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【小説】 おーい、おるかぁ 【ショートショート】

 アパートに帰って飯を食いながらテレビを観ていたら、夜も九時を回りそうな頃に突然ドアをノックされた。インターフォンも鳴らさずに、一体何事かと思って耳を傾ける。
 ノックはコンコン、コンコン、と続いていたが、三度鳴らされるとピタリと止んだ。
 こんな時間に一体誰だろうと思い、ドアホンのモニターを点けて確かめてみる。
 しかし映し出された映像には誰の姿もなく、人の気配や物音すら聞こえては来なかった。
 まぁよっぽど急ぎの用事があるならば再び来るだろうと思ってドアホンを消すと、玄関から声が聞こえて来た。

「おーい、おるかぁー?」

 声の主は関西訛りの中年男性のようであったが、心当たりがまるでない。ここの大家は意地が悪く金に汚いクソのようなババアであるが、旦那はとっくの昔に死んでいるはずだ。クソババアの大家に「死亡保険でハワイへ行ったのよ」と語られたことを覚えている。もちろん、金に汚いので土産などは一つもなかった。
 このアパートの住人だろうか。日頃ほとんどの住人と顔を合わさないのでどんな人間が住んでいるのか分からないから、その可能性が高い。
 何の用件だろうと思いながらドアを開けて、私は「は?」と声を漏らしてしまった。

 ドアの外には、誰もいなかった。

 イタズラにしては少々性質が悪い。一体何のつもりでこんな真似をするのだろうと思っていると、今度は部屋の中から声が聞こえて来た。

「おーい、おるかぁー?」

 私は驚きのあまり、身体が跳ねた。その直後に背筋にゾクゾクとした感覚を覚え、恐怖した。こんな時にどう対応したら良いのかも分からなかったが、とりあえず台所にあった味塩を部屋中に撒いてみることにした。
 その晩、中年男性の声が聞こえて来ることはなかった。

 翌る日。パチンコに負けて肩を落としながら部屋へ帰り、着ていた服を洗濯機へ向かってぶん投げた。冷静でいれば勝てたものを、つい熱を上げたかた為に大損をこいてしまった。
 あぁ、ついてない。何もかもついてない。
 こんな日は熱いシャワーでも浴びて、酒をかっくらって寝ちまうのが良い。
 すっ裸になった私は風呂場へ行き、シャワーを浴びようと蛇口を捻った。すると、シャワーヘッドからは勢いのついたお湯の代わりにこんなものが飛び出して来た。

「おーい、おるかぁー」

 私は手にしていたシャワーヘッドを放り投げ、裸のまま悲鳴を上げて風呂場を飛び出した。その数秒後に、シャワーが噴き出す音が風呂場に鳴り響いたものの、私は恐怖のあまり風呂場へ立ち入る勇気が湧かず、その日は風呂には入らず夜を明かした。
 何となく寝つきが悪く、小さな音でラジオをつけて眠気がやって来るのを待ってみた。最近売れ始めた若手芸人のラジオを聴いていたのだが、トークを合間に妙な声が混じっているのを感じ、耳を澄ましてみる。

「本当嘘みたいな話しなんですけど、その風俗嬢っていうのが」
「おるかぁー」
「俺の母ちゃんの友人だったんですよ」
「嘘だろ、マジで?」
「さらに言うと俺の同級生の母ちゃんだったんですよ」
「おるかぁー」
「え、向こうは気付いてたの?」
「おるかぁー」

 おるかぁだ。やはり、間違いなくあの声が混じっている。怖い、非常に怖い。しかし、ただ恐怖しているだけでは根本的な解決には至らない。
 私はおるかぁに、返事をしてみることにした。

「おりますっ、ここにおりますよ!」

 ラジオに耳を傾けてみたが、おるかぁからの応答はない。
 その後もしばらくラジオを付けっぱなしにしていたのだが、結局何の応答もないまま夜が更けていった。
 とりあえず去ったようだし、さっさと眠ろう。そう思って布団を被ると、玄関のドアをノックする音が部屋に鳴り響いた。インターフォンを鳴らさないこのパターン、おるかぁだ。
 私は布団をすっぽりと頭から被り、震えた。一体おるかぁは何の恨みがあって私に付き纏うのだろう。返事もしたのに、反応がない。その癖、まだ呼びかけて来るつもりなのだろうか。
 恐怖が苛立ちに変わりそうになった頃合いで、ノックの音はより強いものとなり、拳でドンドン! とドアを叩く音へと変わっていた。

 私は起き上がり、ゆっくりと玄関へ近付いて行く。ドアを叩く音は止まず、より執拗な音へと加速して行っている。
 ひと呼吸置いてから思い切ってドアを開けてみると、目の前に人の姿が現れて私は思わず驚いてしまった。
 立っていたのはクソババアの大家で、出た瞬間に紙切れを胸に押し当てられた。

「夜中零時を迎えたので期限日が過ぎましたわよ? さぁ、とっとと出て行って下さいな」

 しまった。そうだ、私は家賃をずっと滞納していたのだ。今日が期限日だったことをすっかり失念していた。

「あっ、あの。あと一週間……」
「待ちません! 明日の朝、また来ます。それまでに出て行って下さいね」

 クソババアはそれだけ言うと一方的に玄関のドアを閉じ、引き返して行った。
 私は正直、ナメていた。家賃など払わなくても、あのクソババアが強く取り立てるなど毛頭思ってもいなかったのだ。それこそ家賃を払わなくとも、もう一年でも二年でも、ここにのうのうと住んでいられるものだと、タカを括っていた。
 部屋の真ん中でぼんやり立ち尽くし、これから先のことを考える。朝までに金は作れるだろうか。いや、どう考えて無理そうだ。明日の夜に、私はこの部屋にいるだろうか。明後日の夜は? 一ヶ月後、三ヶ月後、私はこの部屋にいるだろうか……。

 そんなことを考えながら金をどうしようか思案し始めると、あの声が聞こえて来た。

「おーい、おるかぁ」

 声は玄関の方から聞こえて来るが、恐らく出ても誰の姿もないのだろう。それは、そうだ。あるはずがない。
 何故なら、あの声に私は強烈な聞き馴染みがあることに気が付いたからだ。
 そう。あの声はきっと未来の、行き場を失って年老いた……。

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