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【小説】 あなたの棺で眠らせて 【ショートショート】

 面長と髭、伸ばしっぱなしの髪の毛。無骨な見た目の癖に石鹸の匂いがする彼は、まるで死んでいるかのように静かに眠りに就いている。
 ベッドの上で仰向けになって、寝返りひとつ打つこともない。
 器用な人だな、と毎晩思わされる。私の寝相と来たらそれはそれは酷いもので、床に寝ていたはずが起きたらベッドの下に潜り込んでいたり、転げ回った挙句リビングを抜けてキッチンで目を覚ましたりと、夢遊病なんじゃないかと思うほどだ。

 私と彼は愛し合い、同棲している訳ではない。職も住処も失くした私が彼の家に転がり込んでいるだけに過ぎない。だけ、というのも偉そうな話だし、それに私は一円たりともお金を入れていない。
 それでも彼は私を責め立てたりもせず、毎日起きて淡々と朝のルーティンをこなし、作業着に着替え、仕事へ向かう。
 今朝は歯を磨く彼の背中に声を掛けてみた。裸になった上半身は細いのに筋肉が程良くついている。

「ねぇ、省吾って髭剃らないの?」

 鏡越しに切れ長の目を私に向けて、彼は答える。

「面倒臭いから、いい」
「ご飯食べる時、邪魔じゃない?」
「大丈夫。佑香は髭ないから分からないだろ」

 そう言って少しだけ笑う彼が、私は好きだ。
 
 私はこんなご時勢のおかげで経営の傾いたキャバの寮を追い出された。維持費が払えなくなったとか言っていたけど、あからさまに逃げる準備をしているのが店長の口ぶりで分かった。
 退寮日寸前。退勤直後にそれまで働いていた分の給料を受け取った。
 
「まさか飛ぶ訳じゃないよね?」

 そう問い詰めると店長は冗談じゃない、と言いながら笑い声をあげた。

「いや、いつ払えなくなるか分からないしさ。あげられるうちにやっとかないと心配になるでしょ? 宣言も解除されるし、店自体はまだやっていけるから」
「安心していいの?」
「大丈夫、心配しないでって!」

 翌日、他のキャストの子から「店がない!」とラインをもらった私は「やっぱりな」と思った。荷物だけまとめて一度外へ出て、スカウトに連絡を取った。この状況でどこも厳しいけど、「ヌキなら」と言われて私はすぐに電話を切った。
 色々悩んだ末に腹を括るしか無いか、そう思って帰って鍵を回すと鍵が入らなかった。
 
「え、嘘でしょ」

 部屋へ入れない代わりに、私のキャリーバッグが廊下の隅にポツンと置き去りになっているのが目に見えた。
 そこからしばらく呆然としていたけれど、生きなければならない事に気が付いてキャリーバッグを転がしながら街を徘徊した。最初の数日間は漫画喫茶に泊まり込んだ。そして、やけっぱちになった私は朝っぱらから立ち飲み屋でクダを巻き始めた。愚痴を零してから初めて、人はまた立ち上がれるのだ。
 歯の欠けた年配のおじさん相手に世知辛い愚痴を零していると、左隣で話を聞いていた彼が声を掛けて来た。

「うち来れば? 目処がついたら勝手に出て行ってもらって構わないし」
「え、良いんですか?」

 それが彼、省吾だった。細くて背が高く、落ち着いた話し方の彼は正直私の好みだった。身体のひとつかふたつくらい覚悟しながら彼の部屋へ入ると、整然と片付いた室内に私は少しだけ恐怖を感じた。
 無駄なモノが一切ない。腹をヘコませる変な器具や、サプリメントや、飲み掛けのペットボトルはもちろんのこと、ゴミやチリ一つなかったのだ。

「あの……一つ聞いても良いですか?」
「あぁ、どうぞ」
「ここで……人とか殺したりしてます?」
「まさか」

 まさかって言いながら、浅い呼吸をするように笑う彼を私は無条件に可愛いと思ってしまった。とにかく部屋を汚さないこと、そして寝る時は床で寝ることを私は条件として彼に提示した。

「別に汚しても構わないよ。俺、掃除好きだし」
「いや、最低限の礼儀といいますか、お邪魔させてもらう訳ですし」
「まぁ、寝るのは当然別々だけどな」

 そう言い切られてしまうと、言い出したのは自分の癖して何だか悔しくなった。

「ベッド、使えば? 俺は別に床でもソファでもいいんだけど」
「いえ、流石に申し訳ないです。頭パーなギャルじゃないんで、私これでも漱石とか好きなんですよ」
「漱石読んでてもパーな奴はパーだと思うけど」
「そうですよね、すいません」

 掴み所のない感じがまた、私には魅力的に映った。
 彼の名前は石田省吾。三十九歳。独身、彼女なし。恋愛歴、学歴、出身地、今の所不明。仕事は何かしらの作業員。趣味は飲酒と水煙草。
 ここまで知っていれば一緒に住むには十分でしょう。
 そんな風に思いながら生活を始めて一ヶ月。私はどんどん大胆になった。彼より先に当然のように風呂に入るし、ネット付の部屋でゴロゴロしながら一日を潰し、あまりの居心地の良さにスカウトの電話も無視し、テレビ権も彼から奪い、話し言葉は当然のようにタメ口に変わった。
 それでも彼は一切私を怒ることもなかったし、干渉しようともしなかった。ご飯を食べながら静かな口調でたまにこんなことを訊ねて来る。

「仕事見つかった?」
「ううん、全然」
「こんな状況だからな、大変だろ」
「うん、大変」

 遠まわしに「早く出て行って」と言ってるんだろうな、と思ったけれど全力で無視をした。彼の優しさに甘え放題甘え、挙句の果てに酔った勢いで眠ろうとする彼のベッドに潜り込もうとした。

「しようよ」

 意識して甘えた声でそう言うと、彼は私の額にアイアンクローを決めながらベッドから追い払った。そして、穏やかな声でこう言い放った。

「しないよ。おやすみ」

 本当に目を閉じてしまった彼に、私は食い下がった。
 
「なんで? ねぇ、ダメ? なんでダメなの?」
「おやすみなさい」

 それから間を置いて数回トライしたけれど、私が彼のベッドに辿り着くことはなかった。
 死体みたいに眠る彼を薄目で眺めながら、あれはベッドじゃなくて棺だな。と思うようになった。
 彼が毎晩安らかに死ぬ為の、彼の為の棺。そこに私が付け入る隙なんてまるで無かった。
 
 私は手段を変えた。彼との生活空間を快適なものにするべく、毎日掃除をするようになった。
 彼は私の努力に気付く日もあり、家に帰って来て部屋を見回して

「おぉ」

 と呟く日もあった。調理器具を揃え、女子力を発揮して彼の為に腕を奮った。
 彼は私は無理やり勧める手料理の数々を口に運びながら「旨い」と静かに頷いて、こう言った。

「料理上手いんだな。出て行く時、調理器具はどうするの?」

 違うんですよー、分かってねぇなぁ。と言いたかったけど、私は笑顔でいることを意識しながら「持って行くよ」と答える。そんな私の答えを聞いて、彼は「良かった」と呟いた。肩を落としながら、私は彼の空いたグラスにビールを注いだ。

 それから一週間後の彼の休日。なんと彼は私に外へ出ようと誘ったのだ。
 いきなりの誘いに私は喜びよりも先にパニックに陥った。

「ちょっと待って、服とか選んでないし、そんな急に言われても」
「いや、服なんか別になんでもいいでしょ」

 彼は部屋着のまま外へ出ようとしていた。黒いロングTシャツに紺の麻のパンツだったけれど、彼はそのまま外へ出ても違和感はない。

「私が良くないから! ちょっと待ってて」

 それから二十分掛けて服を選んだ。薄ピンクのスプリングカーディガンを選んで、私は外へ飛び出した。すると、彼の姿が無かった。すぐに電話を掛けると「駅前の立ち飲み屋にいますー」とのんびりした声で答えた。
 彼と初めて出会った立ち飲み屋へ何故か緊張しながら入ると、彼は私の姿を見るなり店を出よう、と言った。彼について行くと、そのまま駅に入って電車に乗り込んだ。

「何処行くの?」

 そう聞いてみると、路線図を眺めつつ顎を触りながら彼は「うーん」と漏らして言った。

「よし、水族館へ行こう」
「えっ、デートじゃん」
「デート? まぁ、なんていうか、お出かけだよ」

 私は予想外の行き先に一気にテンションが上がったけれど、彼はポケットに手を突っ込んだままその手を握らせる気配すら見せなかった。
 それほど大した会話もせず、私達は水族館へと辿り着いた。
 
 こんなご時勢でも水族館はだいぶ混雑していた。けれど、そんなことも気にならないくらい私は嬉しかった。
 あの部屋以外の場所で、こうやって彼と魚を見ていること自体が奇跡みたいなものだ。 
 彼は時折魚を指差して何か説明してくれていたけれど、正直全然頭に入って来なかった。目の前を泳ぐ魚を観るより、この状況を味わうことの方が私にとっては最重要課題なのだ。

 それでも私はクラゲの群れの前に立つと、思わず目を奪われてしまった。
 ゆったりと、悠々と水の中に浮かぶクラゲはどこか彼に似ていた。

「ねぇ、クラゲって省吾さんに似てるよね」
「どこが? 顔?」
「違うよ、なんか飄々としてる感じとか」
「そう? クラゲってさ、脳がないんだよな」
「嘘でしょ?」
「本当だよ。ウニとかヒトデも脳がなくてさ、身体中の神経が外に反応して動いてるだけなんだって」
「何でそんなこと詳しいの?」
「暇だから」

 クラゲを眺めながら、彼は静かに笑いながらそう言った。なんていうか、なんと寂しい人なんだろうと私は思ってしまった。寂し過ぎて、離れるのが傍に居るこちらの方が怖くなる。
 彼は水槽を軽く指で弾きながらこんなことを続けて言った。

「こいつら、脳がないのに眠るんだって」
「生き物って脳が疲れるから眠るんじゃないの?」
「普通はね。でも、こいつらは眠るんだよ」

 私は夜の棺で眠る目の前の彼の姿をふと、思い出した。
 普段は飄々としていて眠ると微動だにしない彼の姿と、脳がないのに神経反射だけで動いてそれでも眠りを必要とするクラゲの姿が見事に重なった。
 少しだけクラゲが愛しくなって、私は楽しい気持ちで水の中を浮かぶクラゲの一匹一匹に目を向け始めた。
 
 彼はクラゲを見つめたまま、少しだけ強張った声で言った。

「悪いんだけど、近いうちに出て行ってくれないかな」

 突然、目の前が暗くなった。まさかの彼の言葉に、私は返す言葉を失った。思い当たる節は幾らでもあるから出て行け、というのは当然の言葉だったけれど、それでも受け入れたく無かった。
 声が震えているのが自分でも怖いくらいに分かった。恥ずかしいとかよりも、ずっとずっと怖かった。

「何で、そんなこと言うの?」

 彼は片手をポケットに入れながら水槽を指で弾いて、静かに私を向いた。

「うん……好きな人が出来た」

 全然嬉しそうな顔じゃなく、むしろ悲しそうな顔で彼はそう言った。

「本当は私が嫌になったんじゃないの? すごくワガママだし、自分勝手だし、お金も入れてないし。私のこと……うざくなったんでしょ?」
「いや、楽しかったよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「だったら、何でこんな……急に言うの」
「……祐香を見てて、辛くなった。祐香にはまだ有り余るくらいの将来があるのに、俺はもう将来になっちゃってたからさ」
「そんなことない、絶対にない」
「なんでそんな風に言えるの? 何も知らないだろ、俺のこと」
「…………」
「それに冷静に考えてみたらさ、祐香はこんな枯れ親父と一緒にいちゃダメだよ」

 こんな時だけ正しいことを言って、そんな風に笑うから、私はやっぱりこの人が好きだと思わされてしまう。
 知らない間に私はボロボロ泣いていて、通り過ぎる人達の視線がクラゲじゃないのを痛いほど感じた。
 マスクをしてたのがせめてもの救いだったけれど、私が泣いている間中、彼は慰めの言葉の一つも掛けないで、ただ黙って私の傍に立ってクラゲを眺め続けていた。
 そんな彼の優しさを、初めて腹立たしく思えた。

 その晩、彼は夕方に出掛けた切り返って来なかった。
 私は心配になって彼に訊ねる理由を考えていると、彼から

《呑みすぎたのでネカフェに泊まります》

 とだけラインが入って来た。
 呑みすぎたなら帰ってくればいいのに、と思いながら了解とだけ返事をして灯りを消した。 
 カーテンの向こうの夜に薄明かりが射してるのが見えてそっとカーテンを開けてみると、静けさに包まれた街の上空に満月が浮かんでいた。
 それは昼間に見たクラゲにとても良く似ていた。
 
 青白く染まる部屋。彼の棺の上に、この部屋へ来て初めて身を横たえてみる。
 紺碧の天井を見上げながら、私はこの手に入れられなかった彼の匂いに包まれる。石鹸に混じる煙の香りと、微かな砂誇りの匂い。
 最初で最後の抱き締められているような感覚を噛み締めながら、私は嗚咽を漏らした。喚くようにして泣いてしまった。
 いつか消えてしまってもいいから、私の涙が棺に滲みたらいいのに、と思いながら泣いた。

 二時間ほど眠り、私はスカウトに連絡を取った。
 スカウトからの連絡を無視している間に、紹介したい店が見つかっていたようだった。前に勤めていた店のライバル店で、もちろん寮もある。
 私は二つ返事で入店することを伝え、それからすぐに荷物をまとめた。

「ありがとうございました」

 そう呟いてから誰もいない部屋に向かって頭を下げ、最後にベッドに目を向ける。
 いつか、一緒にあの棺で眠らせて欲しかったな。
 でも、もう大丈夫。ありがとう。
 キッチンを通り鍵を開ける。
 ふと、調理器具が残されていることに気が付いた。
 けれど、敢えて残して置くことにした。次にここで料理をするのはきっと彼の言う「好きな人」ではなく、気まぐれを起こした彼なのだろうから。

 「バイバイ」

 玄関を開けて、鍵を締める。ポストに鍵を入れて空を見上げると青い夜は澄んだ朝方へ変わろうとしていた。
 そうして私はまた、狂騒めいた街の中へと戻って行った。
 
 慌しさを徐々に取り戻しつつある夜の街で、私は今日も生きる為に働いている。くたびれて帰る朝方の部屋。そして、眠りに落ちる朝。 

 寝相は変わらず酷いものだし眠りはいつも浅いけど、たまに彼の棺を思い描きながら深く眠る日もある。

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