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【小説】 遭難の街 【ショートショート】

 噂には常々聞いていたが、湧き上がる好奇心に私はとうとう抗うことが出来なかった。
 休憩中にその話になると、なんと部下の山内がそこへ行ったことがあるというので、火が点いてしまったのだ。

「垣沢さん、遭難者のギネス記録って何処だか知ってます?」
「遭難者か。さぁ……エベレストとか?」
「違うんです。今野町ですよ」
「あぁ……あそこはヤバイらしいな」
「実は先週行ったんすよ。幸い、何事もなかったんですけど」
「おまえ、本当に行ったのか?」

 今野町の噂は小さな頃から大人達から散々聞かされていた。日本人なら大半がその噂を耳にしたことがあり、都市伝説のような形でそれは伝わっていた。

 自ら進んであの町へ足を踏み入れようとする者はほとんど居なかったが、ネットの普及により足を運ぶ若者や観光客が増え、遭難者が増えているという記事をいつか読んだことがあった。

 今野町が一体どんな街なのか気になってしまい、休憩が終わるギリギリまで私は今野町のことを根掘り葉掘り山内に尋ねていた。

「垣沢さん、そんなに気になるならもう行った方がいいですよ」
「まぁ、おまえも無事に帰って来てるしなぁ」
「何てことない街ですよ? でも行かないと分からないこととか、あるじゃないっすか。ネット動画だと伝わらないものっていうか……そういうの、あの町に行けば分かると思うんですよ。俺はちょっと分からなかったですけど」
「そうか……なら、行ってみようか考えてみるよ」
「今野町、おススメします」

 考えてみる。なんて嘯いたものの、私は既に行く気満々でその日の午後の業務にはほとんど手をつけず、ネットでありとあらゆる今野町に関する情報を集めまくっていた。

 SNSの投稿をくまなく調べてみると、無事に帰って来た者が大半のようであったが、中には「今野町へ行く」と投稿したきり更新が途絶えているものもあった。

 気分は引くどころか寧ろ行きたくてたまらない欲求に駆られ、年甲斐もなく半ばサボり同然で突発的に有休を消化し、翌朝に今野町へ向かってみることにした。

 ハンドルを握り続けること二時間。千葉から東京に入り、青梅街道を進み、さらに北上を続けて行くと「今野町」と表記された青看板が現れた。 
 街の風景は何処にでもあるような住宅街とロードサイド店が立ち並ぶような景色が延々と続いており、それは今野町へ近付いてみてもあまり変化は見られなかった。

 そのまま看板に従ってハンドルを握り続けること十五分。私はついに今野町へ辿り着いた。
「人が居なくなる」という恐怖めいた噂とは裏腹に、今野町の景色そのものは日本の何処にでもありそうな中規模程度の街の景色そのものだった。

 道路や街路樹は綺麗に敷地整備されており、大型スーパーや病院など生活に必要な施設も充実していた。道路沿いには全国展開しているチェーン店が数多く並んでいるし、自転車に乗る主婦や散歩をする老人など、多くの人が出歩いている姿も当たり前に目に入って来る。

 こんなに平和で暮らしやすそうな街の一体何処に、ギネス記録に載ってしまう程の遭難の要素があるのだろう?

 誰も彼も普通に暮らす、良い街じゃないか。
 そんな風に思いながらハンドルを握っていると、胸の辺りにズンと激しく苦しいものを感じ、私は車を路肩に停めてシートベルトを外した。

 呼吸が荒くなり、胸の辺りが締め付けられるようにズンズンと苦しくなる。
 これは心筋梗塞か何か重大な病気の前触れかもしれないと思ったが、不思議なことに生命を脅かすような痛みというのは感じなかった。

 それに、この感覚は何かに似ていた。今まで生きて来た中で、同じような胸の苦しみを抱いていたことがある気がしたのだ。

 その胸の苦しみは辺りの風景を見回せば見回すほど、加速的に増して行った。
 何の変哲もない住宅街や街路樹、遠くに見える秩父山系の山々、私の車の横を通り過ぎて行く住民達。

 そんな当たり前のものを目に映す度、私の胸の高鳴りは何故か速度を増して行くのだ。
 この苦しい感覚は……確か、何だっただろう。身を焦がされるような、身体の一番底から湧いて来るこの苦しみは……そうだ、恋だ。これは、恋の苦しみなのだ。

 私は水を飲んで呼吸を整えると、堪らなく今野町の景色をこの目に留めたくなり、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。
 大きな道路や県立の博物館、住宅街の数々、街の中に血管のように這い巡らされたか細い道の一つ一つが気になり、私は何度も同じ道を行ったり来たりを繰り返す。

 住宅街を走って行くと坂道に差し掛かり、そこを上がって行くと一気に景色が開けて街の全貌が見渡せる場所へ辿り着いた。
 市役所の近くにマンション群が幾つか建っていて、その他は何の変哲もない住宅街が並んでいて、その隙間を潰すようにスーパー等の店舗がひしめき合っている。

 本当に何の特徴もないはずの街の景色なのに、私は興奮の末に思わず射精してしまうような感覚に捉われた。
 いけない、と思って強く目を瞑ってみるのだが、不思議なことに目を瞑ってしまうと何もないはずの今野町の景色を激しく目に入れたくなった。

 まるで絶望的に好みの女に出会った時のような、それとも短時間で一気に身体に回る麻薬でもやったような、そんな激しく鮮烈な苦しみを伴う儚い感情に私は支配されて行った。

 ダメだ。これは、いけない。こんなことは、あってはならない。
 私には妻もいれば、子供だっているんだ。
 こんな所で街にうつつをぬかしている場合ではないのだ。
 そうやって気合いを入れなければ、最早自我が保てないほどに私はこの街にやられていた。

 まだ昼を過ぎていない頃合いであったが、私は帰ることにした。
 このままでは私が私でなくなってしまう気がした。それと同時に、恋は盲目と言う言葉の意味もよく理解出来た気がした。

 坂道を下りて元来た道を戻って行く。街の中を青梅街道へ向かって進んで行き、なるべく何も考えないようにハンドルを握り続ける。 
 そうすること三十分。私は車を停めた公園のベンチに座り、絶望的な気分と安堵を同時に味わっていた。

 いつの間にか私は、今野町へ戻っていたのだ。それも、明確な自分の意思で。
 何をどうしても、この街から離れるにはあまりの身を引き裂かれるような思いに耐えかねてしまい、結局引き返すことにしたのだ。

 そのまま何時間が経ったか分からないが、辺りはすっかり夕暮れていた。
 寂しげなオレンジに包まれる街の景色にさえ、私は新たな魅力を感じて胸を高鳴らせていた。

 何時間考え続けてみてもどうしてもこの街から離れることは想像がつかず、とてもじゃないが千葉へ帰る気分には微塵もなれないでいた。

 恋の苦しみを吐き出すように溜息を吐いて辺りを見回してみると、いつの間にか数人の男女が新たにベンチに腰を下ろしていた。
 彼らはグループではなく、年齢も若い者から年寄りまでバラバラだった。

 その誰も彼もが、遠くを眺めて私と同じように溜息を吐いていた。まるで恋する相手を眺めているようにウットリと、惚けているような顔をしていたのだ。

 その瞬間、山内が言っていたこの街に来なければ分からないこと、というのが分かった気がした。きっと、彼にとってはそれほどタイプではなかったのだろう。
 ベンチに座る彼らはきっと「遭難」してしまった者達で、私もこれから新たな遭難者の一人になる予感がしていた。

 ここで座りながら、この街の空気を吸いながら、自分ではもうどうにも出来ないのでいつ来るかも分からぬ救助を待つ他、ないのだ。
 会話は交わさずともその気持ちが私には十分理解出来たので、私も彼らの一員に加わることした。

 これでやっと自発的にこの街を「出ることを考える」苦しみから解放されるのだ。
 夕陽が落ち、街が暮れて行く。暗くなった景色に、灯りがポツポツと点き始める。

 車道を走る車の音も、辺りをまだ駆ける子供の声も、全てが細胞を震わせるほどに愛おしい。寒さなんかどうだって良いから、この街を感じ続けていたい。

 それも、他にベンチに座る誰よりも一番敏感に、繊細に、感じていたい。
 ベンチに座り続ける私はもう、この街と抱き合うことだけしか考えられなくなっていた。


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