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【#絵から小説】 沈む揺り籠 【ショートショート】

 窓を叩く鈍色の雨を、私は窓際で眺めている。傘があれば人は外を歩ける。家があれば雨を凌ぐ事が出来る。それでも、雨を止める術は成されない。止めてしまうと、困る人がいるから。けど、笑えてしまうくらい、どうでもいい。

 一人で住み続けるこの家に、私は満たされている。
 この家に心も、身体も、至福の限りの全てを埋めたのだから。
 そんな当たり前の悦びを、まるで馬鹿か白痴にでもなったかのように、私は繰り返し想い続けている。

 あの日。検診結果を見た医師の顔付の変化に、私の心は一瞬にして掻き乱された。奥の奥を、洗われていない指先で出鱈目に穿り回される、嫌悪、憎悪、否定も感じた。

 しかし、医師は淡々と私にこう告げた。

「心臓が止まっています。残念ですが」

 目の前が真っ白になり、私はその場で過呼吸を起こして倒れた。午後になってから駆けつけた夫に、お腹の中の死を伝えた。
 夫は話を聞いている間に何度も頷いていたが、一瞬だけ口角を上げたのが分かってしまった。
 そして私の肩に手を乗せ、とても軽い口調で言った。

「優奈、また頑張ればいいんだよ。な?」

 やっと息が出来た、そう言わんばかりの軽い口ぶりと笑顔に、私の中に在った夫の唐突な死を感じた。たった一日で、二人分の光が消えた気がしたのだ。

「産んで外に出してあげましょう」

 まるで命の塵となった我が子をこの世に送り出し、それからすぐに荼毘に付した。今と同じ、雨の多い季節だった。苦しそうに咲く紫陽花。黄色の空。飲んで欲しいと訴える水溜り。笑いながら走るタイヤ。赤と青の顔をした職員。点火スイッチの音が延々と頭に残り、錆びた匂いの煙をただ、眺めていた。その間もずっと、私の隣の死体はベラベラと逆さまの音符を語り続けていた。
 唯一音として認知出来た音階はこんなものだった。

「おまえより俺の方が、悲しいかもしれない」

 その瞬間、気狂いのように見えていた世界が真っ二つに割れた。それからは目に入るもの全てが頭が狂った誰かの作り物だと思えて仕方が無くなった。
 骨上台に微かに残った小さな欠片達。それだけが私にとってまともに見えた微かな希望だった。
 死体が拾おうとした指先を、私は制止した。

 それから部屋に帰り、日常が再開されると死体はすっかり元の色に戻っていた。上機嫌で話す滅茶苦茶な旋律が私の五感の全てを逆撫でした。
 それでも、私は必死に理解しようとしていた。

 それから半年は経っていたのだろうか。産廃から垂れ流された液体のような茶色の向こう、僅かに見えた死体が嬉しそうにこう言った。

「俺、好きな人がいるんだ。その人と新しい未来を作りたい」
「あなた、誰?」
「優奈、どうしたんだよ?」
「……何で私、ここに居るの?」
「おいおい、冗談止めてくれよ」

 辺りを見回す。無機質な灯り。嘘の匂いするくつろぎの間。漫画みたいに小さな仏壇。骨壷。いつの間にか部屋の隅においやられた揺り籠。埃の溜まったガーゼを指先でなぞると、それはふわりと舞って空気に反射した。

 次に目が覚めた光景に、私は大きな違和感を抱いた。

「お名前、言えますか?」

 鉄格子の付いた部屋。白い壁と天井。身体は拘束され、微塵も動かせる気配はない。老人、と呼んだ方がよさそうな男性の医師らしき男がピエロのような顔で私を覗き込んでいる。

「お名前、言えます?」

 状況が飲み込めず、何も答えられずにいるとピエロ医師は鼻で笑いながら「ダメだこりゃ」と言いながら部屋を出て行った。鍵を掛けられる音がして、私は精神病院に入れられたのだと何処と無く理解出来た。

 死体から別れ話をされた私は突然立ち上がり、揺り篭の前で笑い始めると包丁を持ち出して自身の腕を切り始めたらしかった。血塗れになったリビングで、私は近づいて来る死体に恐怖していたのだと言う。

 何もかもがどうでも良くなって、それからは本当に成り行きに任せるしかなくなった。死体と胸が大きな若い女と何かを話し合ったが、二人が話す事などまるで頭に入って来なかった。右から左にそれらを流す作業が終わり、しばらくすると仏壇と揺り籠と共に、私は実家の自分の部屋に身を置いている事に気が付いた。

 部屋の窓を開け、田舎特有の緑と青の空気を吸い込む。
 その匂いは、私を指差してクスクスと笑い声を漏らしていた。

 地元の中小企業に就職した私の暮らしは平和で淡々としたものだった。
 仕事をして家に帰り、たまに同僚と他愛ない世間話を延々とする為にカフェへ行ったり、居酒屋へ出向いたりした。そこで出会った顔の形の良く分からない男達と、互いに大きなティッシュになってゴミ箱の中に突っ込んだりもした。ちっとも楽しいと想う瞬間は無かったが、苦しさだけは寂しがりの友人のように常に私にまとわりついていた。

 三十一歳を迎えた春。私は同僚と共にある不動産セミナーに参加していた。

「不動産を運用するという事は、資産のリスクを最小限に抑える事にもなり……」

 買った家を人に貸す。そんな話を聞いているうちに、私にある希望が芽吹いた。乾き切った会議室の隅っこで長い冬が目を覚ます音を、私はこの耳ではっきりと聞いていた。

 それからはその目的の為に一心不乱に働いた。
 ある程度お金の目処が立った段階で、私は平屋の一戸建てを購入する事にした。表向きは資産運用だった。しかし、理由なんかどうでも良かった。
 建築が始まるとすぐ、私は何度も現場に足を運ぶようになった。顔見知りとなった五十歳の現場監督と食事をするようになり、腰を動かすだけのセックスもするようになった。天井の幾何学模様を迷路に見立て、その時間を凌いだ。
 アスファルトが炙られる季節に、私の家は完成した。

「コンクリート打ちっぱなしですか、わぁ! お洒落」
「この時期でも案外涼しいんだよね」

 家の中ではしゃいだ声を立てる同僚や友人達に、私は温かな眼差しを意識した。ここはあの子がこの世で生き続けられる唯一の場所なのだ。羨まれることなど、当たり前だ。
 壁を摩る上司が目に入ると、私の感情は癇癪玉のように小さな破裂音を立てた。

「やめて。触らないで」
「あぁ……すまん、つい気になって」
「二度と触らないで」
「分かった。すまなかったよ……、さぁ、飲もう飲もう!」

 パーティーが終わると、私は愛を込めて壁に凭れ掛かった。まだ歌ってあげたことのない子守唄を幾つも歌った。新しい歌も覚え、何度も歌い聞かせた。

「いい加減忘れなさい」
「真っ当な人を見つけて、結婚したらどうなんだ」
「あなたは母親にはなれなかったけど、まだチャンスはあるんだから」
「優奈ちゃん、諦めちゃダメだよ」

 ありがとう。私、諦めなかったよ。
 そう口に出しながら、私は今日もこの家の壁を愛でている。
 骨になったあの日から、天国に行けなかった希望は灰になり、この壁の中に擦り込まれた。

「これ、混ぜられるでしょ?」

 怯え切った表情の現場監督が事を成すまで、私は一切目を逸らさず見守り続けた。混ぜ合わされて行く光景をこの目に焼き付けた。
 これで例え私が死んでも、この子は生き続けて行ける。
 この家を誰かが引き継げば、他の誰かに可愛がってもらえる。

 私はこの世で、既に永遠に等しい幸せを叶えてしまった。
 雨は変わらず、鈍色に見えている。止まず、揺り籠の中へ沈んで行く。

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今回は清世さんの企画#絵から小説の第二弾でした。

お楽しみ頂けましたでしょうか。
この絵を見た瞬間、これは自分のターンだ!と思いました。愛故に暗く深く沈んで行く世界観が少しでも伝わってくれていたら、幸いです。


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