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【瞬間小説】 はい 【ショートショート】

 こちらの出した指示を彼は淡々と熟す。否定というものを一切せず、愛想笑いのひとつもないが仕事上では大変助かる人物だ。
 ある日、彼とこんなやり取りをした事があった。

「稲村君、君は趣味とかあるのかい?」
「業務とは関係のない質問に思えます。指示を出して頂けますか?」
「なら……これは円滑なコミュニケーションの為に必要な指示だ。稲村君、趣味があるなら教えてくれないか」
「趣味は無駄な時間なので有りません」

 私は辟易とした。酒も飲まない、煙草も吸わない、女の気も全くない。彼は一体、何の為に生きているのか私には到底理解が出来なかった。
 彼が昼に食うものは、毎日決まってコンビニのサンドウィッチとブラック珈琲だった。
 スーツやインナーシャツは全く同じ組み合わせの物を何着も持っているそうだ。
 
 初めの内はからかい半分で接触しようとしていた彼の同僚達も、いつの間にか彼を避けるようになった。
 彼の存在そのものが、不気味でたまらなくなったらしい。

 今日、というか先程、彼にこんな指示を出してみた。
 会議室で二人きりになり、私は辺りに人の気配が無い事を入念に確認してから彼に指示を出してみた。

「稲村君、至急死んでくれ給え。急ぎだ」
「かしこまりました。では、方法を指示して下さい」

 彼は眉ひとつ動かす事なく、そう答えた。私は眼鏡を外し、眉間をぐっと指で押さえながら逡巡した。

「……庶務室に縄がある。そこのカーテンレールに縛って、首を吊ってくれ給え」
「早速、取りに行って参ります」

 そうして今、彼は小さな脚立の上でブラインドを外しながらカーテンレールに縄を結び付ける「業務」を行なっている。
 私は電子煙草を燻らしながら、その姿を眺めている。

 首に縄が巻かれ、いよいよその時が来たけれど、何故か焦りを感じたり悲しみが湧き上がって来る事は無かった。乾いていて、まるで無味無臭の光景だった。
 無論、怒りなど皆無だった。
 
 そうして小さな脚立の上から彼の足が外れようとした寸前で、彼の動きがピタリと止まった。

「稲村君、どうしたんだ?」
「申し訳ごさいません。この業務は完了出来ません」
「何故だ?」
「俯瞰的に見た場合、私は生きながらにして既に死んでいるからです」

 彼はそう言って、誕生日に欲しかった玩具ではない物をプレゼントされた子供が親に見せるような、とても曖昧で不器用な笑顔を私に向けた。初めて見る、彼の笑顔だった。

 私は思わず乾いた咳混じりの笑い声を漏らした。
 けれども、自分自身の行いに笑いの感情は冷え切っていた。
 
 業務を放棄した彼に、私は新たにこのような指示を出した。

「新しい指示を出そう。生きなさい」
「はい」

 彼は背筋をピンと伸ばし、颯爽と会議室を出た。

 誰も居なくなった会議室。私は窓際に残された小さな脚立の上に立ち、彼の放棄した業務を引き継いだ。





















 

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