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【小説】 操り人形の宵辺

 高校卒業前、同窓会連絡簿に載せるための就職先は何処かと、担任に何度も聞かれた。就職にしろ、進学にしろ、卒業後の予定が決まっていなかったのはクラスで私だけだった。夏に就職が決まり掛けていた都内の会社が秋口に倒産し、それから大急ぎで校内求人に出ていた指輪を造る工場の面接を受けてみたものの、見事に落ちた。
 面接は五分も掛からなかった。塵芥、正体不明のクリーム色した泡が浮かぶドブ川近くに佇む、トタン造りの小さな指輪工場。ソファだけは立派なヤニ臭い応接間で、草臥れた水色帽子を被った社長は差し出された履歴書をテーブルの上に放り、ハナから私に吐き捨てた。

「おたくの学校が煩いから求人に載せてやったけどよ、工場がわざわざ普通科の人間なんて取るわけねぇだろ」
「そうなんですか?」
「そりゃそうだろ。江口君だっけ? 来てもらって悪いけど、もう帰っていいよ。書類とかに判子か何か押すの? そういうのあるなら、出して。押すから」
「いや、特にはないです。あの、そしたら合否は?」
「ははっ。あんたね、馬鹿言っちゃなんねぇよ」

 私へ否の言葉すら与えず、社長はそそくさと応接間を出て行った。
 取り残された私はどうしたら良いのか分からず座ったままでいると、社長の分だけ出されたお茶を片付けにやって来た事務員に早く帰るように指示され、工場を後にした。
 結果は当然、落ちた。そのまま冬がやって来て、春を前にいよいよ進路もままならず、私が知らぬ間に親が職人の我が家の経済事情が傾き始めていた。
 IT景気の影に隠れた不景気の波に、父はまるで無抵抗のまま流されていたのだ。毎日の仕事が数日に一度になり、その頃は週に一度手伝い程度の依頼が入るか入らないかという状況であった。それでも父は大工以外の仕事も、営業じみた行為も、「職人のやることじゃない」と頑なに拒んでいた。

 卒業前に学校事務所から呼び出され、一月以降の学費が支払われていないことを知った。当然家に金がないことは知っていたから(江口家に貯金は無し。大工の父は自営で信用がつかないから借金すら出来なかった)、卒業前の二月休学期間は滞納していた分と三月の授業料を支払う為、お局の声だけが一日中がなり続ける菓子工場の短期アルバイトに勤しんだ。

 ただ、そんな日々の中でも不思議なほど自身の将来に焦りはなかった。
 暗い中にいれば、その中の暗さに気が付かなくて済むからだ。
 だから私は、周りの学友達の卒業後の進路については積極的に耳を塞いでいた。暗がりに目が慣れて来ると、光を見る習性が無くなるからそれが心の平穏に繋がっていた。

 それでも卒業前になると担任からしつこく就職先を聞かれていた。私は学校とは無関係の卒業後のことを聞かれるのが煩わしく、嘘を吐くことにした。兄の勤める会社に「コネで正社員として採用された」という嘘でもって、タウンページに載っていた近場の営業所の住所と電話番号を書いてその場を凌いだのであった。

 家の中では常に両親が喧嘩をしていて、貸家住まいだったのだが家賃の払いもままならなくなり、電気が停まった夜に母が失踪したことがあった。その晩、大家が我が家に押し掛ける予定だったのだ。
 その晩の私は暗闇の階段に座り込んで、大家が家の玄関を叩き続けるコンコンという音をじっと聞いていた。父は不貞寝をしており、小学生と中学生の妹達は母の身を案じながら、部屋にこもっていた。
 音ひとつ漏らさないように耐え続けた晩が明けると、隠れ潜んだ暗がりの中にさえも他人に手を差し込まれることを知り、恐怖し、何もかもがどうでも良くなってしまっていた。

 卒業後は手足が付いてさえいれば誰でも入れる派遣社員に登録し、その場で紹介された金属加工の工場へ通っていたが、職場の男臭く、それでいて黴たユニット風呂のような陰鬱な雰囲気が徹底して身に合わず、わずか四日で退職した。
 自分同様の馬鹿でコネも技術もない底辺の集まりでしか働くことしか出来ないのだから、我慢をすれば良いのだが、普通科出身を小馬鹿にされつつ、言葉の通じない中国人トレーナーに頭を下げ続ける、そんな毎日を一年も二年も耐え続けるくらいなら死んでしまった方が楽だ、という考えを持つ甘坊だったのだ。
 家に帰って身体を隅々まで洗っても金属油臭さが中々落ちることがなく、眠る前に爪先から鈍く廃臭い油の匂いがするたび、放っておいてもやがて朝が来てしまうことが憎たらしくなった。

 辞めようと思ったのは職場で偶然出会った近所に住むTというオヤジの一言だった。彼はサラリーマン然とした恰好で毎朝出勤していたのだが、実情は不景気の波に呑まれ、クビになり、今は派遣社員として勤める工場員だったのだ。
 男達が肩を狭苦しく押し並べた刑務所同様の食堂で、乾いたアジフライ弁当を食っていた所、Tが小声で話し掛けて来た。

「江口君。悪いこと言わねぇから、ここはすぐに辞めた方がいいよ」

 Tの背後ではNHKが消されたテレビを使い、ゲームに興じる金髪リーダーを筆頭とする、私とは別班の人間達が楽し気な声をあげていた。

「あの金髪リーダーな、気に入らない奴がいると徹底的にいじめ抜くからよ。目をつけられたらな、最後だぞ。俺な、やられてるんだ」
「え、いじめられてるってことですか?」
「…………」

 Tは箸を止めると、唇を噛んで小さく頷いた。ゲームに興じる一団がわっと盛り上がると、誰かの肘がTの後頭部に当たった。当てた者は謝るどころか、流し忘れの他人糞でも眺めるような目になり、こう吐いた。

「ジジイ、まだ喰ってんのかよ。仕事遅いとメシも遅ぇんだな」

 ははは。という黒く湿った笑い声の塊の奥へ、じっと耐えているだけのTの存在そのものが吸い込まれ、やがて消えて行くように思えた。
 その日の就業が終わり、手洗い場で工場の先輩方が先に洗い終わるのを待っていると、昼の一団に声を掛けられた。

「なぁ、Tから聞いたんだけどさ。おまえY町から来てるってマジ?」
「はい、遠いっすけどマジです」
「まだ若いのにあんな遠くからこんなトコ来てんの!? でもさ、さすがに車でしょ?」
「いや、免許もないんで。電車です」
「うっわ、コイツ終わってるわぁ」

 彼らは再び黒く湿った笑い声の塊を残し、私の前から去って行った。
 私は誰も居なくなった手洗い場で、この不穏な場所に関する微かな痕跡も身体に残したくなく、ピンク色のざらついた油落とし専用の石鹸でひたすら汚れた手を擦り続けた。
 しかし何度洗い終えたと思ってみても、手の匂いを嗅ぐと腐れた金属油の匂いがした。そして再び手を洗い、匂いを嗅ぎ、油の匂いがいつまでも続くので、それが脳の幻覚じみたものに思えた途端、私は石鹸を掴んで工場の入口に向かって思い切り投げつけた。
 干された作業服がぶら下がる工場前で、投げられた石鹸の音に気付く人間はもう誰もいなかった。

 帰り道、駅まで行くために借り受けていた籠の曲がった古い自転車を漕いでいるうちに段々と嫌気が差して来てしまった。漕ぐたびに軋む音を立てる自転車にも嫌気が差し、何処までも灰色が続く工業団地には吐き気を催した。
 私は工業団地を抜けて農道へ出ると自転車を漕ぐのを止め、スタンドを掛けて立ち止まった。そして、自転車から鍵を引き抜き、目の前の畑へ放り捨ててやった。次に真横から自転車を蹴飛ばしてみると、坂になった畔道をわずかに転がり、草叢に果てた。
 そうやって次の朝から、連絡もなしに仕事へ行くのを止めた。

 しかし、止めた所で働かなければ生きてはいかれない。
 家賃を払うのにもギリギリな家には余るような金はなく、晩飯は米に塩を振っただけのものがしばらく続いていた。
 食卓の両親の会話のメインは母が父に窮状を訴え、その責について延々恨み節を吐くことが大半だった。お兄さんに電話して借りられないのか、なんで自分で仕事を取ろうとしないのか、余所の職人はみんな営業している、結局あんたは雇われ大工に過ぎないんだ。そんな言葉を受け続ける父はじっと黙ってばかりだったが、酒を入れた身体の神経に母の言葉が触れると、時折怒鳴り声をあげたり、力で抵抗出来ない妹に難癖をつけて髪の毛を掴んで身体ごと家中を引っ張り回すという暴挙に出ることがあった。
 母親が怒りを露わにしてそれを責めると、東北訛りで

「家が綺麗になるっぺちゃ」

 と呟き、ようやく引っ張り回していた妹の髪を掴む手を放すのであった。
 畳の上に千切れたり抜け落ちたりした髪を拾って捨てるのが、私の役目であった。髪が少しでも残っていると、今度は私が潔癖気味の父に怒鳴られるからだ。
 その時期は喚き声と怒鳴り声と子供の泣き叫ぶ声が、我が家のナチュラルBGMだった。あれこそが本物の「デスメタル」ではないかと、今では思っている。
 家の人間まるごと、金が起因となる心の栄養失調を抱えていた。
 そんな想いをしていたら人に怯えなくなる方がどうにかしていると思うが、妹達は大胆に、そして狡猾に育って行った。
 傍観者でいることしか出来ない私の方が、かえって頭はおかしくなった気がしている。

 働かなければ死ぬしかなく、尚且つ母も時折妹達と共に死ぬことを仄めかすこともあり、このまま経済状況がどうにもならなければまぁ死ぬんだろうな、くらいにしか命について考えてはいなかった。
 とにかく働かなければならない。けれども集団の中で働くことを考えると嫌気が差す上、技術も頭も資格も、私には何もない。やったことと言えば嫌気が差した職場をバックレて、借り受けた自転車の鍵をぶん投げた挙句、畦道に蹴り捨てたことくらいのもので、誰の役にも立てることは一つもなかった。
 そんな状況で、仕事を探していると小さな折込チラシにこんな求人が出ていた。
『劇団員募集 時給 七百八十円~』
 給料は金属工場が時給九百円だったので、ぐんと下がるがそれよりも内容が気になった。
 劇団というのはそれまで趣味で興行をやっているものだとばかり思っていたので、プロ以外の人間が舞台をやるには完全にボランティアの類だとばかり思っていたのだ。
 まるで知らない世界だったが、金をもらえて舞台の上で見知らぬ誰かを演じることが出来るのは、映画好きだった自分の心に惹かれるものがあった。
 募集事務所に電話を掛けてみると、電話番のしゃがれた声の老人が今日すぐにでも面接に来て欲しいという。
 伝えられた住所は隣町の特有の荒れた田畑ばかりが広がっている糞田舎であって、そんな所に劇団事務所があったのかと驚嘆した。

 夕方ならいつでも来てくれて構わないとのことで、自転車を漕いで夕暮れて行く空の下で隣町とを繋ぐ橋を渡って意気揚々と向かってみた。
 辿り着いて私が目にしたのはコンクリート造りの芸能事務所などではなく、空き地にプレハブ二棟を置いて無理矢理棟を手製のパネルで繋げた簡素なものだった。
 砂利で出来た駐車場には劇団専用の錆びたライトバンが停められており、車体には掠れた文字で劇団名が書かれていた。
 果たして、本当にこんな所が劇団事務所なのだろうか? ヤクザか何か怪しげな集団が出て来るのではないかと訝しみながらプレハブの戸を引くと、そこは蛍光灯が片方外された状態の薄暗い事務所だった。学校の職員室に並んでいるような机がふたつみっつ、置かれていて、掛け時計がカチカチと鳴る音が閑に響いていた。

「すいません、面接に来た江口です。誰かいませんか?」

 声を掛けてみたが、反応がなかった。これはきっと住所を間違ってしまったのかと思っていると、奥の方から電話口の老人と思しき怒声が聞こえて来た。

「だから何度言ったら分かるんだよ! おまえのセリフはまるで感情がペラペラなんだよ! セリフをおまえの言葉にするんだよ!」

 やはり、ここで間違いはなかったようだ。劇団だから、稽古中ということなんだろうか。
 あまりに恐れ多く場違いな所に来てしまったことを後悔し始めた矢先、私の声には気付いていたようで、やがて老人がおぼつかない足取りで事務所へ現れた。何処に居ようとも場違いな気分は今でも拭えないが、初めて足を踏み入れた劇団という場所はその中でも一等場違いであった。

「キミが、あの電話くれた子?」
「はい、江口です」
「あっそう。まぁ、座って」
「失礼します」

 事務所の職員机のような椅子に腰掛け、肘を突き合うような恰好で面接は始まった。老人は日に焼けていたが頬がこけていて、白い不精髭が顔のあちこちに散らばって生えていた。白地に黒チェックの帽子とピンクのポロシャツとの相性がアンバランスで、出目金のように出っ張った両目の異質さを緩和させるどころか寧ろ際立たせていた。

「キミはあれだ、高校在学中は演劇部だったのか?」
「いえ、まるで演劇は通ってなくて」
「じゃあ何で応募して来たんだよ?」
「正直に言えば、仕事がなくて応募しました」
「ふうん。まぁ、それでもウチはいいけどね。うちは巡業があるから、二~三ヵ月はドサ回りになるんだけど、構わないね?」
「巡業ですか。あの、どういったものを演じてるんですか?」
「うちはね、人形劇なんだよ。障碍者施設とか、保育園とか、全国のそういう所を回ってんの」

 その時、陽を失くした空に蛍光灯が一本しかない事務所内はすっかり翳り始めていた。そんな光景の中で魔が差したのか、「人形劇」と聞いた途端、それまで意気揚々としていた心の中にあったものがあっさりと死んだのを自覚してしまった。
 そんな様相を察したのか、私を呼ぶ二人称を「キミ」から「あんた」に変えた老人は、胸ポケットから取り出したキャビンに火を点け、話題を変えた。

「あんた、煙草は吸うの?」
「まぁ、はい」
「高校出たばかりだろう? 不良か」
「いやいや、そういうモンじゃないです」
「人形劇なんか、俺は興味ねぇって顔してんな」
「いや、すいません。知らなかったんです」
「劇団だけで人形劇とは出してねぇからなぁ。悪いんだけど、戸を開けてくれる?」
「はい」

 老人に言われた通りにプレハブの戸を開けると、陽が沈んだ後の冷めた空気が室内に流れ込んで来た。煙が揺れ流れ、夏を前にした季節の匂いと入り混じる。その香りは爪の間にいつまでもこびり付く金属油の腐れた匂いとは別の、置き去りにされたような寂しさを感じさせるものであった。
 しかし、老人の傍らで嗅ぐその香りは、決して居心地の悪いものではなかった。
 特に話しが続くこともなく、戸を開いたままでいると、煙草を揉み消した老人が立ち上がって稽古を見て行けと言う。素直に従って隣のプレハブへ行くと、紙芝居の箱様の中で、妙に生々しい顔の造りをした小人が艶のない林檎を持って右に左へ忙しなく動いていた。

『お姫様はこの毒林檎を食べてしまったんだ。もうきっと、目を覚ますことはない……』

 可愛げな女性の声が、箱の裏から聞こえて来た。何の混じり気もないド直球の人形劇だったのだが、それを眺める老人の目は厳しさを越え、憎たらしささえこもっているようにも見えた。 
 誰かの目に似ているな、そう思ったら、妹の髪を掴んで引っ張り回している時の父の目にそっくりだった。
 老人は私の隣から動くと、何の前触れもなく突然人形が右往左往している演劇台(と言うのだろうか)をトーキックで蹴り上げ、唾を飛ばしながら激昂する。

「てめぇナメんなよ! 何を考えてセリフ吐いてんだよ! はい、もう一回!」

『お姫様、は、この毒林檎を食べ、てしまったんだ。もうきっと、目を覚ますこと、はない……』

 先ほどは活き活きしているようにも聞こえていた姿の見えない女性の声は、冷たく湿ったものに濡れ、滴った。ただの人形劇が冴えない悲劇に変わった瞬間だったが、遠く離れて眺めたらコメディに成るのかもしれない。ジジイが怒鳴り散らしながら人形劇の台を蹴り上げる光景は、傍から見たら滑稽ではないだろうか。

 あくまでも傍観者の立場でそんなことを想いながら、十分ほど眺めていたが老人の指導に熱が入っている間に私は開け放たれた戸から出て、そっとプレハブを後にした。私は去り際の言葉も知らない、自覚を持った無知な恥者だったのだ。

 操られている人形がまるで泣いているようにも見えて来ていたのだが、それは演技力を越えた業のようにも感じ、妙に生々しい姿の人形とも相まって、徐々に操られる線が感情の揺れと共にデタラメになるにつれ、私は底知れない気味の悪さを覚えた。

 まだ二百八十円だったマルボロを帰りに買い、札の入っていない財布の軽さに明日へ何の期待もしないまま、自転車を漕いだ。帰り道は街灯すらほとんど存在しなかった。何の季節かも分からぬほど暗く湿った夜には、肥料用の鶏糞の匂いだけが漂っていた。
 家に近付くにつれ、その晩も父を責める母の怒鳴り声が外まで漏れ聞こえており、自転車を漕ぐ私は心の耳だけをそっと塞いだ。


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