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【小説】 低空飛行の神様 【ショートショート】

 母親に算数のテストの点が悪かったことを叱られている間、リビングテーブルに座るトオルには浴びせられる罵倒の数々がまったく耳に入っていなかった。

 耳に入れば心に届いてしまうため、目の前にある透明花瓶の湾曲部分に見える光や水がなぜ曲がって見えるのだろう? ということだけを考えていた。

「トオル、さっきから聞いているの?」
「うん、聞いてるよ」
「じゃあ、なんでこんなに点数が一気に落ちたのかさっさと答えて頂戴」
「だから! 最初に言ったけど先生がテストの出題を間違えたんだって! 本当だよ!」
「ナニ、その口の利き方。バカ男みたいで気持ち悪い……で、何で落ちたの?」
「だから、先生が間違えたんだって」
「そんな間違いを大学出ている公務員の先生がするはずがありません。それに、いくら先のテストを出したからと言ってもトオルは塾に通っているんだし、うちはあなたにかなりの額の先行投資をしているんです。毎月いくら掛かっているか、働いたこともないあなたには分からないでしょうけどね」

 うっかり母親の相手をしてしまったトオルの胸にもやもやした靄がかかり、夕方から片道一時間も掛けて電車で通う塾への道のりの風景が思い出される。
 着いた先の塾では誰もが中学受験に向けて勉強に必死で、誰かと仲良くなろうなんて気持ちにさえならなかった。塾へ行く最中も、帰り道も、いつもトオルは悲しいような気分になっていた。

「あなたのお父さんがこんな磯臭い場所にしか家を買えなかったのは、勉強をして来なかった所為です」

 母親はいつもそう口酸っぱくトオルに言っており、その土地に住む人達と外で会えばにこやかに話しはするものの、家庭内では「犬以下の土人共」と口汚く罵っていた。

「トオルってお友達、何人いるの?」
「えーっと、五人かな」
「そう、それしかいないならママ安心だけど、今すぐ遊ぶの止めて頂戴。土人の匂いを家に持ち込まないで。ここのガキって東京の子供と違って特に臭いから」
「土人って……誰のこと?」
「ここに住む連中よ。あなたのクラスメイトも全員土人。土人はね、犬以下だから殺しても『器物破損』で済むのよ。なーんちゃって、あーっはっはっは! こういうのって「サベツ」になっちゃうぅ? あーっはっはっ」

 そんな風に一人で笑う母親の頭をトオルはおかしいはずだと疑ってはいたものの、家庭内でのヒエラルキートップは常に母親だった。

 父親は上場企業のサラリーマンなのだが、仕事があまりに不出来なため下請けに出向させられて以来出世コースからは外されていた。

 小遣いすら与えられず、仕事を終えて家に帰っても与えられるのはコップに注がれた冷えた麦酒ではなく、常温の水道水なのである。

 散々叱られたトオルが肩を落としながら塾へ通うため家を出る頃、見た目はちょうどトオルと同じ年ほどの神様が上空を低空飛行していた。

 自分が作った人間達の生活を間近で見るための観察行動であったが、神様は近頃悪くなった目のために近眼になっていたのだ。

 これはもっと低く飛ばなければ人間の生活が見えないと判断した神様が高度を落とすと、なんと海辺の鉄塔に頭を強打、墜落してしまった。

「チクショウ、こんな寂れた街に来たばっかりに! 自分で作らせた鉄塔に頭をぶつけるなんて、僕は本当に神様なのか?」

 自分の間抜けさに嫌気が差した神様は人間観察を止め、海沿いの堤防に腰掛けて日暮れの海を眺めることにした。

 ちょうど良さそうなポイントを見つけた神様だったが、先客がいることにひととき苛立った。しかし、相手が子供だったので優しく声を掛けて隣に腰を下ろすことに決めた。

「やぁ、ずいぶんと落ち込んでいるね」

 先に堤防に座っていた少年はトオルだった。塾へ行くのが嫌になり、母親のことも嫌になり、そのうち何もかも嫌になってしまっていたのだった。

 そんなことは神様は百も承知どころか、この後すぐにトオルが「隣、いいよ」と返すことも分かっていた。
 振り返ったトオルに神様が「隣、座ってもいいかい?」と訊ねるとトオルは神様の承知の通りに返した。

 堤防に座ると、真正面に橙色の夕陽が落ちて行くのが見えた。海は西風で荒れて黒く濁り、海唸りを上げていたが、神様は「美しい作品が出来た!」と束の間の満足を得ていた。

 百分の一秒ほどの間、満足感に浸った神様はトオルに意地の悪い笑みを見せてこう言った。

「トオル君、さっきまでお母さんに怒られてたんでしょ?」
「えっ! なんで、君が知っているの? あと、名前まで……」
「あはは。君は信じないだろうけど、僕は神様なんだ」
「えっ、神様って……神様、仏様の、あの神様?」
「うん。まぁ、仏の野郎とは仲悪いけど」
「へぇー……」
「信じる?」
「ううん、信じない」
「だろうね」

 神様にとってはトオルが今苛まれている感情でさえも小さく愛しいものに思えていたが、トオルにとっては人生の重大局面を迎えているような心情だった。

 勉強をやめて、自分の好きなように生きたい。潮騒が聞こえるこの街も、友達だって、優しいパパだって足は臭いけど僕は大好きだ。そう、感じていたのだ。

「もしも君が本当に神様だったら面白いんだけどなぁ……僕さ、ママが嫌いなのかもしれない。君は、そんなことある?」

 神はトオルの質問に「ない」と答えようとはしたものの、自分を作ったのは一体誰なのだろうと考えることがたまにはあった。それを踏まえた上で、答えを変えた。

「好きか嫌いかって言われても、分からないんだよね」
「あっ、ごめんね」

 トオルは「マズイ」ことを聞いてしまったとすぐに理解した。学校でもそういう同級生は何人かいるし、差別に繋がるから余計なことは聞いてはいけないと分かっていたのだ。

 神様の目に映っていた夕陽が海にとっぷり浸かり始めると、今度は神様がこんな質問をした。

「トオル君は一人ぼっちで「さびしい」って思うこと、ある?」
「うーん……さびしい、かぁ」

 トオルは学校、家の中……と順番に思い出して行くと、三番目でひとりぼっちに行き当った。

「うん。ある」
「じゃあ、君は僕と同じだ」
「そうなの?」
「トオル君はどんな時にひとりぼっちって感じるんだい?」

 トオルはこれから行こうとしていた道のりをふと思い出すと、それだけで寂しいような、悲しいような、暗い気分になった。

「僕、塾へ行ってるんだけどさ。みんな気合い入れて勉強するぞって感じで、あの場所にいるとさびしくなるっていうか、なんか虚しくなるんだ」
「塾に友達はいないのかい?」
「うん。友達になりたいなんて奴もいない」
「それって友達ができないより、よっぽどさびしいね」
「そうなの?」
「そうだよ」

 神様はトオルの答えを聞きながら、当たり前のことを思い出していた。

 それは自分がひとりぼっちで寂しいから、この世界を作った日のことだった。だから、人は寂しくて当たり前なんだと思い出して、クスっと笑った。

「何が面白いのさ?」
「いいや。トオル君ってイイ奴だね」
「そんなことないよ……ママにさ、ダメ人間って呼ばれるんだ。ちなみにパパは、ゴミ人間」
「へぇ。ずいぶん立派なママなんだね。ママは何をしている人なんだい?」
「ママは……東京の友達とランチに行って、写真を撮ってそれをネットに載せたりしてる人。たまに出掛けると、わざとらしい写真とか撮らされるんだ」

 それが一体どんな光景なのか神様の目にすぐに浮かぶと、堪らず先に言いたくなってしまい、欲求に抗えずにスルスルと口を滑らせてしまうのであった。

「まさか潮干狩りに行って「今日もなかよし家族三人衆、バカやっちゃってます!」とかコメント書いて、両手に持ったスコップを鬼の角に見立てて三人で顔をくっつけて写真撮ってネットに投稿するとかしてるんじゃない?」
「えっ、なんでわかるの!?」
「鬼が何で「バカやってる」のかも分からないし、何が面白いのかも分からないし、君のママってセンスないよね。写真撮り終わったらさっさとビニール袋にスコップ戻してさ、「潮干狩りでとった五級品の貝なんて土人の餌よ」とか言って、帰りに高めのスーパーでアサリを買って「こんなにとれちゃった!」とか時間差で投稿するんだよね」
「そうそうそう! そうなんだよ!」
「ばっかくせぇ、オンナ!!」

 神様はその昔、地獄を作って突き落とした出来損ないの天使達のことを思い出した。

 あいつら、また下らないことしていやがるなぁと考えていると腸が自然と煮えくり返りそうになって来て、二度と歯向かえないように策を練るために家へ帰ることにした。

「トオル君、隣に座らせてくれてありがとう」
「ううん、こっちこそ。ちょっとスッキリしたよ。ねぇ、君の名前を教えてよ」
「ははは。僕の名前はね、人間は言ってはいけないんだ。だって、神様だからね」
「またそんな嘘ついてさぁ、ずるいよ。この辺の子なんでしょ? 今度一緒に遊ぼうよ」
「そうだね。また会えたらね……最後に、君の願いごとをひとつだけ叶えてあげるよ」
「願いごと? そんなの……どうせ叶いっこないよ」
「叶うよ。だって僕は神様だもん。なんでもいいから、心の中で願いごとを言ってみて」
「ええ……? じゃあ、願いごとするね」
「うん」

 まぁ、そんな所だろうね。君は僕の話しを聞いてくれたし、素直に話してくれたから、それくらいの願いごとは朝飯前さ。

 神様は予め分かっていた願いごとを叶い終えると、トオルにこんなことを訊ねた。

「ねぇ、トオル君のお母さんってどんな人なの?」
「え? 僕にお母さんなんていないよ。そういうのってさ、無暗に聞いちゃダメって学校で言われてない?」
「はは。そうだったね」
「あっ、ちょっとタイム! パパから電話。もしもし? うん、浜辺の堤防にいた所。え? カズレーザーの番組あるの? よっしゃー! そっこー帰る!」

 電話を切ったトオルは尻に火が点いたような勢いで「またなぁ!」と元気な声を響かせ、家の方向へと走り出して行った。

 神様は少しだけ寂し気に駆け出したトオルの後姿を見送ると、地獄に堕とした連中のことをハッと思い出した。 
「よいしょっ」と膝を曲げて空へ向かってジャンプをすると、光を通り越しながら上昇飛行を始めたのであった。 


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