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【小説】 色を失くす 【ショートショート】

 朝の天気予報を観ている途中で、ふと画面の中の違和感に気が付いた。

「ご覧のように、東京は快晴です! まるで昨日までの雨が嘘みたいですね!」

 カメラを向けられた空は真っ白で、曇りじゃないかと僕は叫びたくなった。最近のテレビメディアはついに堂々と嘘をつくようになってしまったのか、そう思いながら溜息をついて窓を開けた。
 穏やかな春の匂いが部屋に舞い込み、僕は空を見上げた。
 ほら、曇りじゃないか。
 いや、違う。空は一面真っ白なのに、雲はひとつも浮かんでいなかったのだ。
 冷蔵庫を開け、清涼飲料水のボトルを手に取る。青いラベルは白黒のラベルに変わっていた。

 僕はどうやら、「青」を失くしたようだった。

 慎重に車を走らせ、会社へ向かう。病院へ行こうと思ったのだが会社に何と説明すれば良いのか分からなかったのだ。

「あのぉ、青色が見えなくなりまして」

 なんて言った日には、あいつは頭がおかしくなったと思われても仕方がない。
 赤色から白に変わった光を確認し、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。光りは見えるから運転は案外支障がなかった。
 
 会社へ着いて何気ない顔で席へ着く。しかし、僕は重大な脳の病気や網膜関係の病気なんじゃないかと思い始め、気が気では無かった。
 仏頂面の眼鏡上司が席に座ったまま、僕に指示を出した。

「井口、Cのキャビネットから青ファイル持って来てくれ」
「は、はい……ただいま……」

 しまった。青のファイルと言われても僕には分からない。いや、違う。大丈夫だ。落ち着け、逆に考えるんだ。分からない色が青色なのだから、色の分からないファイルを見つけて持っていけばいいだけじゃないか。
 
 書庫にあるCキャビネットを開き、僕は色のついていないファイルをすぐに発見した。これを渡せば良いんだな、そう思いながら多少自分を信じ切れないままファイルを手渡すと、眼鏡上司は眼鏡を下げて僕を睨んだ。

「おい、井口」
「は、はい」
「おまえ、これは黄色のファイルだろ」
「……え」

 僕はショックのあまり、その場で気絶しそうになった。
 仕事は一向に進まず、同僚達に「顔色が青いぞ」と言われ、「分かる訳ないだろ」と、ついムキになって答えてしまった。
 青、黄色を失くした僕はネットで思い当たる症状や症例を探し続けた。
「網膜色素変性症」が近しいと思ったが、僕は暗い場所で色が分かり難くなったり、光を感じ難くなったせいで色が変わって見える訳ではないのだ。

 熱はないし身体に倦怠感もない。ただ、色が失くなっていくのだ。
 時間が経つにつれ、ひとつひとつの色がハッキリと欠けて行くのは何故なんだろうか。探し続けたが、答えどころか手掛かりさえ結局見つからなかった。
 
 食欲が湧かず、社食でうどんを注文したのが間違いだった。知らぬ間に失くしていた「茶」のおかげで、僕はモノクロのうどんを啜るハメになった。
 ちっとも食欲が湧かず、半分も食べられなかった。

 食堂のテレビの前。春のセンバツに皆が歓声を上げていたが、白黒の画面に映し出された映像はまるで戦後の高校野球のように思えた。色のあるなしに関係なく楽しめる煙草の煙だけが、僕の救いになった。
 
 なんとか定時を迎え、僕は連絡をしていた彼女の家へ一目散に向かった。すぐにでも会って話がしたかった。
 国道に射すオレンジ色の夕焼けまで白黒になっていて、まるで世界の終わりを告げるように思えてくる。気分はどんどん落ちて行く。ハンドルを握りながら、微かな希望のように景色を流れていた緑の木々が白黒に変わった瞬間、僕は無意識にクラクションを鳴らしていた。

 車に乗り込んだ彼女は楽しげな声でこう言った。

「今日お休みだったから買っちゃった。この色カワイイと思わない?」

 そう言って袖を掴みながら、彼女は楽しげな表情で着ていたカーディガンを僕に見せて来た。

「栞ちゃん、ごめん。……わからない」

 彼女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに首を傾げて気を取り直した。

「男の人はそっか、そうだよね……」
「違う、違うんだ」
「……服のセンスの問題?」
「俺、色が分からなくなっちゃったんだ」
「あはは、何言ってるのよ」

 口を手に当てて笑い声を上げた彼女だったが、僕の顔を覗き込んだ瞬間に真顔になった。

「……どういうことなの?」
「今朝起きたら、空が白くなっていて……」

 今日一日で失くした色、今はほとんどの景色が白黒に見えていることを彼女に伝えると、彼女は唇を噛み締めながら真剣に話を聞いて頷いた。

「透君、明日一緒に病院に行こうよ。私、休み取るから」
「ごめん、俺が急にこんなことになったばっかりに……」
「色のない世界になっちゃうなんて、悲し過ぎるよ」

 そう言って感性が人一倍豊かな彼女は、僕の代わりと言わんばかりにわんわん泣き始めた。僕に残されている彼女の「桜色」の唇が、わなわなと震えている。

「栞ちゃん、泣いてくれてありがとう。もうすぐ栞ちゃんの可愛い唇の色も、きっと分からなくなっちゃうのか……」
「……唇の色、分かるの?」
「うん、とっても綺麗な桜色が見えるよ」
「見えているうちに、お願い」

 僕らは狭い車内で強く抱き締め合い、静かな口付けを交わした。
 柔らかな唇の色も、彼女の頬を染める色も、もうすぐきっと見えなくなってしまう。
 春の色も、夏の色も、秋の色も。僕にこれから残されるのは、真っ白な冬の色だけになる。

 彼女の額に、自分の額を当てた。僕らは泣きながら、互いの温度を伝え合う。
 もう一度、最後に彼女の桜色の唇を確かめようとそっと顔を離す。

 すると、目の前には柔らかな橙色のカーディガンを着た彼女の姿があった。
 
 春の夜に、僕らはもう一度だけ泣いた。
 泣き声に花を咲かすように、盛大に泣いた。

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