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【小説】 第二秘書浅見賢太郎 【Ⅲ】


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 新宿会館での少年部講演会を終え、楽屋へ戻った正文学会・会長の吉原大源は怒鳴りつけるような勢いで浅見を呼び出した。

 楽屋での待ち時間。長い昼寝をしていた吉原は夢を見た。
 彼は夢の中、見た事もないほど巨大な水族館に居た。そこで美女の飼育員に手ほどきを受け、水槽の中で泳ぐ鯵を網で一挙に掬い上げたのだった。
 そんな夢を見たおかげで吉原はかつて小田原で食べた「鯵鍋(つみれ鍋)」を思い出し、猛烈な勢いで鯵鍋が食べたくなってしまったのだ。

 次の予定を広宣鼓舞だの支部指導だの、即刻適当な理由をつけ小田原周辺にし、その時に鯵鍋でも、と考えていたのだが、鯵鍋のことを考えているうちに吉原はどうしてもどうしても食いたくて、ついに我慢出来なくなってしまっていたのである。
 第二秘書着任早々、猛烈な勢いで吉原に呼びつけられた浅見は額に汗を滲ませていた。

「おい! 大至急、小田原の料亭「安楽庵」に連絡を取ってくれ! 大至急だ! 本日店の席が空いてるかどうか、確認してくれ!」
「あ、安楽庵ですね、かしこりました!」

 浅見は全速力で走り、会館の電話で本部へ連絡を取った。相手は第一秘書の野村である。
 何か分からない事はすぐに聞くよう言われていた。

「すいません、浅見です。早速ですが、先生が小田原の安楽庵へ、大至急今日空いてるかどうかの確認を、との事なんですが、あの、えっと……」
「浅見くん。メモはいいかな?」
「は、はい!」
「〇四六五…………ここへ電話して、本日の予約がこれから取れるかどうかすぐに聞くんだ。いいね? また何かあったら聞いてくれ。先生をあまりお待たせさせてはならんよ」
「は、はい! えと、ありが」

 礼を言い終わらぬうちに、電話は切れてしまった。とっとと確認しろ、という事である。しかし、第一秘書を務めるだけあって野村の対応は迅速であった。
 無我夢中でダイヤルし、安楽庵へ確認すると「本日は定休日です」と言われてしまった。
 血の気の引いた浅見であったが、念の為明日の予約状況を聞くと、いつでも大丈夫との事であった。

 浅見は吉原の待つ楽屋へ戻ると「本日は定休日です」と吉原に報告した。
 吉原は悔しさのあまり、両手でテーブルを力任せにぶっ叩いた。食いたいのに食えない状況が、吉原の身体を一気に熱くさせた。
 浅見は恐怖のあまり、全身を震わせた。

「せ、先生……安楽庵さんは、そ、そんなに大事な用件だったのですね……」

 吉原は間違っても「単に鯵鍋が食いたかった」などとは言えないので、適当な理由をつけることにした。

「うむ……実は講演中に釈迦より啓示があってな。安楽庵にな、一家全滅の危機が差し迫っておるとのことだ。残念だが……主人は日頃愛用している出刃包丁で自害し、カミさんは頭がイカれて脳が沸騰し、発狂死するそうだ。彼らが正文信者であれば私の意識と無意識に繋がれるので助けに行けたのだがな、あそこの家はなんせ無宗教でな(正文会員なら店休だろうが主人が倒れてようが病院から引っ張り出して無理にでも店を開けさせて鯵鍋を作らせておるわ! このクソ馬鹿秘書めが!)……ちなみに、次はいつ空いてるか聞いたのか?」
「はい。明日ならいつでも可能だと」
「うむ。(お、少しは使える小僧だな。)では……明日の一番で頼む。時間がない」
「かしこりました!」
「その為、今夜は小田原で宿を取ることにしよう。早速、伊坂旅館に電話してくれ。私の名を出せば通じる。」
「はい! かしこりました!」

 先生の受けた啓示を伝える為だ!
 浅見は再び全速力で会館内を走り抜ける。
 再び野村に電話し、伊坂旅館の番号を聞き出し、急いで電話を掛けた。

「あの、私、吉原大源先生の第二秘書の浅見と申します」
「まぁ、あなたが。お話は伺っております。今夜ですか?」

 おっとりとした口調で年配だと分かる女性が電話に出た。恐らく女将だろう。しかし、何と話が早いのだ。

「そうです。今夜です」
「では、藍の間を御用意させて頂きますわ。どうか、道中お気を付けて」
「ありがとうございます!」

 再び全速力で楽屋へ戻ろうと振り返ると、すぐ傍に吉原が立っていた。

「おい、行くぞ。藍の間だろ?」
「せ、先生! 何故ご存知で……」
「何故と? はっはっは! 私には、分かってしまうのだ。先程の安楽庵はおまえを試したに過ぎない。さぁ、出発だ。」

 浅見は、はい!と勢い良く返事をして、ベンツを取りに走り出した。
 伊坂旅館は昔から一家ぐるみで正文信者であり、藍の間は基本的に吉原大源しか使えない特別室なのだ。
 なので空いていて当然なのであった。

 小田原へ向かう車中、吉原は流れるビルの谷間を眺めながら退屈凌ぎに浅見へ声を掛けた。

「浅見くん、君の出身は、えーと」
「ぐ、群馬です。群馬のK町という、小さな町です」
「あぁ、あの空っ風の凄いとこね」
「は、はい。冬はもう手が冷たくて冷たくて堪らなかったです……」
「私ほどになれば自然などコントロール可能ではあるが、並の人間は自然には勝てぬからなぁ。そうだ、おい。群馬出身なんだろ?」
「え? あ、はい」
「じゃあ、語尾に「群馬」ってつけて喋ってみたら、こりゃ傑作じゃないか」
「はい?」
「だから、語尾に「群馬」ってつければ良いんだよ」

 突然出た吉原の珍妙な提案に浅見は混乱していた。一体どういうことだろう。けれど、先生の仰る事だ。きっと、何か重大かつ試練的な意味があるに違いない。

「寒いならさ、今日は寒い、の後に「群馬ねぇ」ってつけりゃ良いんだよ。ほれ、やってみろ。」
「今日は寒い群馬ねぇ……です、か?」
「だっはっはっはっ! こりゃあ傑作だ! だーっはっはっはっ!」

 ベンツの車内から飛び出さんばかりの大声で、吉原がバカ笑いする。
 一体どういう意味なのだろうか? 浅見は考えるが、全く見当がつかない。しかし、当然である。
 浅見は吉原のただの思いつきに付き合わされているだけなのだ。

「だっはっはっはっ! おい、「お腹すいた群馬ねぇ」でもいいんだぞ、だっはっはっはっ!」
「お、お腹すいた群馬ねぇ……」
「だーはっはっはっ! ひぃーっ! こりゃあ、おまえ傑作だ! 青年よ、君は今日から「群馬」だ! 群れぬ馬のように、気高くあれよ、なんつってなぁ! だーっはっはっはっ!」
「傑作、あの、え……はい……」
「おい群馬、おまえの出身はどこだ!?」
「はい、群馬です」
「ブーッ!! だっはっはっはっ! だーっはっはっはっ! はぁー!」

 後部座席に蹲る吉原は腹を抱え、笑い狂っている。文字通り、抱腹絶倒である。吉原がずっと一人で笑っているものだから浅見は考える事をやめ、笑いが収まるのを待つことにした。
 東京を抜けて神奈川に入る頃、ようやく「ひー、ひー」と肩で息をしつつも、吉原の様子が落ち着き始めた。

「せ……先生」
「なんだ、群馬! ぶっ!」

 吉原が思わず噴き出す。しかし、構わずに浅見は続ける。

「あの、今のは一体……どんな意味が……」

 すると先程とは打って変わった真剣な顔つきで、吉原が毅然と答える。

「良いか、群馬よ。こんな風にして私が突然笑いだす事を、おまえは想像が出来たか?」
「い、いいえ……!」
「では聞こう。宇宙とはなんだ?」
「う、宇宙ですか!? あの、その、えっと、星があって、地球、暗くて……」
「馬鹿者! 目で見て分かる宇宙の話ではない。宇が空間であり、宙が時間であろう。万物一体だろう。一念三千。忘れたか? つまり、過去も未来も物質も万物は今、ここにあるのだ。私が笑い出すという事を、群馬が予見出来なかったのは、何故だ!?」
「はっ! 私が至らぬ為です!」

 浅見は気付かされた。先生はその存在そのものが過去も未来をも超越していたのだと。全て見越した上で、自分を成長させるために一芝居打ってくれたのだと。維新完遂の時、人は時空を超えた存在になれる……流石は先生だ……。

 吉原は窓の外を眺めながら、想う。理由なぞあるか。暇だから小馬鹿にして遊んだに過ぎぬわ。しかし、私のとっさの出まかせ言葉も衰えてはいないな。あと十年、これでやれるわ。しかし、それにも関わらず私が至らぬ為と……!
 こいつ、「群馬」と呼ばれても何ら疑問に思わずに返事してやがる。
 そう思っている内に、吉原は再び噴き出した。

「先生、あの……申し訳ありませんでした」
「良いんだ。群馬くん、君はまだ若い。運転に集中したまえ。さっきからな、黄泉の国の連中がしつこく私を呼んでいるのだ。少々向こうへ行ってくるから、小田原に着いたら起こしてくれたまえ。おい、松任谷由実のテープ、流しといてくれよ。では」
「はい! かしこりました!」

 吉原は急激に襲われた眠気に耐え切れず、そのままユーミンを子守唄に眠りについた。
 浅見はそれを瞑想と思い込み、慎重にハンドルを捌く。

 そして辿り着いた伊坂旅館。恰幅が良く、愛想の良い女将が出迎えてくれた。年配だが女である事を忘れていないな、と浅見は思う。
 女将に案内され、歴史と威厳を感じさせるような廊下を歩く。隅に置かれた間接照明や花もわざとらしくなく、シックな雰囲気を演出していた。

 旅館に着くなり早々、「修行する」と浅見に一言だけ告げ、吉原は藍の間に消えて行った。
 部屋に付いた吉原専用露天風呂に身を沈め、ディナーは和牛オードブルとフランス産ワイン飲み比べ。食後はデザート代わりの新宿から呼びつけたニューハーフショーを鑑賞する予定だった為、吉原は大忙しなのであった。

 こんな敷居の高そうな旅館でも修行とは……先生には休息というものが無いのだろうか……浅見は驚愕を覚えつつ、案内された狭い六畳の「銀杏の間」でスーツを脱いだ。

 浅見は人の多い大浴場を手刀を切りながら奥へと進み、大露天風呂に身体を沈み込ませ、深く息を吐く。
 今日は神経が張り詰めっぱなしだった……まさか着任早々泊まりにはなったが、俺が先生のお力になれる日が果たして来るのだろうか? 第一秘書の野村さんのあの迅速さ……今の俺はどう比べても、勝てっこない。
 俺なんかルックス頼みの折伏でのし上がった、ぽっと出の男に過ぎない。
 しかし、いつか必ず! 先生のお役に立ってみせよう。まだ始まったばかりだ。先生が自分を指名してくれたのも、きっと未来を見据えての事だ。賢太郎、不安を覚えるな。先生を信じ、そして爆進あるのみだ!

 浅見は素泊まりの扱いだったので夜食を買いに外へ出た。途中、廊下で和牛のオードブルを乗せたワゴンと擦れ違った。

 何て良い匂いなんだ……しかし、我慢、我慢。欲は考えれば、そして追えばキリがない。先生だってきっと今頃、修行に耐えているんだ。頑張れ、賢太郎!
 しかし、運ばれて行った和牛のオードブルを載せたワゴンは吉原の「おかわり」用のものであった。

 吉原が「朝一番で」というので、午前十時に安楽庵に到着した。
 群馬くんは車で待機していなさい、と吉原に命じられ、浅見は緊張の面持ちでひたすら車内で待機していた。

 先生が今、一家全滅の危機を救いに行かれた。心なしか、この料亭には禍々しい負のオーラが吹き溜まっているように見える。どんな方法で、そしてどんな言葉で、先生はこの一家をお救いになられるのだろうか……。

 安楽庵の扉を開けた吉原はやたらと愛想笑いを浮かべ、「あの、吉原です。あのぅ、お電話で……そうですそうです! どうもどうも。今日は良い席があるかなぁ……? ここの鯵鍋にね、私はどうにも目がなくて。鯵だけに味が良い、なんつって。ここは鯵のアジトですか? なんつって、ははは」と絶望的なセンスの駄洒落と社交辞令を交えつつ、今にも垂れてきそうな涎を精一杯に堪えていた。

 吉原は庭園を見渡せる個室に案内されたが料亭自慢の庭には一瞥もくれず、運ばれて来た鯵鍋を見た途端に涎を垂らした。
 繊細、という色をした香り高い琥珀の出汁に浮かぶ、生のままでもいけそうな新鮮なつみれ。そして、息吹きを未だ感じさせてくれそうな野菜達。
 飢餓状態の野豚と化した吉原は、一心不乱に鯵鍋にがっついた。

 それから約一時間後。破裂寸前となった太鼓腹を叩きながら、悠然とした足取りで吉原が戻って来た。
 運転席から降りて吉原を出迎えた浅見は、驚愕を隠せずにいた。

 たった今、一家全滅の危機を救いに行った先生が帰ってこられた! しかも、あの御様子……! 悠然と歩いておられる……!

 否。ただ単に食い過ぎただけである。

「先生! ここの御一家は……」
「はっはっげっぷ! 群馬くん! 心配には及ばない。なぁに、私なりにだが、げっぷ! 悪鬼退散の儀を執り行っげっぷ! 主人に宿っていた邪気を祓って来た。うむ、実に美味かった」
「美味かった!? ですか!?」
「え!? いや、行き場をなくした悪しき邪気を食ったまでだ。さぁ、行くぞ。しかしな、礼を言われてしまったよ。つくづく、私も人が良い……」
「信者でもない、それも見知らぬ家族の為に先生は邪気をお召しに……私は、頭が上がりません……」
「ははっ。なぁに、お人好しの大源がまた出てしまっただけさ! はっはっはっ! よし、本部へ帰るぞ」
「はい!」

 ふぅ……やばいやばい……思わず「美味かった」などと漏らしてしまった。こいつが馬鹿で助かったわ。しかし、礼を言われるのは当然だ。なんせ四人前を一人で食ったのだからな。はっはっはっ!

 すっかり漢字も文章も人並みに成長した浅見の日記には、こう書かれている。

「小田原のある料亭一家の危機を、先生がお救いになった。先生はなんと、主人についていた邪気を食べてしまったとのことだ。そして「私はお人好しだ」と、豪快に笑っておられた。心なしか、先生が戻られてから料亭に漂っていた禍々しいオーラが消え去り、料亭は由緒正しき長年の歴史を持つ、光り輝くオーラをまとっているようにも思えた」

 実際に、安楽庵は由緒正しき長年の歴史を持つ料亭なのであった。
 ただ、それに気付いただけに過ぎない。
 浅見の思考の底には、本人と行動を共にしていようとも正文学会・会長「吉原大源」というフィルターが無意識に掛かってしまっていたのである。

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