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▼哲頭 ⇔ 綴美▲(10枚目とバークリー)

(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)

今日の1枚は、私が大学2年生のときに描いた絵である。
この絵の中央にぼんやりと見える塔のような建物は、大学の最寄駅である目白駅から池袋方面の空を眺めたときに見える白い建物であった。それは豊島清掃工場の煙突で、200メートルを超える巨大な煙突であり、東京都で一番高い工場煙突のようである。

天気が良いときにこの煙突の方を眺めると、青々とした空の中に、真っ白な煙突だけが突き出していて、その青と白のコントラストがとても綺麗だったと記憶している。

しかし夕方を過ぎると、その印象は一変する。この煙突には照明などがついていないため、夜の闇の中にボヤっと何かがそびえているようにしか見えなくなっていき、しだいに闇に溶け込んで存在が分からなくなる。

そんな夕方の様子を描いたこの絵に私は『在る』というタイトルをつけていた。

「存在するとは知覚されることである」

これはイギリス経験論の思想家であるジョージ・バークリーの言葉である。彼によれば、物質が存在しているのは、誰かによって知覚されているからなのである。そして知覚というものは人間の心において行われるものであるため、世界は心の中に形成されるものであって、物質だけの世界が心とは異なる場所に存在はしないと考えた。それゆえ、彼の思想は「唯心論(観念論)」の一つとして理解されている。

確かに、夜の闇の中にそびえるあの白い煙突は、常識的に考えたならば、突然消えたり、移動したりすることはないので、太陽の光が届かなくなった後でも、その場所に存在しているはずである。しかし、我々の視界において、太陽が沈んだ後では、それを知覚することはできず、存在していると思えなくなってしまう。

それゆえ、「在る」はずと信じたくても、自分が知覚できていない以上は、自信をもって「在る」とは言えなくなるのも仕方がないのではないだろうか。もし知覚できていないにも関わらず、「確かに在る」と主張するとすれば、それは見えていないものを「見えている」と言っているような状態になってしまう。

ここには観念論と実在論という存在に関わる大きな対立構造が横たわっているので、ここでは割愛させていただく。

しかし、私の絵の中では、夜の闇が白い煙突を完全には飲み込んでいなかった。だから、そこには確かに煙突は「在った」のである。あの煙突は、目白駅から眺めるあの景色の中に今も「在る」のだろうか。(以前撮りためた写真を見ていたら、シンガポール時代の2017年に一時帰国したとき撮影したものがあった)

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#私の作品紹介


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