映るもう一つのモスクの姿や、川面に映し出された上空の太陽とモスクの描写などはまるで名画のようであり、「芸術性」も備えているのです。

しかも二つの概念の関係は、ヘーゲルの説いたような両方を否定・保存した上で止揚される弁証法ではなく、二つの概念が肯定されたまま同時に存在するものなので、ヘーゲルのそれを「現実的弁証法」とあえて呼ぶならば、川沿いのモスクの素敵な姿は「理想的弁証法」といっても良いのかもしれませんね。

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