【小説】 時の粒 【ショートショート】

 汗だくになり、炎天下を年甲斐もなく必死に走る。肺が潰れそうになるまで走るが、足がもつれ、力が入らない。乗るはずだったバスが、目の前で去ろうとしている。

「待って! 待ってくれ!」

 乾涸びた喉を振り絞り叫んでみたが、時間通りに発車したバスは問答無用で私を置いてけぼりにしたまま、陽炎の向こうへ行ってしまった。歳のせいで上がる息を抑えきれず、膝に手をついて項垂れる。
 こんなにも体力は無くなるものなのか。高校時代、陸上で鍛え上げた身体は一体何処へ行ってしまったのだろう。
 私はいつも人に良い顔をしてばかりいて、人生においても常に置いてけぼりを食らっている。同僚達は皆出世し、うだつの上がらない独身の万年平社員のまま、気が付けば四十を越えてしまった。この年齢で外回りをしている者など、社内にはもう私の他に誰もいなかった。
 次のバスまで仕方なく待とうと待合所の椅子に腰掛けようとすると、椅子に座る仙人のような長い白髭を蓄えた老人が目に入った。
 左目は義眼なのだろう。辻褄の合わない目線の片方だけを私に向けた老人が手招きし、隣の椅子を二度叩いた。ここへ来い、という意味だろうか。
 上る息を抑えながら腰を下ろし、老人に会釈する。

「参りましたよ、あと二分早く出れば良かった」
「はっはっは。それは残念でしたな」

 老人は柔らかな笑い声を立てると、鼠色のポロシャツの胸ポケットから透明の小瓶を取り出した。小瓶の中には薄黄色の砂が入っている。

「これをあなたに差し上げましょう」
「あの……これは、砂ですか?」
「ええ、時の砂です」
「時の砂?」
「少量摘んで落とせば、その分少しだけ時間が戻る」
「まさか、冗談を」

 私が鼻で笑ったのを気にも止めず、老人は小瓶から砂を手のひらにほんのわずかに取り、さらに親指と人差し指で摘むと、パラパラと地面に落とした。何だ、まじないのような物か。
 そう思い、顔を上げると目の前にバスが停まっていた。慌てて腕時計を確認すると、針はバスの発車時刻である十二時四分を指していた。

「冗談だろ……」
「はっはっは、本物ですよ。私はもう戻したい時間などありませんから、これをあなたに差し上げますよ」
「まさか……」

 私は半信半疑で小瓶から親指大ほどの砂を取り、地面にばら撒いてみた。

「孝史! 起きなさい! いつまで寝てるの!」
「……嘘だろ……」

 バス停だったはずの景色は、長野に在る実家の私の部屋に変わっていた。目の前には腕組みをするまだ若々しい母の姿があった。
 とっさにベッドから下り、学習机にあった教科書を確かめる。
 「高Ⅱ数学A」という教科書を手に取り、私は次に鏡を確認した。
 そこには紛れもない、ニキビだらけの高校二年の頃の自分が映し出されていた。
 恐ろしいような、信じられないような、何と表現したらいいのか分からない気持ちのまま食卓に着き、死んだはずの父とまだ若い母の会話を懐かしい味のする味噌汁をすすりながら聞いていた。

「このオウムって教団はなんだ。まるで殺人集団じゃないか」
「ほら、谷津さんの息子さんいるでしょ? オウムなんじゃないかって噂よ……」
「うむ。そういう噂をやたら信じてはいけないが、用心するに越したことはないな」

 私は目の前の景色の何もかもが信じられないまま、学校へと足を運んだ。
 まだ禿げていない旧友の姿や、後に逮捕された担任が教鞭に立っている。そして今ではスナックを営んでいるというクラスのマドンナ・木下聖子さんも輝くようなフレッシュな笑顔で目の前に存在していた。
 どうやら全てが本物らしい。
 そう確信した私は全てをやり直せることへの喜び、熱意で胸を躍らせた。
 
 在学中に不出来だった勉強も、後に学んだ学習法のおかげで難なく優秀な成績を収め、当時は長距離の補欠選手に過ぎなかった陸上も、最新のスポーツ理論を駆使したおかげで県大会出場を決めた。
 何もかもが上手く運び、木下聖子と付き合うことまで出来た。
 当時の反省を活かした訳ではない。何かに失敗する度、私は胸ポケットに入っている砂粒を落とし続けただけなのだ。
 
 大学に入る頃には競馬にのめり込んだ。レース結果を見届け、少量の砂粒を地面に落とす。これを何度も繰り返している内に、私は見る見るうちに大金持ちになった。
 大学卒業後は起業し、後にブームとなる商品や商材を誰よりも早く世に広めた。経済誌には私の特集記事が毎号のように組まれ、新進気鋭の鬼才とまで呼ばれるようになった。
 バスに乗り遅れた頃の、冴えない中年親父だった私は最早そこにはいなかった。バラエティ番組で、投資志願者に罵声を浴びせ、「金が欲しいだけなら持って行け」と土下座する志願者に札束を放ったシーンが話題になった。
 勿論、やり過ぎた自己演出をしてしまった際は砂粒を落とした。
 私はこの世の全てを征服した気分になった。誰にも、私を否定させない。そして、出来やしないのだ。
 砂粒はまだ小瓶に半量も残っている。その気になれば、この世界を手にすることも可能だろう。私は有頂天の最先端に立っていて、その足場が実に脆いことにさえ気付きもしなかった。

 六本木のタワーマンション。その最上階に帰ると、妻の聖子が私を玄関まで出迎えた。 
 私は常に多忙を極めていて、この家に帰ることが非常に稀になっていた。贅沢な話かもしれないが、例え高速のエレベーターがあるとは言え、タワーマンションの最上階まで上がるのが面倒だったのだ。
 生まれて初めて女の肌を覚えた聖子を抱きたい時にのみ、私はこの家に帰って来る。普段は愛人として囲っている他所の女に貸し与えている家を泊まり歩いていた。 

「孝史さん、お久しぶりです。お食事にしません? 用意は済んでるの」
「すまないが、もう済ませてある。それより……」
「ねぇ、たまにはお話ししましょうよ、ねぇ、いや!」

 私は嫌がる聖子を食卓テーブルの上に押し倒し、無理に口付けをした。唇を閉じて顔を背ける聖子を眺めているうちに、私が否定されていることに興奮を覚え、私は力を込めて聖子の身体をテーブルに押さえつけた。
 嫌がれば嫌がるほど、私は燃え上がった。そうだ、私を否定し、そして最後には屈服して受け入れるがいい。どうせ、そうなる。
 テーブルの上に押し倒されたまま、聖子は突然ぽろぽろと涙を流し始めた。
 途端に面倒になり、視線を外すと床には聖子が用意していたという質素な肉じゃがや焼き魚などが散らばっていた。聖子が何を喚こうが、また砂を落とせば良い。私は次に砂粒を落とした後に、より高い興奮を得る為、聖子にあえて口を開かせてやった。

「こんな良い暮らしをさせてやっているのに、おまえは一体何が悲しいと言うのだ」
「私は……孝史さんが、もう分からない……」
「何を言っているんだ。私は私じゃないか。気でも狂ったのか」
「違う……孝史さんが変わったのよ。私は、何度も孝史さんが元に戻ってくれる日を願ってた。高校の時の、何事にも一生懸命な孝史さんが……好きだった……私には、孝史さんの心を変えることが出来ないの、無理なの……」
「何を言っているんだ。高校時代? 下らない。戻れるはずがないんだ、いい加減にしろ」

 無駄な感傷に浸る聖子に、私はほとほと呆れ返った。小瓶を取り出し、蓋を開ける。どれ、次はどれだけ私が興奮出来るのか見物だ。しかし、女の感傷の戯言など、また聞かされるのは勘弁だった。
 小瓶を手にし、砂粒を落とそうとすると聖子はドレスの内側から何かを取り出した。

 私は息が止まりそうになった。

 聖子が取り出したものは、私の物とそっくりな薄黄色の砂の粒が入った小瓶だった。

「……おまえ、それは……」
「私は何度戻っても、孝史さんを変えることが出来なかった。何度やり直しても、結局はこうなってしまうの」
「どういう事だ……」
「私は孝史さんに告白されるずっと前から、孝史さんが好きだった。皆に優しくて、誰にでも平等に人に接することの出来る孝史さんが、私には輝いて見えていたの」
「おまえ……まさか……そんな、嘘だろう……」
「いつかまたあの頃の孝史さんに会えたらって、願い続けた私が馬鹿だった……これでもう、終わりにしましょ」
「聖子!」

 聖子は小瓶の蓋を開け、逆さまにする気だろう。それに気付いた私はとっさにその腕を掴もうとした。今の私は、聖子そのものを愛している訳ではない。聖子は、成功した私の人生の象徴のような存在なのだ。もしも失ってしまったら、私の積み上げて来たメンツが丸潰れだ。

「しまった!」

 焦った私はうっかり、自分の持っていた小瓶を落としてしまった。床に拡がる肉じゃがの汁の上でコツン、と乾いた音がして、薄黄色の砂がぶちまけられる。
 瞬間、聖子が目を閉じて微笑んだ。私は聖子に目を向けたまま、気が付くとあの炎天下のバス停の椅子に座っていた。
 出っ張った腹、汗に塗れた安物のワイシャツ。私は紛れもない、ただの冴えない四十男に戻っていた。
 隣に座る老人が私を見つめながら微笑んだ。

「あなたは運が良い。乗りたかったバスまで少し、時間があるようです」
「これは……現実ですか……」
「ええ、あなたに小瓶を差し上げた時の、あの場所ですよ」
「そうですか……」
「そう訊ねるということは、どうやら砂を盛大に撒いてしまったようですな」
「そうですね、蓋を開けたまま落としてしまいました」
「はっはっは、そうですか。そういうこともあります」

 そう言って老人は胸ポケットから再び小瓶を取り出し、私に差し出した。

「実は、何故かもう一瓶あるんですよ。どうぞ」

 私は震える指でその小瓶を受け取った。蓋を開け、しばらくそのままの状態で過去に戻った日々のことを思い返した。
 あの時乗るはずだったバスが、近付いて来る。バスがブレーキを掛けながら停車を知らせる音を鳴らし出したのと同時に、私は小瓶の蓋を閉めて老人に返した。

「私はもう……要らないです」
「そうですか。バスに間に合って良かったですな」
「はい。あの、何というか、ありがとうございました」
「いいえ。どうか、お元気で」

 バスの扉が開き、ステップを上ると椅子に座ったままの老人が私の背中に声を掛けて来た。

「あなた、良い選択をしましたね」

 言葉を返そうと振り返る。しかし、バスの扉はお構いなしに閉まってしまった。老人は真っ直ぐ前を向いたままの姿勢で、どんどん小さくなって行く。やがてその姿が見えなくなった頃、老人に返そうとした言葉が何だったのか、必死に思い出そうとした。


サポート頂けると書く力がもっと湧きます! 頂いたサポート代金は資料の購入、読み物の購入に使わせて頂きます。