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【小説】 ねこの日 【ショートショート】

 窓を開け放つと燦々と輝く太陽に目をやられ、咽せ返るような夏の熱気に朝っぱらから嫌気がさす。朝八時を過ぎたばかりだというのに外気温は三十度を越えており、食パンを切らしていることに気付いて思わず舌打ちを漏らしてしまう。
 近所のコンビニへ買いに出なければいけない苛立ちをありったけぶつけるつもりで冷蔵庫を蹴飛ばしてみると、天板に置かれていたコーヒーメーカーは予めセットされていた粉ごと落下した。

 掃除機を掛け、意を決して徒歩三分の道のりを歩き出す。あまりの熱気に蝉すらも鳴く様子がなく、路地はしんと静まり返っている。青と灰色のコントラストがやたら明確で、色がないようにも思えるのが不思議だと感じていると、黄色い看板のコンビニへ辿り着いた。
 六枚切りを買い、来た道を戻ると路地で蠢く生き物が見えて来て、その途端に私の心は浮き足立った。
 黒と白の二色模様の猫が路地で身体を転がしながら、背中を掻いていた。
 その猫はよほど人馴れをしているのか、近寄ってみても逃げる様子さえ見せない。寝転がりながらも顔をこちらへ向け、構って欲しそうに

「ニャン」

 と鳴く始末。
 これには猫に触りたいという「猫触欲」が掻き立てられた。
 しかし、毛並の色艶からしてあれは主人のいる猫だろう。私は白黒猫に見つめられたまま、懸命に猫触欲をぐっと堪え、自宅へ続く道を急いだ。

 夕方。

 夕飯を何にしようか迷った挙句、昼の暑さにやられて食欲もこれといって湧いて来ないし、いつも独りでテレビ相手に飯を食うだけなので味気ないのは普段と変わりないことに気付くと、茹でそばを冷たぬき風にして食べることを思いついた。乾蕎麦は台所に残っていたが、肝心の「たぬき」を作る揚げ玉が無かった。
 窓を開けると、喉を潤す炭酸の黄金水が呑みたくなる湿り気のある風が部屋へ吹き込んで来て、私は揚げ玉とビールを買いへスーパーへ向かうことにした。
 今朝、白黒猫と会った路上に差し替かると座りながら円を作っていた子供達が一斉に立ち上がり何処かへ去って行った。私の年齢はおおよそ彼らの親達よりもよほど高齢で、しかも割と厳しい顔をしているから、何か私に叱られるとでも思ったのかもしれない。事実、道を歩く若い女性などは私の顔を見ただけで怯え出し、すれ違うだけなのに「すいません」とわざわざ声に出して謝る者までいるのだ。
 しかし、そもそも私は怒らないし、怒るほど人に興味もない。ただ通り過ぎて無視さえしていてくれたら、私の心に波風が立つことはないのだ。

 子供達が去った場所に目を向けると、今朝寝転がっていた白黒猫と、焦茶のキジトラが二匹揃って地面に背中を擦りつけ、転げ回っていた。
 なんと、一匹増えていたのである。
 子供達はおそらく猫に触れようとしていたのだろうし、あの白黒猫ならば特に警戒もせずに気軽に触らせるだろう。私の顔が厳しいばかりに、なんだか申し訳ないことをしてしまったような気持ちになるが、代わりに触ってやらん事もない、という心持ちへ徐々に傾いて行く。
 路上に転がる、つぶらな瞳をこちらへ向ける猫が二匹、いるのである。
 たまらなく湧き上がる猫触欲に鋼鉄の蓋をして、通り過ぎる。たぬき欲しさに猫を見過ごすなどとは……と、歯痒くもなるが致し方あるまい。こんな厳しい顔の中年が路上で猫撫で声を出しつつ、猫に近付こうものなら通報されかねない。
 目的の揚げ玉とビールを買い、ついでに魚肉ソーセージも買って帰り道を急いでいると、私の目は路上に釘付けになった。

 夕暮の斜陽に照らされながら寝転ぶ猫が、三匹に増えていたのである。新入りはアメリカンショートヘアで、まだ成猫になり切れていない、最も可愛らしい中途半端な大きさのサイズなのである。しかも、三匹が揃いも揃って尻尾を揺らしながら、私の方を向いているのだ。
 散々押し殺した猫触欲は最早暴発寸前となり、近付いてみても逃げようともしないその姿に欲求は更に湧き上がる。気が付けばツマミ用に買っておいた魚肉ソーセージを手に取り、ビニールを歯で破き、これで猫を誘き寄せようという小聡明い計算まで無意識にし出す始末。
 猫達は魚肉ソーセージに気が付くと一斉に立ち上がり、私の前へ歩を進める。額に手が届くまで、あと一歩。幸い、辺りにひと気は無く、今なら猫触欲を存分に満たせそうな環境下にあった私は、ここぞとばかりに白黒猫の額に手を伸ばしてみた。

 すると、猫達は突然二本足で立ち上がり、私の前に三匹が並んでみせたのであった。橙色の夕陽をバックに、三匹とも仁王立ちしている。
 なんという芸を躾けられた猫達なのであろうかと驚いていると、猫達はゆっくりと前足を動かし始め、なんとハワイアンダンスのような踊りを始めたのである。
 これには私も呆気に取られ、一瞬現実と夢の区別がつかなくなり、知らぬ間に路上で気絶でもしたのかもしれないと自分を疑ってみたりもした。
 しかし、腕をつねってみれば痛みは感じるし、猫達はお揃いの動きでハワイアンダンスを踊っているのだった。
 それを見ている内に私は非常に愉快な気持ちが込み上げて来て、まるでこの世界が永遠の平和に包まれたような、そんな幸福な気持ちになって行ったのである。行ったのであったので、私は猫達と一緒に踊る事にした。
 猫達に合わせて手を右に左にゆらゆらと揺らし始めると、猫達はゆっくりとカニ歩きで進み始めた。その方向が丁度自宅の方向だったので、太陽へ向かう格好で三匹に踊りながら着いて行く事にした。
 ハワイアンダンスを踊る三匹は器用に立ち上がった姿勢の後脚を交差させ、奥へ奥へ進んで行く。しかも、ハワイアンダンスを踊りながらだ。
 この世界はなんて平和なのだろうと、あまりの幸福と猫の愛らしさに涙さえ浮かべ始めた矢先、とある小さなアパートに差し替った辺りで上方からこんな声が聞こえて来た。

「所長、見て下さい! 大成功です!」
「ふむ。どうやら遠隔催眠実験は成功のようであったな」
「大成功ですよ! 次は犬でやってみましょうよ!」
「それも良いだろう。よし、続け給え」
「はいっ!」

 ほう。そんな実験が何処かで行われているのか。なんだか、とても大変そうな実験だ。しかし、今の私は猫達と踊れているので世界で最も、平和なのである。
 このまま自宅まで進んで行ったら近隣住民に見られやしないかと若干恥ずかしい気もしたが、猫達の愛らしさに近隣住民も頬を緩めるだろうと思い、私は猫達とハワイアン行進を続ける事にした。

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