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▶無『意』味・感想〔56〕◀(2023年12月23日)

(気楽で無責任なシリーズ。純粋に何となく綴った短文の塊。ほとんど意味はない感想。)

昨日の写真。
半年ぶりのシンガポール。
心のアンテナに引っかかったものをすかさず撮影。

ホテルに戻って確認すると、おやっと思う写真がちらほら。
気になったのは、2つのお店の写真。

一つはセブンイレブン。
もう一つはスターバックス。

見る限り特殊な状況はなく、構図も凡庸。
それなのにどうして。

シンガポールでは「普通」ゆえに写真に収めることに対する違和感。
しかしラオスでは「違和感」ゆえに写真に収めたくなる対象。

私の心のデフォルトは現在ラオス設定。
だからセブンもスタバも違和感の対象。
だから思わず写真に撮った。

昨日の写真を見返すとき。
頭の設定はシンガポールに変更済み。

心の設定が感知した違和感は対象。
頭の設定が捕捉した違和感は行動。

心と頭のせめぎ合い。
異なる次元の違和感の争い。
昔から延々続くやりとり。

ソクラテスならば、主知主義。
プラトンならば、魂の構成。
アリストテレスならば、説得の要素。
ヘレニズム期ならば、ゼノンとエピクロスの立ち位置。

中世全般ならば、信仰のクローズアップ。
中世後半ならば、信仰と理性の綱引き。
アクィナスは問題提起。
スコトゥスは信仰重視。
オッカムは理性重視。

ルネサンスならば綱引きの激化。
宗教改革ならば信仰の本質へ。
科学革命ならば理性の本質へ。

デカルトならば二元論。
カントならば主観という名の信仰領域。
ヘーゲルならば客観という名の理性領域。

キルケゴールならば両者の融和は有神論。
ニーチェならば両者の融和は無神論。

信仰と理性の融和。
心と頭の融和。
どちらが優位なわけでなく、どちらも人には欠かせない。

気づけば話が逸れていた。
話は文字を使うから、ロゴスで頭の暴走か。
しかし話を逸らしたきっかけは、パトスで心の暴走だ。
暴れるパトスをロゴスで表現。
二者択一のものでなく、両者があって人間か。

パトスを具現はロゴスだが、パトスを御すのもロゴスの仕事。
そろそろパトスを御してもらおう。

長文失礼。今日はここまで。

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