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【小説】 逆上がり 【ショートショート】

 一九九四年。秋の風が砂埃を舞い上がらせる夕景の霞む校庭の隅、一郎は鉄棒を握り締めたまま、歯を食い縛りながら佇んでいた。
 悔しさの滲む表情の裏には、昼休みの出来事が隠れている。

「一郎、まだ逆上がり出来ないん?」
「ゆうちゃん、一郎はデブだから一生無理なんだって」
「だって俺らもう小五だで? それなのに逆上がり出来ないっておかしくね?」
「だーかーらー! デブには一生無理だって」

 逆上がりが出来ないことをクラスのリーダー格、優太に馬鹿にされながらも、一郎は何も言い返すことが出来ずにいた。
 恥ずかしさのあまり机に座ったまま黙り込んでいると、そのうち悔しさが込み上げて来て、みんなが校庭に遊びへ出るのと同時に泣き出してしまったのであった。
 しかし、教室に残った他の児童達は慰めるどころか一郎を笑い者にさえした。

 異常に突き出た腹が憎たらしくなった。「大きくならないとね」とご飯をよそう母を怨み、「男は食って食わせてナンボだぞ」と自らの腹を叩く父を殺害さえしたくなった。
 しかし、努力をすることなく生きて来た結果が、涙を生んだことにも気付いていた。
 みんなに秘密で、今日から特訓だ!
 そう意気込んだものの、逆上がりは一朝一夕でどうにか出来るものではなかった。

 鉄棒を掴んだまま呆然としていると、一郎の目に校庭の端に誰かが立っているのが見えた。
 歳の頃は五十代くらいの、薄灰のセーターを着た「おじさん」が立っていた。やや長めの髪がやたら厚ぼったく、無理に七三分けにしているようだ。
 その風貌に一郎は何故か見覚えがある、と感じてた。それは父の持っている古いレコードのジャケットに写るグループサウンズのメンバーと似ているのだと気が付いた。

「昭和の人じゃん……」

 そう呟いてみたけれど、その声は遥か遠くに立つ男の耳には届きはしない。
 百メートルほども離れているだろうか。男は一郎の方に目を向ける訳でもなく、直立不動で突っ立ったまま動く様子はなかった。
 新任の教師でもなさそうだし、近隣のおかしな人物が校庭へ入って来てしまったのだろうか。しかし、何か害がある訳でもなさそうなので一郎は再び逆上がりの練習に没頭することにした。

 カラスが鳴き、陽が暮れなずんで行く。何度も地面を蹴って出っ張った腹を鉄棒に載せようとするものの、その手前で身体は諦めを選んでしまう。
 このまま一生逆上がりが出来ず、僕は死ぬまで馬鹿にされ続けるのだろうか。
 そんなの……絶対に嫌だ。絶対の絶対の絶対に、逆上がりしてやるんだ!
 一郎は息を整え、鉄棒を掴み直す。直立不動の男は変わらず遠い場所で一点を見つけ続けている。
 足を蹴り出す前に、ぐっと腕に力を籠めた。足の力だけではなく、全身を使うイメージで一気に地面を蹴り上げる。
 すると視界がぐるりと回り、一郎の目は薄紫に染まり始めた空を捉えた。
 やった! やったぞ! 逆上がりが出来た! どうだ、僕だってやれば出来るんだ!
 空が一気に逆さまに下降して行くと、すぐに校庭の景色に戻って来た。
 そして、あまりに意外な景色が目に飛び込んで来て、一郎は鉄棒から思わず手を離してしまった。

 遠くで突っ立っていたはずの男が、一郎の真後ろに立っていたのだ。
 すぐ傍に居るはずなのに、一体何を見ているのだろうか、一郎ではない何処かただ一点を見つめたまま、やはり立ち尽くしていた。

「わぁー!!」

 驚きのあまり絶叫を上げたが、男は微動だにしなかった。
 一郎は放り出したランドセルを拾い上げると、駆け足で校庭から逃げ出した。
 それから一郎は二度と逆上がりをすることはなかったものの、放課後の校庭で謎の男と遭遇した話が話題となり、ちょっとした人気者になった。
 男はその後校庭に現れることはなかったものの、深夜に民家の屋根の上に突っ立っていたという目撃情報や、国道の分離帯の真ん中に突っ立っていたという目撃情報が数件警察に寄せられたのであった。
 その正体は結局、不明のまま処理がなされた。 

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