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【小説】 幸せものの猫 【ショートショート】

 若い住人の多い街の駅前を抜け、住宅街に入ると車二台は余裕で入りそうな大きなガレージのある一軒家が立っている。
 そのガレージには大抵どの時間でもその家の飼い猫がウロウロしていたり、餌を食べていたり、戯れあったりしているのだ。
 その猫達が全てその家の飼い猫かと言えばそういう訳でもなく、一日を通して様々な猫がこの家へ出たり入ったりしている。

 そんな猫達の中でも一匹、特別な風格を持つ猫がいる。
 身体が大きな訳でもなく、ましてや威圧的な風貌をしている訳ではない。

 横に広い顔についた目は若干垂れ下がっていて、身体付きは「たくましい」というよりも「メタボリック」という風体をしている。
 この猫の風格の何が凄いかと言うと、いつ如何なる場合であってもガレージの隅に寝転んだまま、微動だにしない所にある。

 通学路の子供達がプールに飛び込むような勢いで猫達を求め、一斉にガレージへ飛び込むと、大抵の猫は驚いて薄暗い影の中へ消えてしまう。
 しかし、この猫は違う。

 まるで何事も起きていないかのように平然と横になったまま、尻尾まで振って見せたりする。

「かわいー」
「ブサイクだけど可愛いね」
「可愛い! でもブサイクだもんね」
「ほんとブッサイクだねぇ」

 そんな言葉が飛び交うと、猫も流石に機嫌を損ねるのだろうか。顔に良く似合ったダミ声で、

「ニ゙ャアー」

 などと鳴いたりするのだ。

 そんな猫がいるこの家の前は、多くの人達が行き交う場所でもある。
 しかし、誰が来ようとも猫は猫のまま、威風堂々と横になり続けている。

 いつものように猫が横になっていると、男の子の小学生二人組が何やら言い合いをしながらやって来た。

「この前のサッカー、あれおまえのせいで点取られたんだからな」
「うっせーよ! だって、あんなん遊びじゃん? どうでも良くない?」
「おまえに取っては遊びかもしれないけどさ、オレはサッカーやる時はいつだって本気なんだよ!」
「はいはい、熱い熱い。そういうのジコチューって言うらしいですよー」
「自己中じゃねーよ! おまえ、ふざけんなよ!」
「はぁ? 何頭来て……あ、猫だ」
「……本当だ」

 危うく掴み合いになり掛けた二人はそっと腰を下ろし、やたら大人しいのか、物応じせずに堂々としているのか、どちらか一体分からない不思議な猫を撫で始める。

「大人しいぜ、こいつ」
「人馴れしてるんじゃん? しっかし、ブサイクだなぁ……」
「な。ブサイクだよな」

 二人は喧嘩になりそうだったことも忘れ、立ち上がると今度はゲームの話をし始めた。
 すると、その数秒後にはもう新しい笑い声が辺りに響き始めていた。

 別の日。猫が横になりながら尻尾を床に叩きつけて遊んでいると、遠くの方から人間の男女がやって来る声が聞こえて来た。

「だから違うんだって! 頼むから聞いてくれよぉ」
「ヤダ、聞かない。どうせ浮気してたんでしょ」
「たまたま一緒の部屋に居て、そのまま寝ちゃっただけなんだって!」
「でも二人きりだったって、ナオキから聞いたよ?」
「それはみんな帰っちゃったからでさ……」
「やましい事ないなら最初からそう言えばいいじゃん! なんで言わなかったの?」
「だってさぁ……」
「だって、何?」
「奈菜に変な心配掛けたくなかったんだよ」
「……最初から言ってくれてたらこんなに怒ってない」
「それは、悪かったよ。ナオキにチクられるまで俺から言おうと思ってたのは本当で」
「はぁ!? チクるって何? マジありえないんだけど!」
「それは違うんだって! 別に俺は何もしてないんだから!」

 その時、横になって転がっていた猫がそっと顔だけを声のする方向に向けた。
 緑色の目に映るのは人間の男女二人組で、ガレージの前に立ったまま何やら言い争っている様子だった。
 噛み付くような声が気に障った様子の猫は、やはり寝転がったままの姿勢で顔だけをそちらに向け、

「ニ゙ャアー」

 と鳴いた。
 声を荒げていた女はピタリと声を張るのを止め、ガレージの暗がりをそっと探し始める。しかし、そこに猫はいない。
 軋んだブレーキのような音だったが、恐らくあれは猫の声だった。そう思いながら、ふとガレージの柱の下に目を向けてみる。
 すると、寝転がったまま顔だけをこちらに向けた顔の不出来な白猫が、いかにも不機嫌そうな眼差しでこちらを見ていることに気が付いた。
 猫も猫で気付かれたことに気付いた様子で、間髪入れずに再び、

「ニ゙ャアー」

 と鳴く。
 男女は顔を一瞬見合わせ、猫の側にそっと腰を下ろす。男が静かに手を差し出すと、猫は「されるがまま」と言った様子で微動だにせず撫でられ始める。
 女も同じように猫を撫で始めると二人の間には一瞬の笑みが生まれたが、猫は素知らぬ顔で寝転んだまま、のん気に喉をごろごろと鳴らし出した。
 撫でている間に、離れていた二人の心が再び近づいて行く。

「……ナオキから「何も無かったよ」って、聞かされてたよ」
「そっか……ちゃんと知ってたんだ。ごめん」
「私も疑ったりしてごめん」
「今度からもしこんな事があったら……絶対に言うから」
「ねぇ、そんな事がないように出来ない?」
「分かった。万が一でも、ないようにする」
「うん……。なんか、お腹すいちゃった」
「何か食べ行こうか」
「そしたら、私ね」

 立ち上がって遠退いて行く男女の声を聞きながら、猫は眠りに就く。
 春も、夏も、秋も、嫌いな冬も、猫はそうやって過ごしている。
 ただそこにいるだけで、幸せに至る些細な切欠を与え続けている。

 やがて季節も巡り、猫もすっかり年老いた。しかし、見た目だけは毛並みが多少悪くなったくらいで、あまり変わることはなかった。
 一日のうちの起きている時間と寝ている時間の境がいよいよ分からなくなった頃。
 猫は自分の寿命が近いのを悟ったかのように、ただ静かに、他の猫達の往来を曇りがちな緑色の眼で眺める時間が増えて行った。

 他の猫達が散歩に出掛け、春のうららかな陽気のガレージに猫は一匹だけ取り残された。尻尾を上げる体力もなく、意識がゆっくりと、ゆっくりと落ちて行く。落ちた先を想像出来ないうちに、眠りに身体を掴まえられてしまう。

 そのすぐ後に、若い夫婦とまだ小さな女の子がガレージの前を通り掛かった。
 
「ほら、ゆきちゃん。ニャンニャンだよ、ニャンニャン」

 父親が柔らかな声でそう言うと、女の子は猫の側に腰を下ろしてその姿をじっと眺め始めた。あまりに静かな為に、寝息を立てているのかも分からない猫の前で、女の子は「触っていい?」と聞く代わりに、両親に楽しげな顔を向けた。
 両親が笑顔で頷くと、許しを得た女の子は優しく猫の頭を撫で始めた。春の日差しが穏やかな熱を風に乗せて季節に吹き込むと、やがて猫は薄目を開け始める。
 ゆっくりと開いた視界の先で、また誰かが自分の頭を撫でていることに気が付く。

「かわいいね」

 女の子がとても嬉しそうにそう言うと、猫は薄目のまま、

「ニ゙ャアー」

 と鳴き、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
 両親は女の子と猫の姿に微笑を漏らし、女の子は猫の姿に微笑を漏らし、猫は季節の暖かさに自身の命がまだ在ることを感じていた。
 そうして、喉を鳴らし続けるのであった。



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