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【#絵から小説】 去りて離れぬ夕暮れに 【ショートショート】

 山に囲まれているこの街に夕陽が射すと、他の街よりもずっと濃い色の影が出来る。
 夕暮の街角を抜け、裏路地に鈴の音が響くドアを開ければそこが母の職場だった。母子家庭の僕は幼少期の大半の夜を、酔客の嬌声と煙の混じる空間で過ごして育った。

 今年、僕は十七歳になる。ずっと母子家庭だとばかり思っていたが、客の常田というオッサンが最近うちに入り浸っている。
 家に帰れば母は嬉しそうに「お父さんって呼ぶ練習しといてね」と言い、常田は横になりながら「俺に息子か」と満更でもない顔を向けてくる。
 
 そんな家に帰りたくなくて、学校が終わると市内を流れる渡良瀬川をぼんやり眺める時間が増えた。欄干に手を乗せて川を見下ろしていると、中学からの同級生が声を掛けて来た。

「正彦、何してるん?」
「川を見てたんさ」
「へぇ、何かいるん?」
「いや……ぼーっとしてた」
「ふーん。そういえば水野佳代、夏休み帰ってくるらしいんさ。聞いた?」
「LINEもらった」

 水野佳代。彼女はずっと僕の幼馴染だった。物心ついた時から一緒にいたけれど、中学卒業と同時に親の仕事の都合で東京へ越してしまった。
 それでも彼女とその両親は、夏休みや正月になると今は叔父が住む本家に宿泊しにこちらへ帰って来るのだった。

「この街がずっと好きなんさ。匂いも、空気も、全部好き」

 昨年、古びた商店街に川の匂いが混じる夕暮時に彼女はそう言っていた。きっと純粋な心で言っていた彼女を、彼女の知らない場所で悪意のある噂が襲っていた。それを噂するのはこの街に住む僕らの元同級生の人達だった。
 先日。駅のベンチに座っていると背後からこんな会話が聞こえて来た。

「佳代って東京行ってからずっと調子ノッてね? 毎度帰って来るのもウチらを見下すタメっしょ?」
「そうそう、鈴木が正月に男連れて歩いてるの見たらしいんさ。夏休みに連れてた男と違う男だって」
「ほらー、やっぱりそうじゃん。あいつ東京でパパ活してるんでしょ? 瀬野がサイトで佳代のプロフ見たって」
「てか、パパ活サイト見てる瀬野もヤベーんだけど」
「あっはっは! 言えてるー」

 まるで無邪気に広がって行く悪意を前に、僕は「違うよ」と言えなかった。ただ黙ってその場をやり過ごしたのは佳代のことを信じているからじゃなかった。本当のことを知るのが怖かったからだ。

 夕陽が線香花火みたいにポツリと山に落ちると、街は夕闇に包まれる。丸い形の古い街灯が続く道を抜け、家に帰ると母と常田が出掛け支度をしていた。二人揃って妙に、呼吸を荒くしている。

「正彦、今夜は遅くなるから。これで、ね?」

 僕に三千円を手渡した母が玄関に向かう。鍵を締めようと玄関の前まで行くと、玄関に残った常田が脂ぎった顔で僕を上から下まで眺めてからこう言った。

「……俺が十七ん時はなぁ、とっくに自立してたぞ」
「あぁ……そうですか」

 それだけ返して、僕は玄関を締めた。

 そんな夜が何度か続き、気が付けば僕は夏休みに入っていた。明日が誕生日だったその日、母と常田は昼間から出掛け支度をしていた。ボストンバッグまで用意している。
 台所から僕を手招きした母は、声を潜めてこう言った。

「ツネさん、新しい家買ってくれるって。だから早くお父さんって呼んであげて。あと、近いうち引越すからそのつもりでね」
「引越すって、どこ行くんさ?」
「東京、かも」

 母はそう言って、一瞬鼻を膨らませた。もう新婚旅行でもどこでも好きに行ってくれ、と思いながら僕は黙って二人を見送った。
 この街を僕は離れてしまうのだろうか。どうしようか、そんなことを思っているとインターフォンが鳴った。

 ドアを開けると汗を掻いて笑顔を浮かべる佳代が立っていた。しばらく見ないうちに背も髪の毛もすっかり伸び、だいぶ女らしくなっていた。

「まーちゃん、久しぶり。上がっていい?」
「おう、久しぶり。急にどうしたんさ?」
「誕生日でしょ? おめでとう」

 誕生日は明日だったけれど、僕はそれを言わずに素直にプレゼントを受け取った。プレゼントは「欲しいけど手が出せない」と前に彼女に伝えていたスニーカーだった。

「これ、高かったんじゃないの?」
「そう? 東京だと安く買えるんさ。こっち帰って来たら誰も掴まんなくってさ、参った参った。高二の夏はみんな忙しいんだね」
「え? あぁ、受験勉強とか、早いヤツはもう始めてるし」

 悪意のある噂のせいで街が彼女が拒んでいることを隠したまま、僕は彼女を部屋に招き入れた。逃亡犯を匿うような気持ちがした。

「うわー、懐かしいなぁ。帰って来たって感じる。本家って言ってもやっぱ他人のうちだよ。あー、落ち着く。まだバズの人形飾ってたん? ウケる」
「捨てるんも忍びないからさ。座れば? 何飲む?」
「じゃあ、ジンバック」
「酒なんかないよ。佳代、お酒飲むの?」
「何焦ってるんさ?」
「いや。麦茶持ってくる」

 平気で酒の名前を出した佳代に僕は心底驚いていた。そういう付き合いを早くもしているのだろうか。東京で過ごす彼女を想像すると、バズの人形を飾っている僕は自分がひどく子供じみて思えた。

 ベッドに並んで腰掛けると、昔よりもずっと大きな隣の彼女に僕はなんだか他人を感じてしまった。ここに並んで座っていた最後の記憶は確か小学校高学年の頃だった。
 他愛ない話が続き、時間はどんどん過ぎて行った。それでも東京でどんな遊びをしているのか、彼氏がいるのかは聞き出せずにいた。その代わり、こんなことを訊ねてみた。

「佳代はなんで休みの度に帰って来るん? 何もないで、こんな街」
「今はまーちゃんがいるから。私はここに居たんだなーって、たまに思うことにしてるの。勝手かな?」
「いや、嬉しいけどさ……東京、慣れないんかい?」
「ううん。慣れたよ」
「そっか。まぁ、また帰ってくればいいよ」

 僕自身が東京に越すかもしれないことを言えないまま、時間だけが過ぎて行った。外からは夕方の強烈な陽射しが差し込んで、部屋を橙に染めている。彼女の高い鼻が顔に濃い影を作る。あまりに近いその顔を覗き込んでいるうちに、僕は自身の中から手を付けられないくらい凶暴な欲求が湧き上がって来るのを感じてしまった。
 しばらく無言の時間が続き、僕は堪え切れずにいきなり彼女をベッドに押し倒した。

「まーちゃん、ダメだよ!」
「……だって」
「違うの、本当。ごめん、離して」
「何で?」
「離して!」
「……俺は、ダメなん?」

 思わず口をついたその言葉に、彼女の目に突然大粒の涙が浮かぶのが分かった。
 きっと、彼女はこの街の悪意に気付いていたのだ。それを知っていて、ここへ訪れて来たのだ。
 彼女は僕をベッドから突き飛ばすと、部屋を飛び出して玄関から出て行った。 
 怒っている顔じゃなくて、とても悲しい顔をしていた。

 彼女を追って外へ出ると、信じられないほど鮮やかな茜色が空を覆っていた。

 あまりに鮮やかで、僕は身動きすることを一瞬ためらった。
 そして、彼女を追い掛けない言い訳が出来たと、考えてしまったのだ。
 そんな愚かさに気が付くと、僕は彼女の背中が消えた路上に向かって呟いた。

「……俺の誕生日、明日なんさ」

 立っているだけで、季節のせいか身体のあちこちが汗ばんだ。そうしながらもう届かないその声を、きっともう二度と伝えられないそんな馬鹿みたいな言葉を、僕は必死になってもう一度呟いていた。

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ここまでお読み頂きありがとうございました。
今回は以下の清世さんの「絵から小説」企画に参加させて頂きました。

想像力を書き立てる三枚の絵から、一番最初に心の目についた作品を選ばせて頂きました。
ルールギリギリの本文2990文字の小説となりましたが、プロットの作成、ストーリーの背景など久々に全神経を集中させて書きました。

何か伝わるものがあれば幸いです。

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