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【七夕小説】 長い逢瀬 【ショートショート】

 昭和六十年七月七日。

 願い事を囁き合う園児達が不慣れなひら仮名を使い、それぞれの想いを短冊に寄せている。その光景を微笑ましい気持ちで保母の優子は眺めていた。朝から降り続いている雨は軒先からぽたぽたと垂れ続け、生憎止みそうにもない。

「先生、短冊に何書きよったん!」

 前歯が一本抜けた男の子の園児が駆け寄ると、優子は自身の書いた短冊を指で触れながら、小さな秘事のように声を潜めて園児に伝えた。

「織姫と彦星が、いつか会えますようにって」
「いつか? 今日、会うんと違うん?」
「お空は雨が降ってるからね。会えるといいなぁって」
「ふぅん。なぁ! オレの書いたん見て!」

 園児に手を引っ張られ、色とりどりの短冊の中へと連れて行かれる。
 優子は七夕になる度、空に願いを掛けている。
 人知れず誰にも分からぬよう、小さく深い、叶わぬ願いを。

 昭和五十三年。夏。

 緊張の面持ちで勝は優子の自宅の前へ立っていた。
 たった一つだけ持っていた白い綿シャツは汗に濡れ、肌に張り付いて中々離れようとしない。
 
「入って」

 怪訝な顔を浮かべながら、優子の母が玄関の引き戸から顔を覗かせた。その背後に立つ優子は、先ほどまで泣いていたようで目を赤く腫らしている。

「優子……目ぇ真っ赤で、どうしたん?」
「まー君、入って。お父さん……待ってるから」
「……お邪魔します」

 薄暗い廊下を抜け、扇風機の回る居間へ入ると優子の父が居間の入口に背中を向け、胡坐を掻いていた。
 勝は卓袱台に腰を下ろしたが父は背中を向けたまま、声を掛けてくる様子はない。水のひとつも差し出される事なく、完全に厄介者と思われているのを痛感する。
 とにかく切り出さなければ仕方ない、そう思い勝は父の背中に声を掛けた。

「あの、前原に住む福島勝……と言います」

 勝が挨拶すると、父は背中を向けたまま機嫌の悪そうな声を出した。

「前原……ウラのもんが、うちになんの用だ」

「ウラ」という言葉に優子の母が反応し、一瞬だけ勝に目を向ける。そして、呆れたように目を離すと林檎をひとつ剥き始めた。サクサクと鳴るその音だけが、居間にひっそりと響いている。
 優子は俯きながら腫れた目を勝に向け、小さく頷いた。それを合図に再び、勝が声を振り絞る。

「ウラのもんで、すいません。お話しがあって参りました」
「分かっとるなら、話す事は何もない。身分ちゅうもんがあるじゃろう。帰れ」

 勝が住む「ウラ」とは街に立つ山の裏側の地区の事を指している。街の中はそのまま「マチ」と呼ばれており、貧しい者が多いウラに住む者は昔から差別の対象とされて来た。
 勝の家は風が吹けば飛ぶような平家の掘立て小屋で、優子の家は松の木のある庭も立派なマチの中でも一等地に立つ、所謂「金持」の家だった。
 勝は震える手で握り拳を作ると、急に声を張り上げた。

「優子さんと結婚させて下さい! お願いします!」

 二十一歳。生まれて初めての土下座だった。伏せた頭の先は何も見えなくなり、真新しい畳の匂いが鼻を突いた。
 直ぐに許してもらえるはずがないと分かりながらも、声を掛けられるまで頭を下げていると、頭の上からゆっくりと何かに強く押されるのを感じた。

「ウラのもんが、トチ狂いよって。おい」
「……はい」

 勝が顔を上げようとすると、父は勝の頭を踏みつけている足にさらに力を込めた。

「誰が頭上げぇ言うた? おい、ウラのガキが何抜かしとるんじゃ」
「優子さんと……どうか……」
「ふざけるのも大概にせえ!」

 次の瞬間、勝の鼻先に強烈な痛みが走った。足で思い切り踏みつけられた鼻先が畳に減り込み、すぐに鼻血が噴出した。

「大事な娘を山のコジキにくれる訳なかろうが! ええ!?」
「う……ウラのもんは、コジキと違いますけ……」
「コジキじゃろうがぁ! ほんなら小便臭いウラに大学出はおるんか? 勤め人はおるんか? おらんじゃろうが! 貴様は何だ? ゴミ拾いか? それとも盗人か?」
「……い、印刷工場へ……」
「なぁにが印刷工場じゃ! きったならしいのう! おい、優子。帰らせえ。こんな汚い顔、見とうない」

 父が勝の頭から足を離した途端、優子が叫んだ。

「父さん!……お腹に、子供がおるんよ」

 蒸し暑い夏の居間で、父は娘の言葉に我を失った。
 
「この……クソコジキがぁ!」

 大きなクリスタルガラスの灰皿を手にした父は、容赦なくそれを勝の頭に打ちつけた。裂傷を負った勝の頭から血が流れ、井草の香り立つ畳を染めて行く。母はまるで関心がなさそうに、目すら向けずにひたすら林檎を剥き続けている。父を止めようとした優子は振り払われ、後ろへ転がって襖に大きな穴を空けてしまった。
 
 それでも勝は頭を下げていた。意識が朦朧としながらも、決して頭を上げようとしなかった。
 しかし父の怒りは収まらず、地面を突き破るガスのような怒りの矛先が次に優子へ向いた。

「こん腹ん中にコジキのガキがおるんか! 引っ掻き出したる!」
「やめて! 父さん! お願い、やめて!」
「ボケが黙って蹴られんかい! 腹ん中のガキが死ぬまで蹴るに決まっとろうが、こんクソバカタレがぁ!」

 掠れて行く意識の隅。優子を横目で見ると、父が執拗に優子の腹を蹴り続けていた。頭ではなく、腹を必死に庇っている優子を見た瞬間、勝は自身の自意識が切れる音をその耳で聞いた。

※※※※※※

「主文。被告人を、懲役五年の刑に処する」

 初犯の殺人未遂。凶器は優子の母が林檎を剥いていた果物ナイフだった。しかし、状況が状況だけに、供述によっては執行猶予まで持って行けるのではないかと勝は弁護士に散々言われ続けていた。しかし、勝は一貫して「殺すつもりだった」と殺意を否定しなかった。

 塀の中での暮らしは淡々としたもので、印刷工場へ勤めていた時の方がよっぽど勝の身体には堪えた。自身の犯した罪を背負ったまま、勝は幾つかの季節をその場所で過ごした。男の脂と小便の匂いが四六時中漂う雑居房。殺風景であり、無機質で不衛生な塀の中。勝には塀の中だけではなく、もはや塀の外に敵もいなければ、味方もいなかった。

 勝の母は「マチ」の中の喫茶店で優子と待ち合わせをし、頼まれていた手紙を優子に手渡した。喫茶店には似つかわしくない継ぎ接ぎだらけの勝の母の姿に、優子は思わず胸を痛めた。

——背景、織島優子さん。僕は自分のした事をしっかりと償い、五年間を全うするつもりです。僕の至らなさが原因で、優子さんの父を傷つけただけではなく、僕らの子もダメにしてしまった。これら全て、僕の責任です。
僕がいたら、間違いなく優子さんの将来を閉ざすことになる。
どうかお願いです。僕のことはきっぱり忘れて、幸せになって下さい。
いつまでも、いつまでも大切な優子さんへ。
                         彦根勝

 その手紙を読みながら、優子は何度も何度も涙を流した。夏の日も、秋の日も、冬の日も、春の陽気に自然と胸が弾む日でさえ、涙を流し続けた。

 五年後。勝の母から出所が七月七日と聞いていた優子は、両親に内緒で刑務所へと車を走らせた。朝早くから久しぶりに見る姿を想像し、胸が張り裂ける思いだったが、昼を過ぎてもついに勝が姿を現す事はなかった。

 夕方近く、刑務官に確認を取ると彼は笑いながらこう言った。

「彦根君かぁ。いやぁ、懐かしい名前だね。とにかく真面目なヤツでしたからね、今年の三月に出所しましたよ」

 その話を聞くや否や、優子は焦る気持ちを無理矢理抑えながらヤマの勝の自宅へ赴いたが、そこには母の姿すらなく、家は完全にもぬけの殻となっていた。

※※※※※※

 それから数年の月日が経ち、両親の元を離れた優子は港町で保母をして暮らしていた。そして、その町で大型漁船を操る漁師と出会った。きっかけは郵便物の誤配送だった。二人は偶然が運んだ苗字の珍しさと出会いに笑い合った。二人はやがて結婚し、いくつかの季節を越えると優子は一児の母となった。
 それでも七夕になると、毎年同じ願い事を誰に話すことなく短冊にしたためた。
 したためる行為とは裏腹に、短冊を飾るたびに願い事が遥か遠くの空へ昇って行ってしまう事を実感していた。

 丁度その頃、優子と同じ町の外れに一人の男が越して来ていた。
 男はとても寡黙で、仕事熱心だった。金属加工の腕前を評価され、町で一番大きな工場で職人として勤め始めた。しかし、この町でたった一人、その男を知るはずの優子に男の存在が知られる機会はついに訪れなかった。
 すぐ近くにいたはずの互いの存在に触れる事なく、偶然は必然にならないまま幾つもの季節が二人の前を通り過ぎて行った。

※※※※※※※※

 勝は隣町の女と結婚し、家は小さくても笑いの絶えない家庭を作り上げていた。父がなかった勝は一人娘が出来ると「美織」と名付け、目に入れても痛くないと豪語するほどに可愛がった。あの日、優子の父が背を向けていた理由をその時になってようやく理解出来た気がしたものの、理解したところで全てが過去になりつつあった。

 それからさらに、二十数年の月日が流れた。

「お父さん、違うって! 携帯の写真見る時は、このボタン。右よ、右」
「そう言われてもなぁ……機械ってのは進化し過ぎなんだよ。右、右……おまえの彼氏、これか?」
「そう。男前でしょ?」
「ほー……確かに」

 携帯に映し出された写真には背が高く、いかにも聡明そうな顔立ちの男が映し出されていた。スポーツマン、と言った感じの印象を受ける。

「彼、広告代理店に勤めてるんだ」
「なんだ、チラシでも配ってんのか? 大丈夫かぁ?」
「違うよ! そんなショボイ仕事してないよ」
「名前は何て言うんだ?」
「織島勇人くん。名前もイケメンでしょ?」
「織島?」

※※※※※※※

 二人の婚約報告の後、両家の親同士の顔合わせが行われる事になった。
 七月七日。街中の料亭で、普段着慣れないスーツに身を包んだ勝は緊張のあまり額に汗を浮かべ、石のように固い表情を浮かべていた。

「なんで送り出す方がガチガチになってんのよ? もっと堂々としてなさいよ……」
「こういうのは、どういう顔をしてたらいいもんだか……」
「あなた父親でしょ? 何弱気になってんのよ」

 妻に小言を言われながらも、勝は呼吸を整えて天井を見上げた。

 若い頃、自分が同じような状況で人様の人生を狂わせてしまった苦い思い出が自然のうちに蘇って来る。まさか自分が見送る側になる日が来るとは、夢にも思っていなかった。蘇って来る思い出を前に、その頃夢に見ていた未来がどんな風景だったかも、今はもう思い出せなくなりつつあった。

※※※※※※

「勇人、ほら。もっとネクタイをビシっと締めて」
「分かってるよ……ったく、大丈夫だよ」
「大丈夫大丈夫って! そんなんでお嫁さんもらって平気だと思ってるの?」
「まぁまぁ、母さん。男の晴れ舞台なんだ。勇人に任せてみようじゃないか。な?」
「あなたは本当、甘いんだから……とにかく、ビシッとするのよ」

 前日の夜。優子はあの日からずっと続いていた願い事とは違う願いを、短冊にしたためていた。

——やっと出会えた織姫と彦星が、ずっと幸せでありますように

 それは息子と、その妻になる二人の未来を祝福する願い事だった。
 短冊を飾ると過去へ過去へと流れて行った願い事が、ついに光を失くして遠くの空へと消えて行った気がした。
 
※※※※※※

 七月七日は生憎の雨だった。空を見上げればどんよりとした蒸した灰色の空が広がっている。勇人はこれから妻になる恋人と、その両親が待つ奥の間へと先頭を切って廊下を進んで行く。
 奥の間の前に立った勇人が襖に手を掛けると、優子が背中で小さく囁いた。

「勇人、しっかりね」
「……うん」

 大丈夫、と言わない息子の声に優子は少しの不安と、大きな頼り甲斐を感じていた。
 勇人がゆっくりと襖を開き、頭を深々と下げる。
 立ち上がる恋人と、その両親。
 それと同時に、頭を下げる優子と、夫。

 通過儀礼のような時間が一瞬で去り、頭を上げた途端に優子は目を丸くした。相手もまた、すぐに分かったのだろう。
 あの日からずいぶんと長い時間が経っていた。しかし、我が子らの悪戯な運命により、知らぬ間に優子の願い事は叶えられていたのだった。

 優子と勝は視線を合わせ、互いに涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
 歯を食いしばり、唇を噛み締めた。そして、互いに生まれて初めて会ったような顔で微笑んだ。

「初めまして」

 そう声を上げた勝は、声を出した瞬間に堰を切った様に涙を流し始めた。
 挨拶も早々に累々と落ち続ける涙の数に、優子は時間の過ぎた悲しみよりもずっとずっと深い安堵を感じていた。
 願いをしたため続けた相手の想いは、離れ離れになったあの日から少しも変わってはいなかったのだ。

 美織が「お父さん、泣くの早すぎるよ!」と言う声に、部屋中は朗らかな笑い声に包まれた。
 こうして離れ離れになった織姫と彦星は、長きに渡る幻の逢瀬に終わりを告げた。

 笑い声と共に遠く離れていた二つの星はひとつになり、やがて空の向こうへと消えて行った。ひとつになった星は、それからもう二度と離れる事はなかった。

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