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★我楽多だらけの製哲書(38)★~オンライン授業における気づきとルター~

去年の今頃の投稿を振り返っていると、ちょうどオンライン授業が始まったところだった。
ついこの前までならば、全く異なる状況だったなあとなるかと思っていたが、気づけば去年と同じどころか、去年よりも厳しい状況になっている。現段階で、勤務校はまだオンライン授業の判断を下してはないが、いざオンライン授業になった場合を想定して、去年の投稿を振り返っておきたい。

(ここからは去年の投稿)
勤務校でオンライン授業がスタートした。
これまで社会科の教員として、私が授業での働きかけで意識してきたことを主に3つ挙げるならば、「具体化」「図式化」「実体化」がある。
まず「具体化」とは、抽象的な関係性を、身近なもの(具体例)や、別の関係性だがよりイメージしやすいもの(比喩)に置き換えるような働きかけである。
次に「図式化」とは、物事の骨格となる部分を取り出して、物事をシンプルなものとして示す働きかけである。
最後に「実体化」とは、ロールプレイによって実演したり、実物(レプリカを含む)に触れさせたりする働きかけである。

最初の「具体化」において、私がかなりの頻度で利用させていただいているのは「ドラえもんにおける関係性」である。「ジャイアン、スネ夫、のび太」という分かりやすいヒエラルキーが、様々な時代の社会構造をイメージするのに使い勝手が良いのである。
二番目の「図式化」については、「対比」「3コマ/4コマの展開」「樹形図」などを使うことが多い。短い表現同士を矢印でつなぐことで、単純な関係性に示し直し、情報を俯瞰的に捉えることができるようになるのである。
三番目の「実体化」は、ポイントのなる歴史上の出来事で登場する何人かのキャラクターを生徒に担当してもらい、それぞれがキャラクターごとの発言や行動を演じることでリアリティを持たせることができるものである。いつも生徒に演じてもらうわけではなく、一人何役も請け負って、自分だけでロールプレイを実演することの方が多いかもしれない。また、レプリカではあるが古代ローマの金貨を示したり、現代になって作られたものだがパピルスを示したりすると、資料集などに載っているものを見るのとは異なる反応を生徒から受け取ることができ、これもリアリティを持たせることができるものである。ただ、実物(レプリカを含む)を示すときの難点は、教師が持ったまま示すならば、教師に近い生徒はよく見えるが、教室の後ろの方の生徒はよく見えない。だからといって、一人一人が手に取れるように順々に回すようにすると、最後の生徒にたどり着くまでに時間がかかってしまい、次の話に進みながら、前の話の実物を見る生徒が増えるというあべこべな状況が生まれるし、実物を持った教師が机間巡視のように移動するとしても、そのために多くの時間を要してしまうのである。

そこで、プロジェクターなどに画像を映し出すという方法を選択すると、それは結局、資料集に載っているものが黒板に映し出されているようなものになってしまう。

さらには現在のコロナ禍の状況では、実物を生徒に渡して回してもらうということはできない。本来ならば実物の大きさ、質感、重さなどを手に取って体感してほしいのだが、それが難しい状況である。

オンライン授業となり、この実物を示すという働きかけについては、触ってもらうことはできないし、教師が手に持って見せるのも、構造上はプロジェクターで実物の画像を映し出すことと変わらないもののように思えるが、オンライン授業になって気づく思わぬ効果もあった。確かに、生徒は実物に触ることはできないが、生徒一人ひとりが見ている画面上で、教師が実物を手に取り、カメラに近づけて見せたり、角度を変えたりすると、それは教師が実物を見せながら机間巡視をする働きかけと同様でありながら、しかしわざわざ全ての机を回るという時間がかからないという大きなメリットがある。目の前で実物が動くので、プロジェクターで画像を映し出すよりもリアリティを持たせることもできるのである。

コロナ禍によって、働きかけが難しくなったと思われた実物を見せるという「実体化」であったが、実は逆にコロナ禍によるオンライン授業によって、生徒一人一人に、「画面を通じた平等な距離感」で、しかも同時に見せられるという新たな手応えを感じているのも事実である。

「聖書のみ」「恩寵のみ」「信仰のみ」
この3つの標語はドイツの神学者であるマルティン・ルターの考え方を示すものとして広く知られている。彼は、主著『キリスト者の自由』の中で次のように述べている。
「然らばキリスト教界において、かように彼等がすべて祭司であるとすれば、祭司と平信徒との間には一体どういう区別があるのかと問う者があるかも知れない。私はこう答える。祭司とか僧侶とか聖職者とかこの種の用語が一般の人々から取りのけられて、今や聖職者階級と呼ばれる少数の人々にしか適用されなくなったという事実が、これらの用語法を不当ならしめたのであると。聖書には、学者たちや聖職者たちを単に奉仕者、僕、執事と呼んで、つまり他の人々に向ってキリストと信仰とまたキリスト教的自由とを説教すべき任務を負う者となしているだけで、それ以外に何の差別をも認めていない。」

これは神の元に集うキリスト者の間には差別や違いのようなものがなく、みなが平等に神に仕えるものであるとする「万人司祭主義(万人祭司主義)」と示した一節とされている。そして、みなが平等な距離感で神と接しており、特別な差がそこに存在しないことを一層確かなものにしてくれるのが、聖書の存在であり、その聖書を一部の者だけが読むことが可能になってしまっている限り、聖書が読める者とそうでない者との差別を取り去ることはできないと考えた。そこで、ルターは誰もが、他の者の解釈・思想に邪魔されることなく聖書という唯一のメディアを介して神と直接つながることができるように、聖書のドイツ語翻訳に取り組むわけである。これがルターの考え方の特徴の一つである「聖書中心主義」を体現したものといえる。このような聖書を信仰の拠り所として重視するルターの立場は「福音主義」とも呼ばれる。

オンライン授業は、キリスト者が聖書に記された福音を介して平等な距離感で神と直接つながる構造と同様に、生徒がPCの画面を介して平等な距離感で教員と直接つながる構造のように思える。ただ断っておくが、教員が神のような存在であるというような傲慢な捉え方の例として取り上げているわけではなく、構造上の共通点を示したいがための「具体化」である。

このようにオンライン授業は画面という一つの世界に注目させて、そこで展開ができる。そのとき何かの画像や文字カードを見せるとしても、それらをカメラに近づければ、画面いっぱいにそれらが映ることになり、そこに映ったものによって生徒の関心を独り占めできるという強みもある。

このオンライン授業ならではの、生徒と教員のつながり方について、試行錯誤をして、学びの質を高めていきたいという、新しいワクワクに私は支配されつつある。コロナ禍でのオンライン授業は、当初、対面授業ができないということで単にネガティブなものに思われていたが、その中に新たな光明を感じている。
つまりは「不幸中の幸い」または「禍を転じて福と為す」となるだろう。
特に今日の話に基づけば、「コロナ禍を転じて福音と為す」と表現しても良いだろう。

#哲学   #ルター   #万人司祭主義
#学問への愛を語ろう   #オンライン授業
#世界史がすき

(以下、オンライン授業に関わる試行錯誤を紹介)

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