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【小説】 神対応 【ショートショート】

 仕事帰りの駅中で普通のスーパーよりちょっとランクの高い「スーパーイチジョー」へ寄って、イチオシのスィーツを買う。それが僕のささやかな日常の楽しみだ。

 その日はフランスのパティシエが監修したとか言う「極上バームクーヘン」がイチオシとして売られていて、僕は迷うことなく商品を手に取り、帰り道を急いだ。

 ところがだ。家に帰ってさっそく「極上バームクーヘン・輪切り五枚セット」を開けてみた。わくわくしながら個包装を取り出すと、袋の中の違和感に気付いた。
 なんと、たまたま手に取った一個のバームクーヘンの輪っかが割れて欠けていたのだ。

 恐らく欠けた状態に気付かずに個包装してしまったのだろうけど、僕はたまらなく残念な気持ちになった。「安心と信頼のイチジョー」がこんな商品を客に提供するなんて夢にも思っていなかったのだ。

 なんとなく食べる気分が失せてしまった僕は、翌日にクレームの電話を入れることにしてバームクーヘンを冷蔵庫にしまった。

 次の日、休みだった僕は朝一番に「イチジョーお客様相談室」へ電話を掛けた。電話はすぐに繋がり、いかにもベテラン風なおばさんの声が聞こえて来た。

「お電話ありがとうございます。イチジョーお客様相談室でございます」
「あの、昨日バームクーヘンを買った者なんですけど」
「はい! 如何いたしましたでしょうか?」
「せっかく買ったのに、あの……商品が割れて、欠けていたんですよね」
「まぁ、なんということでしょうか! この度は誠に、大変、謝ることすら恐れ多いほどではございますが、申し訳ございませんでした」

 おばさんはまるで「この世の終わりがやって来た」みたいに震える声に感情を込め、まず一番に謝罪の言葉を口にした。そして間髪入れず

「すぐに新しいお品物と交換させていただきます!」

 と言ったのだけれど、そこまで言われると何だかこちらが悪いような気がして来てしまい、僕は引き下がることにした。

「いや、これから注意して頂ければいいんで……」
「それはもちろん、仰せの通りでございます! 製菓担当従業員には連帯責任として全員本部での指導を徹底致します。週四十時間の再教育を実施致しますので……どうかご容赦頂きたく……」
「何もそこまでしなくても……本当、別に怒ってないんで」
「お客様は井上俊哉様でお間違いはございませんか?」
「え、はい」
「井上様、ご住所をお聞かせ下さいませ。責任を持って直ちに新しい物をご自宅まで届けに上がります。いえ、お届けさせて下さいませ。もし人員が見当たりませんでしたら、このわたくし、五十嵐が責任を持って直接お届けに上がります」
「あの……時間ないんで別にいいです」
「そうはいきません! では、ご都合のよろしいお時間にご連絡頂けますでしょうか? わたくし、本日であれば徹夜の泊まり込みも致します」
「いやいやいや、いいです! 本当、すいません」
「あっ、井上様!? 井上さまぁー?」

 僕は電話を切った。なんという情熱だろう。別に交換しなくていいと言っている客に対して直接家に新品を届けさせてくれとは。
 こんな会社もあるんだなぁーと思った矢先、スマホに見知らぬ番号から着信が入った。

「あの、もしもし?」
「もしもし?  井上様の携帯電話でお間違いないでしょうか? イチジョーの五十嵐でございます!」

 再び、僕は電話を切った。なんてしつこい人なんだろう。
 何が何でも届けたいらしく、五十嵐はその後三回も電話をかけて来た。
 もう交換は要らないから電話はしないでくれ、と別の担当者に電話をかけたら

「そうはいきません! 早速ではございますが今回の重要案件に関しまして社内で我々共有させて頂いております。責任を持ってお届け、交換させて頂きます!」

 と、取り合ってくれなかった。
 面倒なことになってしまったなぁと後悔した僕はイチジョーお客様相談室の電話番号を着信拒否にした。
 これで一安心。そう、思っていた。

 さらに次の日。

 仕事帰りにイチジョーの前を通り過ぎると、背後から足早な革靴の足音が聞こえて来て振り返った。
 スーツ姿でオールバックの中年男が、こちらに向かって全力疾走して来るのが見えた。

「井上様ぁ! どうか、お立ち止まり下さいませ! 井上様ぁ!」

 ヤバイ、と思った僕はすぐにその場から離れて駅の改札へ入って行った。あれはきっとイチジョーの店長とかマネージャーとか、偉い人に違いない。けれど、いくら常連とは言え、なんで一目見ただけで僕だと分かったんだろうか?
 なんだか怖くて堪らず、乗り込んだ車内に目線を這わせてしまう。数多くの乗客の中に、イチジョーの従業員は紛れていないだろうか……。あの女子高生も、学生風の男の子も、おばあさんも、サラリーマンも、みんなイチジョーの手先に思えて仕方がない。
 その晩、電車を降りた僕は駆け足になって家路を急いだ。

 さらに次の日。
 朝起きてみると見事な晴天で、三月にしてはとても暖かな陽気だった。
 気持ちの良い風を部屋に入れたくなって窓を開け、ベランダへ一歩足を踏み出してみた。
 その直後、僕は言葉を失った。

 二階から見下ろすアパートの小路には、道路を埋め尽したスーツの大人達が僕の部屋へ向かって、無言で土下座をしていたのだ。パッと見ただけでも、その数は百人は下らないだろう。
 誰も彼も一言も声を漏らそうとせず、硬い地面の上に額をつけてじっと土下座を続けている。

 あまりの光景に怖くなった僕は窓を急いで閉めようとすると、まるでタイミングを見計らったように彼らの大声が住宅街に響き渡った。

「井上様、この度は申し訳ございませんでしたぁー!」

 その日、僕は外に出るのが恐ろしくなって会社を休んだ。
 昼前になると彼らの姿は消えていた。

 それからは電話が掛かって来たり彼らが直接謝罪しに来ることもなくなった。仕事帰りに恐る恐るイチジョーの前を通ってみたものの、従業員達が僕の方を一瞥することもなかった。

 これでようやく平穏な日々が戻って来た。もう少し落ち着いたらまたセイジョーで買い物をしてやっても良いかもしれない。ただ、もうクレームを入れるのは止めにしよう。

 すっかり謝罪騒ぎも落ち着いた四月。
 僕の住んでいるアパートは住人の入れ替わりが多く、約半分の人がここを出て行った。そして再び新しい住人がやって来たりして住人が減ることはなかったし、中には律義に挨拶をしに来てくれる大学生までいた。

 休みの日の朝で気分よく掃除をしていると、インターフォンが鳴った。
 また新しい住人が来たのだろうと玄関を開けると、見知らぬ白人男性が立っていた。
 外国人が引っ越して来たのかと思い、英語が全くできない僕はすぐに緊張してしまった。

 すると白人男性は深々と頭を下げ、こう言った。

「コノタビハ、私カンシューシタバウムクーヘンデ、ゴメイワクシマシタ。誠ニ、モーシワケアリマセンシタ。私ハ、オワビニ直接バームクーヘンヲ作リ二、フランスカラキマシタ。デハ、オジャマシマス」

 外国人は僕を押し退けて室内に入って来た。お菓子の材料であろう甘い匂いが鼻を突いた途端に僕は絶句してしまい、とうとう声も出なくなってしまった。


※過去に書いた小説を加筆修正しました。

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