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【小説】 平和らしきもの 【ショートショート】

 窓の外を眺めている。
 都会のど真ん中から出発し、夜に灯る明かりの数が徐々に減って行くと、ようやく帰路につけたような気分になる。

 朝のラッシュは最低だ。人々が電車に乗り込む為に押し合いへし合いし、ようやく出来た扉近くの隙間につま先を載せ、「乗ります」と周りにアピールをする。その必要に迫られる。自分が貨物になったような気分で、どう考えても指先しか動かせぬような状況の中で、電車は発車する。
 そうもしてまで、更なる疲れを蓄積しに会社へ向かう。

 帰りのラッシュもまた、最低だ。ホームへやって来た電車に我先にと人々は乗り込んで、皆同じような疲れ切った顔で家路へ運ばれて行く。その狭小ぶりは朝と何ら変わりしないが、疲れ切っている心までも狭苦しく、そして息苦しくなる。 
 到底そんな毎朝毎晩の光景に人権などあるとは思えないが、誰も文句を言うことなく、人々は私も含めて大人しく数十年も運ばれ続けているのだから、きっと百年後も同じように人々は運ばれて行くのだろうと考える。

 高層ビルが低層マンションへ変わり、やがて田畑が見え隠れする頃になると私の顔がくっきりと窓ガラスに反射して、この目を通り越して心に跳ね返る。
 目の横の皺は、一体いつの間にこんな深くなったのだろう。鼻の横から口元に伸びる線はまるでカバのようで、顎周りの皮膚は重く垂れて、おまけにミクロの幅で小刻みに揺れている。
 精神的には十代の頃からちっとも変わりはないのに、容姿だけが老け込んで行く。なんてことはないそんな現実に、突然ゾッとする瞬間がたまにある。

 乗客の大半はスマホに目を落としていて、何の情報がそんなに彼らの心を熱心に掴むのかは不明だが、私には熱心に心を奪われるだけの物が何もないことに気付かされる。
 小説を読むと、疲れる。漫画もまた、疲れる。ビジネス書は遠い異国のエッセイに等しく、また、生き方がうんぬんの類の本には反吐が出る。かと言って車内で映像を見ればたちまち酔ってしまうし、車内で得たいと思える情報は日々のニュースと天気予報くらいなものだ。
 こんな風に世の中に興味すら抱かなくなる現象もまた、老化の一つなのだろう。エンタメすら手を変え品を変えしただけで、実は同じことの繰り返しと気付く四十になる頃には、自然と世の中に溢れ返るものに飽きてしまっていた。

 段々と席が空き始めて、私は八人掛けの隅に腰を下ろす。すぐに地元の駅には着いてしまうが、貧乏性なのかもしれない。
 何となく俯いていたものの、ふと視線を上げてみると、目の前に黒人が座っていた。

 身長が二メートルはあろうかと言うほど大きな体格で、ツバが真っすぐなままの野球帽に、白いパーカーのフードをすっぽりと被っている。
 彼は両指を組んだまま、俯きながら何かを呟いている。その言葉はどうやら英語ではなさそうであったが、頭のおかしな気違いが呟くそれとは、何処か違って聞こえた。気違いが漏らす言葉は何故か恐ろしい程、言語が違えども万国共通なのだ。

 彼が呟く言葉の端々には、悲痛が滲んでいる様に聞こえる。必死に何かを訴えるような……例えば自分のカミさんや子供が今にも死に損なっていて、諦めの表情を浮かべた医師に縋りついているような、そんなものが、含まれていた。

 下世話な好奇心のみで彼をしっかりと見つめてみると、その目には薄っすらと涙を浮かばせており、時々迫り来るものを否定する様に首を何度か横に振っていた。 
 呟く言葉の意味は全く分からなかったが、彼がある行動をしている事に気が付いた。

 彼は、祈っていたのだ。

 組んだ両指の隙間に、木製の継ぎ目が見え、その手にはロザリオが握られていた。金属製ではないものもあるのだな、と思ったものの、彼は私の下世話な目に構う事なく必死に祈りを捧げていた。
 他の乗客達はスマホに目を落としたり、楽し気なお喋りに夢中になっていたり、彼のことを気に掛ける者は誰もいないようにも思えた。

 そのうち彼は天を仰ぎ始め、顔の前へ握り締めたロザリオを捧げ、祈りの声を強くした。次に、涙が褐色の左頬を伝って行った。
 それでも、乗客の誰も彼のことを気にする素振りすら見せなかった。
 人が泣いてまで祈っているのに。一体なんだ、こいつら。
 腹を立てながら一瞬そう思ったものの、もしかしたらこの場にいる全員が全員、彼の悲痛に寄り添っているのではないかという気にもなった。

 スマホに目を落としたり、お喋りに夢中になったり、敢えて平然と平常を演じることによって、彼が平和であって欲しいと伝えているのではないだろうか。
 何事もない世界などあり得ないことを知っているからこそ、何事もない世界を演じ、彼に微かな救いの手を差し伸べているのでは。

 その答えが出るか否か私には判断出来なかったが、もしもそうであれば世界はまだ何処かに救いが、それこそ平和らしきものが転がっているのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、電車は私の地元の駅にたどり着いてしまった。

 天を仰いでいた彼は再び俯いて、祈りを捧げながら次の駅へと運ばれて行った。
 せめて、あの平和らしきものも一緒に運ばれて行ったならと願いながら、私は改札を出た。 

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大枝 岳志
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