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【小説】 日々を燻らす 

 年の暮れに、民子は右脚を引き摺りながら公団住宅一階の小さなベランダに置かれたパイプ椅子に腰掛け、「健康の為に」とセブンスターから切り替えたばかりの赤ラークのロングサイズに火を点けて燻らしている。
 暖冬がもたらした暖かな陽射しに目を瞑るが、傍から見るその面構えはまるでこの世を憎んで仕方ない、と言った具合である。当の民子本人は陽射しに対して憎たらしい気持ちなど微塵もなかったが、齢七十二の生き方そのものが顔輪には刻まれているのであった。

 民子は生涯独身であり、そして人付き合いというものを心底嫌っていた。出自は東北の農家で、兄弟は七人居た。上の兄二人を戦争で失くしてはいるものの、家庭は穏やかで何ら変則的な要素のない所謂ごく「普通」の家庭で育った。故に、民子の人付き合いの悪さは生まれ持った天性のものであり、修正の仕様もなかった。
 学生の身分になるとたかが便所へ行くだけなのに「一緒に行こう」と等と誘われることに心底辟易とした。民子は中学二年になるとその手の誘いに

「小便のひとつもオメで出来ねぇのか?」

 と返すようになった。女達はすぐに徒党を組みたがり、仲良しこよしを演じながら陰では隣人同士の悪口を言い合うその姿を、おどろおどろしい絵本で読んだことのあった地獄の「餓鬼」に重ね見たりしていた。
 民子は学内で孤立していたが、元々誰かと仲良くしようとする発想さえ持たない民子は、自らの孤立状態に気付くことさえなかった。

「旅行ってのは大人になってからでないと、行く意味がないと思います。ガキには理解できないでしょう」

 集団行動を嫌う民子は東京への修学旅行参加をそう言って全面拒否の姿勢を貫いたものの、教師による鉄拳制裁を受けた。しかし、それでも考えを曲げることはなかった民子はとうとう修学旅行へ参加しなかった。
 民子は勤勉な訳でもなく、そして運動が出来る訳でもなかった。ただ、自らの意思を曲げないことに関しては誰よりも頑なであり、やがて「変わり者」の烙印を押され、村中の誰もが知る所の存在となった。
 やがて中学を卒業する頃になると、民子は地元企業での就職を希望した。
 しかし、偏屈な民子を知る大人達ばかりの近隣地域で彼女が就職など出来るはずもなく、かと言って実家の農家を手伝って馬車馬の如くこき使われる毎日は絶望を意味することを知っていた民子は、集団就職で群馬の繊維工場へ就職することにした。馬鹿でも受け入れてくれるから、と教師に唆されて試験を受けてみたらあっさりと合格したのだ。

 郷を出る際、餞別を受け取った民子は両親や兄弟との挨拶はそこそこに(民子は親兄弟にすら滅多に関心を示さないのである)、汽車に揺られて半日。ようやくたどり着いた繊維工場の女子寮が一人部屋ではなく、先輩を含む女子四人での相部屋だと知ると、膝の力がすっかり抜けてしまうような気分に陥った。

「話しが違うっちゃ。これなら農家の手伝いで泥んこになってた方がまだマシだった」

 そう思いながら絶望していると、部屋の先輩住民である佐山ヤスエという大柄の女が、初対面の挨拶を済ませると間髪入れず寮の「ルール」を新人の民子に叩きこもうと鼻息を荒くし始めた。

「丸山民子さん。まず、この「立華寮」は集団生活の場であることを「しっかり!」と、自覚するように心掛けて下さい。食事の時間、工房へ出る時間はもちろん、休憩時間も休日の過ごし方も、皆さんへご迷惑になるようなことは絶対に! 絶対に! してはなりません」
「先輩、あの。休みの日は休みなんだから、何してたっていいんじゃないですか?」
「いいえ、そうはいきません。あなたは既に歴史のある千野谷繊維工業のいち、社員なんです。休みの日も工場のお勉強に時間を割いたり、工場の皆さんの心を豊かにする為にお花を育てたり、読書をするなど、模範的な女子社員となるよう努めてください」
「はぁ? いんやぁ、オラぁここに来る前、そんなん言われた覚えはねぇんだけども」
「郷を離れていて、親御さんの代わりに大事な娘さんを預かっているんです! 大人としてきっちりとするのは当然です!」
「いやいや。オラぁレストランだの映画観に行ぐだのすっから、クソ真面目に読書だぁ、知らねぇ他人の為に金にもならねぇ花咲じいさんになるのは勘弁だ。で、先輩よ。この辺で一番おっきな街はどこさあんの?」
「ふざけなるな!」

 ヤスエが民子の頬を容赦なく引っ叩くと、瞬間的に血液が脳へ送り込まれた民子が躊躇いのない前蹴りをヤスエの腹目掛けてお見舞いした。次に、腹を抑えて座り込んだヤスエの側頭部に拳を浴びせ、倒れた拍子に唾までぶっ掛ける始末。

「えっらそうにぺちゃくちゃ喋り腐ってこのテメェ! オメはオラの親か!? 違うべちゃ! なぁにが親御さんから預かっただ、このブサイクオタンコナス! 大体テメェ、そんな芋ブタみでな顔してんだから、どうせ処女だっぺな! 工場の人夫に媚び売る暇こいてんなら、早くオトコが出来ますようにって、今から故郷さ帰って出雲大社に土下座しろ、このタコ!」

 女が女に対し、容姿ない暴力と罵声を浴びせている。余りに突然の出来事に止めに入ることも出来ない他のルームメイト達を「邪魔だ、このデクノボウめらが」と突き飛ばし、民子は立華寮を後にした。そのまま近くの畑で作業をしていた中年男性に頼み込んで駅まで送ってもらい、餞別の金額を確かめると、その足で名前だけは知っていた「横浜」へと旅立った。 
 東京にしなかった理由は、とにかく人間が多過ぎる為であった。

 横浜のうらぶれた夜の雰囲気は民子にとってやっと息が吸えるような、自分だけの部屋を与えられたような場所だった。底知れぬほどの安堵を民子は覚えた。水が合っていたのだ。
 千鳥足のままゲロを吐く親父の横で、ポン引きをする蝶ネクタイの男。咥え煙草で歩くケバい女達。誰も彼もが正々堂々と騙し合いをしているかのようなその光景が、肌に合うと民子は感じていた。

 相手の様子を伺いながら良い子ちゃんぶって椅子に座り、正しいタイミングで「はい」と返事をして褒められるより、気に食わないことは気に食わないと発し、誰もが自分勝手に生きる世界の方がよっぽど人間らしい、と民子は常々思っていたのである。
「ミサコ」ちゃん。民子は横浜へ着いた翌々日の晩から客達にその名前で呼ばれ、親しまれるようになった。煙草も酒もすぐに身体に馴染み、半年も経たない頃にはケバい化粧で夜の街を闊歩するようになった。
 それから、数十年が経った。
 その間に両親は亡くなり、姉とすぐ下の弟も癌で亡くした。
 いつも死の知らせを受ける時は手紙であったが、それに対して返事をすることはただの一度もなかった。

「二度と会わない人は、死んだ人と一緒」

 それが民子の、そして夜の名前である「ミサコ」の常套句であり、まごうことなき本心だった。
 客の中には民子にこんなことを言う人間もいた。

「ミサコちゃん、そろそろイイ男つかまえて結婚しないの?」
「あたしゃ結婚には興味ないよ」
「なんで? まさか、ずっと一人でいるつもりなの? そんなの寂しいじゃない。誰かと居る方が絶対に幸せだよ」
「だったらなんでテメェは一人なんだい? あぁ? テメェの幸せがあたしの幸せだなんてね、思い上がってんじゃないよ。どれだけ視野が狭いか、眼医者にでも行って測ってもらうんだね。みっともない」

 けんもほろろに突き放された人間の大抵は遣る瀬無さを感じ、押し黙ってしまうのだが、飯岡という銀行マンは特殊だった。

「今の家庭を捨ててもいい。僕と結婚してくれないか?」
「女の遊び方も知らない男と結婚する気なんてないね。寝言こいてんじゃないよ」
「分かってもらえるまで、僕は君に本気を伝え続けるよ」
「あんたの心を聞く耳があたしゃツンボだからね」
「聞いてもらえるまで、僕は続けるよ」

 飯岡の去ったテーブルには民子宛の茶封筒が置かれていた。当然、中身は現金だった。
 そんなことをされても、民子は飯岡の言葉を受ける気はさらさらなく、それどころかテーブルに茶封筒を置く飯岡の顔色や声色が蒼褪めるようになると、それとは対照的に民子は機嫌良く笑みを漏らすようになっていた。

「まだやるのかい? 銭だって蛇口捻って湧いて来る訳じゃあるまいに」
「株が……うん、良い方向に回ったもんでね。じゃあ、また来るよ」
「あんた。いい加減、嫁と子供は知ってるんだろうね?」
「それは……でも、君のことは妻には必ず話すから。きっと、分かってもらえると思うんだ。その証拠に、僕ら夫婦の愛はもう冷め切っていて、その、夜の方はもうさっぱりなんだ」
「あんた、童貞かい。ガキが出来りゃあ旦那相手じゃどんな股だってそうなるんだよ」
「今は、君だけを求めてるから……それは間違いないから」
「あっそ。毎度」

 茶封筒の額、そしてそれを差し出す飯岡の指の震え方を金払いとを民子は毎夜の如く天秤にかけ続けた。そして、天秤が傾いたタイミングで自身の店を持つ為、民子は飯岡が足繁く通った店を辞めることにした。
 出店準備に追われる中、「包丁を持った飯岡が横浜の夜を彷徨っている」という噂話を聞きつけた民子は、昼間に飯岡の家を訪ねた。
 閑静な住宅街の一角にその家は建っており、呼び鈴を鳴らすとお嬢様がそのまま中年になったかのような腰の柔らかな女が玄関から出て来た。 
 デパートの紙袋を提げ、咥え煙草姿で玄関前に立つサングラス姿の民子を見て、飯岡の妻は警戒心を隠さなかった。そんな「蓮っ葉」で品性の欠片すらないような知人を彼女は持っていなかったのだ。

「あの……どちらさまで?」
「お偉いさまだよ。あんたの旦那の忘れ物を届けに来たんだよ」

 妻の足元に紙袋を投げつけるようにして置いた民子であったが、それを拾い上げて中身を覗いた妻は声を裏返した。

「え! ちょちょ、ちょっと!」
「へぇ、お互い様ってやつだ。精々楽しんで」
「ちょ、ちょっと!」

 素っ頓狂な声を聞いて部屋の奥から姿を現したのは飯岡夫妻の子供ではなく、旦那の飯岡でもなく、見ず知らずの半裸の若者だったのだ。
 民子は妻の秘め事を責めることもなく、かと言って愉しむ様子もなく、ただ預かっていた分の金銭を返して飯岡家を後にした。
 人付き合いを極端に嫌う民子であったが、それでも人とは対等であることを信条としていたのである。人類皆平等に対等に嫌うから、テメェらもあたしを対等に嫌えとも思っていたし、誰かに助けられたり意味もなく援助を受けることを頑なに拒ぶ性格なのであった。
 それから間もなく民子が横浜の片隅で店を出した頃、白昼の住宅街でひとりの女が刺される事件が起きた。民子はそのニュースを耳にしたものの、驚きも悲しみもせず、晩飯を作るのも食うのも面倒だということを考えていた。
 店は以前の店の馴染客が大勢やって来るおかげで開店早々に繁盛した。
 キャストの女の数が足りず、民子は苦虫を嚙み潰す思いをしながら以前勤めていた店や知り合いに声を掛けてなんとか頭数を揃える夜が続いた。
「キャッスル」と名付けたその店で働く女達を、民子は労うことはなかったが無関心という訳でもなく、事が起こると全力で庇ったのだ。  
 ある晩、新人の女が酔客にしつこく絡まれていた。よくある光景ではあるが、いつもと違うのはその客が一見であり袖の隙間から和彫が見え隠れしていた点であった。ボーイが気まずそうに声を掛けると、その腹目掛けて拳が飛んだ。

「なんだクソガキコラァ! 俺を誰だと思ってんだ! なぁ、サエコちゃんさぁ、今夜は俺の「サセコ」ちゃんになれよ。な?」
「お客さん、ちょっと酔いすぎですよぉ」
「この店の酒がマズイからよぉ、オレぁ悪酔いしちゃったんだよぉ。なぁ、介抱してくれよぉ。シモの方だけでかまわねぇからよぉ。サセコちゃん、チューしよう、チュー」
「ちょ……っと」
「あぁ? なんだこのブス! キスぐらいさせろよこの野郎!」

 酔客が新人サエコの頬を掴み、顔をぐっと近付ける。ボーイは蹴られた腹を抱えながら成す術もなしという状態であったがその刹那、酔客の熱のこもった頭に氷の入ったアイスペールがぶっ掛けられた。ボーイがふと顔を上げると、傍に文字通りの鬼の形相を浮かべる民子が立っていた。

「うちの商品に勝手な真似してんじゃないよ! このクズゴキブリが!」
「なんだババアテメェ! 俺が誰だか知ってんだろうな!」
「あぁー、よーく知ってるよ。社会のダニ、粗大ゴミの不燃物野郎だよ! これ以上あんたにうちの店でくっさい息吐かれたら業者呼んで匂い消ししなきゃならないからねぇ! 請求される前にとっとと出て行ったらどうなんだい!」
「なんだとババア! 女相手だからってな、オレぁ容赦しねぇからよぉ!」

 そう叫んで袖を捲り、刺青を見せつけた酔客に他の客達は息を止めて一斉に俯いた。しかし、民子は微動だにせずせせら笑う。

「あんた一体なんだい、そりゃあ」
「これを見てわかんねぇのか!」
「あんた、自分でやってることが分かってんのかい?」
「あぁ? 女と酒飲んで楽しんで、何が悪ぃんだよ!」
「あんた、スジモンならお天道様、他人様に迷惑掛けて生きて来てるんだろ! だったら夜くらい大人しくしてたらどうなんだい!」
「この腐れババア! そうだよ、オレぁ見ての通りのスジモンだよ!」
「あんた、よっぽどの馬鹿モンなんだね。こんなチャチな場面でさっさと出されたらね、せっかくの刺青が泣くって言ってんだよ! そうやって絵なんか見せられたってね、こっちゃ何も怖くないんだよ。若いモンの前でさっきと同じこと出来るのか? 出来るんだったら今すぐここへ若衆呼んで同じことしてみな!」
「……んだよ、気分悪ぃ! こんな店なぁ、二度と来るかよ!」
「こっちだって願い下げだよ! とっとと帰んな!」
「バーカ! ったく、さんざ酔っぱらう前にこっちゃあブスばっかでゲロ吐いちまうよ」

 肩をイカらせながら店を出ようとする酔客に、民子が吠えた。

「待ちな! 五千八百円!」

 立ち止まった酔客は「は?」と言ったまま立ち止り、首を傾げた。

「まさか、タダで帰すと思っちゃないだろうね!? 飲んだ分はしっかり払ってもらうよ!」
「馬鹿野郎! 誰がこんな店に金なんか払えるかよ!」
「寝言こいてんじゃないよ! 女とべんちゃらこいてしこたま酒飲んだんだからね、払うもんはきっちり払いな!」
「はぁ……? なんだこのババア。やってらんねぇよ、じゃあな」
「ちょっと、あんた待ちな!」

 民子は酔客の足にしがみつき、階段で激しいもつれあいになり、路上に出ても引き摺られる形になってまでも足にしがみ続け、飲み代を要求した。たまたま通りを巡回していた警官が二人を引き剝がしたが、それでも絶叫しながら飲み代を要求する民子を見た警官が

「あのママさんね、この辺ではガンコ者で有名なんですよ……まぁ、飲んだ分をきっちりママさんに納めて頂ければこちらとしても穏便に済みますし、何とかお願い出来ませんかね? 別にバカ高い金額でもないし、女の子にキスを迫ったって言うじゃないですかぁ。こういっちゃアレですけど、看板背負った犯罪ならまだしもねぇ……さすがに無銭飲食で引っぱられたら、子分さんらにもカッコつかないでしょう?」

 と、酔客に説得も込みで頭を下げる形で、しぶしぶ飲み代の支払いが完了したのであった。
 キャッスルでは「ツケ払い」を頑なに認めておらず、その理由について民子は「人間はいつ死ぬか分からないからね」と話していた。よって金のない客はよりつかなくなり、ある程度金銭の余裕もあり、夜の遊び方も慣れた客が残り、キャッスルは「知る人ぞ知る」店になりつつあった。 
 その分店で働く女達への金払いも良く、基本的に「日払い」もヨシとしていた。その理由はツケ払いと同様だった。
 入ったばかりで店の勝手が分からず、民子の機嫌を伺おうと猫なで声で「ママさん」と呼ぶ女には時々厳しい言葉をぶつけた。

「あたしのことはババアか「ミサコ」って呼びな。ママさんなんて、気分悪いったらありゃしない」
「すいません……でも、他のお店ではみんなママさんって呼ぶんですよ」
「あたしゃね、母親になったこともなければ、あんたらの親じゃないんだよ。店とあたしのことは利用したってかまわないけどね、頼りにしないでくれるかい」
「すいません……知らなくて、ごめんなさい」

 そう言って気まずそうに顔を下に向くと、民子は「いいよ」とも「二度と呼ぶな」という訳でもなく、しばらく時間が経った頃に何も言わずに青のりを抜いた焼きそばを乗せた銀皿を差し出すのであった。

「え?」
「食いな。こんなもんしか作れないけどね」
「いいんですか?」
「食えばいいんだよ! 商品の女にしかめっ面でいられちゃあね、客だって盛り上がらないだろ」

 こんな場合、大抵の女が指図を求めるような顔でどうしよう、といった具合に辺りを見回す。共に働く女達は全てを理解し、女の顔に向けて大きく頷くと民子を指差して笑って見せる。そうすることで、女はようやく安堵して焼きそばを食べ始めるのである。
 働く者にとっても、来る客にとっても、それは心地の良い場所となっていた。時に「おイタ」してしまう客の振る舞いにも女達は鮮やかに切り返し、客達も加減を学びつつ、追っても追ってもあと指先一つで逃げられてしまう若い女の尻を追うことに必死になった。店は毎晩、笑い声が絶えなかった。

 上昇止まぬ強気な景気の梯子が数々の行き違いによって外され始めた途端、悠々自適に梯子の上で踊り狂っていたバブルが弾けた。落下の勢いで後頭部を打ち付けて記憶喪失となった日本経済は、明けることのない長い冬に首までどっぷりと浸かってしまった。
 キャッスルでは客の金払いも渋いものとなり、女達を雇うにも頭を悩ませる日々が続いた。女達はやがて一人、また一人と店から姿を消して行き、その働き口を店の中から駅前のロータリーや夜の路上へ鞍替えする者も現れた。
 店と共に歳を重ねる恰幅の良い常客が、静かな店内でロックグラスを傾ける。氷がグラスと喧嘩してるのかと思うほど、音が静寂を飛び回る。

「ミサコさんさぁ、音楽くらい掛けたらどうだい?」
「うちはユーセンだとかね、あぁいうのは契約してないんだよ」
「カラオケもねぇしさぁ……」
「さんざ通っといて、あんた馬鹿かい。うちはカラオケ屋じゃないんだよ」
「そりゃそうだけどよぉ。草臥れババアとマンツーマンってのはなぁ。あっ、そういやこの前入った大学生のエミちゃん、どうしたよ?」
「あぁ、エミね。一昨日の出勤前に故郷≪くに≫のお袋さんが倒れたとかでね、来なくなったよ。最近のお袋さんってのは、ずいぶん都合良く倒れるんもんだね」
「あー……トンだんだ」
「連絡寄越すだけまだ可愛げがあるってもんだよ。何も言わずに辞めて行くのもいるからね。駅前でブラブラ金持ちの親父でも探してるんだろうね、偶然会って店に出ろって声掛けたら「いや、人違いじゃないですか?」だって。しらばっくれやがって。ったく、声掛けたこっちが馬鹿見るんじゃね、まいっちまうよ」
「ふーん……まぁ、景気のせいなのかなぁ」
「みんな景気のせい景気のせいってね。ひと言で片付けられちまうんだからたまんないよ」
「なぁ、ミサコさん」
「なんだい。うちは酒と乾きモン以外ね、何も出せないよ」
「いやいや、愚痴が出てるじゃない」
「あら、そうかい?」
「うん。今話してたらさ、そんな溜める方だったかなぁと思ってさ」
「ふん、吐く相手が減っちまったからね。溜まり過ぎてそのうち爆発したら面白いんだけどね」
「横浜でババアが爆発して死亡! 原因は愚痴の溜め過ぎってな、三面記事になっちゃったりしてな!」
「調子こいてんじゃないよ馬鹿垂れが!」

 アホでも言ってないとやってられないよ。
 その頃の民子の口癖がそれであった。客のいない店の中や一人暮らしを続けるアパートの一室で、気が付けばその言葉を吐いていた。そう吐く割に、具体的なアホな言葉は特に想い浮かばず、ただただ独りの無言で飲んだり食ったりの日々を過ごしていた。
 経済的な理由で週末にだけ女達に手伝ってもらう形になると、数年前から店に手伝いにやって来るポジション的には「チーママ」のカナエがあることに気付き始めた。
 閉店後にカナエが出納帳を確認していると、その週の金額が合っていないことに気が付いた。金額を記入する欄が、一箇所ではなく所々間違っていたのだ。金にうるさい、カナエにとっては意地汚いとも思えるほど自身の金銭管理について徹底している民子がこんな間違いをするだろうか? と思案し始める。

「ねぇ、ミサコさん。今週の出納帳、間違ってるみたい」
「あぁ? あたしゃ絶対に間違ったりしないよ。あんたが歳の早い老眼にでもなったんだろうよ。よーく目を離して見てごらん」
「違うって。ほら」

 向けられたページに目を落として確認すると、数字を記入する欄がズレたまま進んでいることにすぐに気が付いた。
 自身でこんな間違いをするのだろうか、と何度も民子は自分に問い掛ける。

「ねぇ、ミサコさん。これ、書いてて気が付かなった?」
「ったく、あたしゃあしょうがないねぇ。ちょっとね、疲れてたんだよ。もういい、直すからいいよ。それ、しまいな。あんたが心配することじゃないんだから、大丈夫だから」
「じゃあ、この売上金を書いてる帳簿の名前は?」

 突然の問いに、民子は側頭部にひとさし指を置き、宙を眺め始めた。
 すぐに「それ」の名前が出て来ない。毎日書いているのに、あれ、何だっけ。毎月税理士に頼んで確認してもらわなきゃいけないのに。あれだよ、あれ。昨日も書いてた、アレ!
 すると、トンネルが明けたように突然答えが閃いた。

「出納帳! あんたね、あたしがボケてるとでも言いたいのかい?」
「そうじゃないけど。ミサコさん、最近何かぶつぶつ言ってるから大丈夫かなぁと思って」
「ぶつぶつ? 小言だったらそりゃ口をついたら勝手に出てくるよ」
「違うよ。口元だけずっとぶつぶつ動いてて、傍で聞いてみても何も言ってないの。あれ、何言ってるの?」
「なんだい……あたしゃ、そんなの知らないよ」

 結局、カナエが民子を病院に連れ出すまでに三週間もの時間を要した。
 大きな病気があるかもしれないと言っても「どうせ遅いか早いかだよ」と聞く耳を持たず、時には居留守を使われたり、「忙しいから」と明確な理由もなく断られることもあった。最終的はカナエが

「ミサコさんと私、昨日今日の付き合いじゃないんだよ。何かあったら私が悲しむよ」

 という真剣な言葉に、ようやく民子は首を縦に振ったのであった。
 いくつか病院を回り、はっきりした診断結果が出た。その結果に、思わず民子は医師の前で怒り狂いそうになった。

「テストだ検査ださんざやらせて、引っ掛けやがったなこのヤブが! 金儲けばっかで頭使って、少しはまともな頭で患者を診たらどうなんだい!」
「ええ。ですから、症状が出ているので今回の結果な訳です」
「どこをどう見たらあたしが「鬱病」なんだい! ハッキリ言ってみな!」
「健忘の症状、感情起伏の衰退、不眠、うわごと……すべてテストと検査で結果出てますから。私達はね、誰かの前にいるあなたを診ているんじゃないんです。丸山さんの心を診て、それで言っているんですから」
「あたしがあんたに心を見せた覚えはないよ!」
「まずは軽めのお薬でね、様子をみましょうよ。そうすれば、そんなに怒る機会も少なくなりますから。ね?」
「誰が怒ってるってんだ馬鹿野郎! 生まれつきこうなんだよ!」
「今怒ってらっしゃるじゃないですか。人を否定してばかりだとね、生きづらいばかりですよ」
「坊主でもないクセして、なぁに知った口で他人様に生き方こいてんだい! 怒りってのはねぇ、もっと怖ろしいもんなんだよ! あんたがガキみたいに小便ちびって立ち上がれなくなるくらいね、とんでもない感情なんだからね!」
「落ち着いて下さい。誰でも最初は戸惑うんです。皆さんと一緒ですから、ね?」
「いっしょだって!? 鬱病だなんてね、あんな自殺志願者達とあたしを一緒にすんじゃないよ!!」
「自殺者みんなが鬱病ではないですよ、落ち着いて下さい」
「落ち着いていられる訳ないだろう!」

 怒声を聞きつけた看護士、カナエによって諭された民子はようやく大人しくなったものの、診断結果には終始納得がいっていない様子だった。
 二週間前後静養を。医師にそう言われた民子であったが店を閉める訳には行かないと抗議すると、カナエが「私が」と医師に伝えた。

「休んでる間は私が店に出ます。なので、大丈夫です」
「あ、そうですか。それなら、まぁね。そうしてあげて下さい」
「カナエ、あんた何勝手なこと抜かしてくれてんだい!」
「ミサコさん。これは私からのお願いでもあるの! 人ってね、知らないうちに心の限界超えてることだってってあるんだよ?」
「知った風な口利くんじゃないよ。あんたがいつあたしになったんだい!? えぇ!?」
「知らないうちに限界超えると、人って心が破裂しちゃうの! 本当なんだよ?」
「あーだったらそれであたしゃ全くかまわないね! 破裂でも爆発でもなんでもすりゃいいよ。どうせ遅かれ早かれなんだからね!」
「お願いだから言うこと聞いて! 私のお父さんがそうだったから!」

 診療室に響く金切声の後、誰もがしんと静まり返る。医師は事情を悟ったように、禿頭を撫でながら首をこくこくと縦に振っている。

「私のお父さん、責任感がすごく強い人だったの……家族思いで、いつも日曜日になると遊びに連れて行ってくれるお父さんだった……でもね、無理させてたの。私がまだ幼かったから、知らなかったの。お父さんはいつも優しくて、楽しい人なんだって、それがお父さんなんだってずっと思ってたから、そうじゃないお父さんを見るとつい「つまらない」って思っちゃって……でも、会社でも家でも、お父さんずっと無理してたの……知らなくて……」
「そういったご事情があったんですね。丸山さん、人ってね、人の心が見えないんです。だからこそ、見えないからこそ、知らず知らずに無理してしまうんです。この際、ご友人もお店に出られると仰っているんですから、どうかゆっくり休んでみては如何でしょうか?」
「あたしに友人なんていないよ! じゃあ、テメェらがあんまり吹っ掛けるから二週間だけなら唾飲んでやるよ。いいかい? カナエ、これは貸しだからね! 高くつくよ!」
「ありがとう……ミサコさん……ありがとう……」

 この時、カナエは涙ながらに静養を承諾した民子の手を握り締めながら、何度も何度も「ありがとう」と感謝の言葉を伝えた。民子はうんざりした顔で「もうやめろ」と言ったが、それでもカナエは感謝の言葉を伝え続けた。それはそうだっただろうな、感謝するしかねぇーわな。あのクソ雌も中々良い三文芝居こきやがる。そうやって民子が気が付くのは、そのわずか一週間後のことであった。

 テレビでは地下鉄テロを実行したという宗教団体に纏わるニュースが連日報道されていた。一日中部屋にこもり、特にすることもない民子は寝巻姿で朝から晩までビールと焼酎を交互に浴びながら暇を持て余し、首謀者と言われる髭面でブサイクな教祖の顔をノートに落書きしてみたり、やたら喋りの立つ広報部長の「ブルース・リー」が百発ぶん殴られた後に肥溜めに突き落とされて泣き疲れたような男の顔真似を鏡の前でしてみたり、ビデオレンタル店で「仁義なき戦い」「バック・トゥ・サ・フューチャー」「死霊のはらわた」と、共通点がまるで見いだせないラインナップのビデオを借りて観たり、つまり何をする訳でもない時間を存分に、そして適当に過ごしていた。

「お店のことはちゃんとするから、何の心配もしないでね。万が一何かあった時だけ電話するね」

 店の鍵を渡した時に、カナエがそう言っていたことをぼんやりと思い出していたが、店を任せてからおよそ一週間もの間、キャッスルからは何の連絡もなかった。
 カナエなりに色々と遣わなくても遣っても一円にもなりゃしない気を遣ってるのだろうかとか、自分より一回りほども若くて小太りではあるが顔は整っているあぁいう女の方が中年は喜んで鼻の下を伸ばすものだとか、短大で確か経済関係の学部を取っていたから中卒集団列車に乗り込んで初日で寮生活が嫌だからと先輩に蹴りを食らわせて逃げ出した自分なんかよりも社会ではよっぽど必要とされているのだろうとか、あくまでも客観的な立場で考え始めてみると、ある想いが民子の心中に濃い色の影を落とすのであった。

「あれ、なんか虚しくねぇか」

 あくまでも客観的に、と何に気なしに自分とカナエを比較してぼんやり宙を眺めていると、そんな想いに支配され、おまけに独り言まで呟く始末なのであった。その二秒後には飲み干した缶ビールを片手で潰し

「虚しくなんかねぇよ馬鹿野郎!」

 と、怒りに任せてカレンダーしか飾られていない真っ白い壁に向かって投げつけたのである。
 ふざけた真似してくれやがる。誰が鬱病なんかになって堪るか。
 賞味期限は過ぎてるかもしれないけれど、今までの戦歴を考えたら断然あたしの方がカナエより良い女に決まってるんだ。オンナとしても、物理的にも、何度となくあたしゃ男をKOして来たんだ! 真の実力者はこのあたしだよ!

「アイム、チャーーーンピォーーーン! あたし、イズ、ナンバワーン!」

 テレビの音だけが止まらない自室でカラ元気を振り回しながら絶叫し、冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出した。突っ立ったまま勢いでプルトップを開け途端、電話が鳴り出した。

「ったく、なんだい! こんなゴキゲンな時に! 殺すよ!」

 缶ビールを手にしたまま受話器を上げる。店でカナエが手をつけられないトラブルでもあったのだろうか。そしたらすぐにでも駆け付ける所だが、朝から晩まで飲んでいるので身体をオモテに出すのが億劫だとも考えながら声を発した。夜の八時を過ぎている。どうせ相手はカナエだろう。 

「はい、あたしだけど」
「あの、あれ……ミサコさん、ですか?」
「え、誰?」
「アミです」
「あぁ、アミね。どうしたの? つーかよ、お店は?」
「土曜なんで来たんですけど、開いてないんですよね」
「店ん中にカナエいるだろ。開けてもらえよ」
「え? だって一昨日の夜キャッスルに電話したらカナエさんが「土曜はミサコさんが出るからよろしくね」って言ってましたよ」
「あぁ!? なんだいそりゃあ!」

 電話を切ってすぐにカナエの家に電話を掛けてみたものの、呼び出し音が鳴るばかりで繋がる気配はなかった。苛立った民子は飲み掛けのビールを壁に投げつけ、家を飛び出し、路上でタクシーをつかまえて「キャッスルまで」と伝えたものの、妙に上機嫌のドライバーに「姉さん。こんな時間にデズニーですか?」と意味不明な冗談を言われたことに腹を立て、「飲み屋だよ馬鹿野郎!」と叫び、「すいません、こっち出て来たばかりでわかりません……」と謝られ、発車後は「右」と「左」のみ伝えながらのわずか三分後、雑居ビルを上がった三階でアミと他二名の女を店の前で発見した。

 鍵を開けてからおよそ五分ほどで、民子はカナエの感謝の意味を衝撃を伴いながら痛感していた。嫌というほどの痛感に、さすがに頭が回らなくなり、暇を持て余して呑気に宗教団体の広報部長の顔真似をしていた中年の自分にまず腸が煮えくり返った。

「ちーきしょー! ちきしょう! ちきしょうちきしょうちきしょうちきしょう! あああああああああ!」

 カウンター内でグラスや皿を掴んでは叩き割り始める民子のあまりに取り乱した姿に恐怖したキャッスル・ガールズはボックス席で肩を寄せ合い、民子への恐怖の為に震え始める。

「どうする? 警察とかに電話した方がいいかな?」
「ミサっち、ヤバイよね。きゅうきゅう車じゃない?」
「ねぇねぇ、きゅうきゅう車って何番だっけ?」
「ナナ、知ってる。一〇四」
「え、ナナすっご……。よく知ってるね」
「うちのお父さん、自衛隊だから」

 我を忘れてカウンター内で暴れ回る民子に声を掛けることも出来ず、時間だけが過ぎて行く。やがて開店時間を迎えてしまったキャッスルに、事情を知らない赤ら顔の三人組が入って来る。

「お、今日はカワイコちゃんばっかり。やっぱ店の中の匂いが違うわ。ほら、嗅いでみ?」
「おお、どれどれ」
「うるせぇ豚共!! 出ていけ!!」
「え……だってミサコさん、店開いてるし、それに、女の子……」
「うるせぇスケベ! 入ってくんな! 外でシコって待っとけ!」

 そう叫んで箱ティッシュが飛んでいく様子だけ、ボックス席に座るキャッスル・ガールズの目に飛び込んで来た。
 一体何が起こったのかも言わずに暴れ回る民子の熱量に感心さえし始めた頃、ようやく事の真相が発覚した。

「レジ金も、金庫の中の金も、通帳もハンコも全部持ってかれた。せっかく来てもらったあんた達には悪いけど、今日の所はこれで帰って。お疲れさん」

 キャッスル・ガールズ達に手渡されたのは日給よりも多めの現金だった。

「ミサコさん、私達働きますよ。全然、大丈夫なんで」

 少しは元気づけなければと思い、そう声を掛けたアミを咥え煙草で民子が睨み付ける。

「こっちゃ大丈夫じゃねぇんだよ。店やるったってな、釣りがねぇんだよ! 釣りがぁ! 小銭まで持って行きやがって、クソ!」
「じゃあ……帰ります」
「はい。お疲れさん」
「あの、お金……多くないですか?」
「変なもん見て気分悪くしただろ。迷惑料だよ。さっさと帰んな」
「はい……失礼します」
「お疲れ」

 髪を掻き毟りながら煙草を吸う民子になんとなしに後ろ髪を引かれながら店を出るキャッスル・ガールズ達に、律義に待ち続けていた男三人組が声を掛ける。

「あれっ。ねぇ、お店は!?」
「あ、なんか今日は。もうやらないみたいです」
「え、そうなんだ。そっか……あ、じゃあさ、この後オジサンたちと飲み行かない? もちろん、奢るからさ! お前たちも、いいよな?」
「もちろん! パァーっとやろうよ! パァーっと!」
「あ、行かないです。じゃあ」
「あぁ……そっか、そうだよね、バイバーイ。……どうする?」
「どうするってもな。ちょっと、腹減ったな。焼き鳥でも行くか?」
「おう、行こう行こう。オレ、最近できた旨い店知ってんだ。最近できたばっかりの、オシャレな」
「焼き鳥屋で?」
「そうそう。女の子のお客さんも多くってさぁ! 俺、店長とツーカーだから混んでても全然オーケーなんだよねぇ」
「いいよ、もう。女の子達、どうせ聞いちゃいねぇよ」
「振り向きもせず行っちゃったな」
「店の外じゃ、そんなもんか」
「細い背中が言ってるぜ? オッサンは金払って遊べってよ」
「なんだよ……ったく、世知辛いなぁ」
「馬鹿。そういうの常識って言うんだよ」
「……風俗でも行くか」
「焼き鳥食ったらな」
「よし。行っちゃお」

 男三人組が立ち去っても、深夜を過ぎても、民子はカウンター内で立ち尽くしたまま煙草を燻らしていた。
 自身でも気が付かない内に、頬に生ぬるいものが流れているのを感じていた。触ってみると、涙だった。
 それは悲しみの涙ではなく、ビールの空き缶に込めて放り投げたはずの虚しさから来るものであった。怒りを通り越し、ぶつける気力さえ削がれてしまったのだ。あまりに短い間に、沢山のことが重なってしまったのだ。
 景気は傾き、店に来る客の数が減った。当然売り上げも減り、店を手伝う女の数も減った。口には出さなかったものの、突然消えていなくなる店の女のことを気に掛けたこともあった。物騒な事件や危険なお金の匂いに巻き込まれてしまう女が多くなり始めた時期でもあった。そんな時、店へ何度も働きに来ていた「マユ」がトンだ。色白で背が高く、男が突然発する「オトコ」に、少しも怯むことなく「オンナ」でねじ伏せる圧倒的な器量も度量もある女だった。カウンターの中のことまで気に掛け、民子が「一円にもならねぇよ」と言ってもその言葉を無視し、率先して手伝うこともあった。
 夜の仕事に、自分よりもずっと向いている。そんな風に思っていた矢先に、トバれた。
 民子がバッグを買いへ出た夕暮時。雑踏の行き交う駅前ロータリーの鉄柵に腰を掛けて辺りをキョロキョロと眺めるマユを見つけると、民子は我を忘れて駆け寄った。

「なんだよ、あんた生きてたんだね! よかったよ、死んでなくてよ」
「はぁ? あの、誰ですか?」
「馬鹿言ってんじゃないよ! あたしだよ、ミサコだよ! 何だよ、しらばっくれてさ。頭でも打っちまったんかい?」
「ちょっと、わからないです。人違いじゃないですか?」
「何言ってんだい! あんたね、金がないなら今すぐにでもうちに来な。変なことして稼いだ金はね、どうせ変なことで消えて行くんだから」
「はぁ……マジ、しつこい。ババア、あんたのことなんて知らねぇって言ってんだろ? 消えろ、うざい」
「うざいでも何でも、あたしゃ待ってるからね! あんた、食う飯に困ったら焼きそばくらい出してやるから店に来なよ」
「これ以上話し掛けんな。つーか、他人だから。マジ、警察呼ぶ」
「わかったよ! いつでも、焼きそば作って待ってるからね!」
「うるせぇんだよ! マジでマズイんだよ、あんたのメシ。店も暗いし、客も頭おかしいスケベばっかで疲れたんだよ! もう私に関わんな」

 冷め切った目をしたマユが、ゆっくりと民子の視界から消え去った。自分よりずっとずっと年齢が下の女の言葉に、民子は何も言い返すことが出来ず、それどころか手や膝が震え、気を抜いたらその場で倒れてさえしまいそうだった。

「初めてで緊張したけど、焼きそばおいしかったです。青のり入ってなくて、助かりました」

 そう言って自分の歯を指さしながら屈託のない笑顔を見せたマユの美しい表情だけが頭に思い浮かび、そのあまりの無垢と現実の差に民子は恐怖さえ感じていた。踵を返すと、全てはなかったことなのだと、自分に言い聞かせながらヨタヨタした足取りでロータリーを後にしたのであった。

 カナエにも、きっと何か事情があったのかもしれない。けれど、こんなのあんまりじゃないか。私が悲しむだなんて言ってくれておいて、こんな仕打ち、あんまりじゃないか。
 人との付き合いを避けて生きて来た。一人と一人が生きて行く世界を歩いていると思っていた。
 マユも、カナエも、一体何考えてくれてんだい。ったく、馬鹿野郎。
 カウンターの中で燻らす煙が途切れる頃には、外はもうすっかり新しい朝を迎えていた。

 事務所の扉を開けると、若衆が「こちらへ」と出迎えて奥へと通された。
 筋は筋で通さなければならないことくらいの社会性を民子は知っていたからだ。
 最後の挨拶を済ませると、六十手前の組長が黒々とした顎髭を触りながら溜息を吐いた。

「ミサコさん、正直言うと世話んなったのはこっちの方だよ。みかじめ取っておいて何だけど、あんたが揉めごと持ってくることはただの一度もなかったじゃねぇか」
「ええ。でも、決まりは決まりですから」
「カッコイイのも大概だけどよ、店閉めてこれからどうすんだよ」
「どうするか、しばらく自分なりに考えてみようと思います」
「……そうか。まぁ、最後にアレだけどな……店の金持ち逃げしたカナエって女、今フィリピンにいるぞ」
「えっ」
「うちで追い込み掛けたタコスケと一緒に飛びやがってな。取れるモン取ったら男の方はうちで消すけど、女の方は関係ねぇからな。どうする?」

 カナエがフィリピンにいる。その情報を聞いた民子は自分がどうしたいのか、自分に問い始めた。
 許すとか許さないとか、そんな話じゃない。このあたしをハメて、男と呑気に南国に飛んでいただなんて。正直、殺してやりたい。あんなクソ雌、生かしておく理由なんかない。
 でも、あたしは……。

「ミサコさんよ、持って行かれた店の金がそれなりに残ってるのは俺達知ってんだ。今話したことはな、今までのみかじめの分だ。カマシじゃねぇよ」
「はい。カナエは、フィリピンにいるんですよね」
「おう。それでこっからはうちの商売のナシだけどよ、残った金の全額とは言わねぇよ。半分でどうだ?」
「半分、ですか?」
「男と一緒に、消してやろうって言ってんだよ。残り半分は帰って来たら渡してやる。それは勘弁してくれってんなら、うちがあんたの金を回収する義理も、カナエをどうすることもしねぇ。分かってると思うがこれ以上の居場所を言うことは出来ねぇし、当然サツだって動かねぇ。今さら駆け込んだ所でキャッスルのガンコババアが何ヨタこいてんだって帰されるのがオチだわな」

 テーブルの上に置かれたクリスタルの灰皿に、二本目の灰が落とされる。民子は自分でも気づかぬ内に、煙草を燻らしていた。
 カナエをこの世界から消して、店の金を取り返すか。
 それとも、全てをなかったことにして、カナエも店の金も諦めるか。
 二つに一つの選択肢とは別の答えが心の奥底からふつふつと湧き上がるのを民子は感じていた。その為に震えだした指先を眺めながら、民子は答えを出した。

「まず、あのあっぱ……ぶん殴らねぇと気が済まねぇっちゃ」
「は? 何て?」

 思わず零れ出た故郷言葉に民子は目を覚ましたような顔つきになり、今度は組長を真っすぐ見つめながら言葉を整えた。

「タコスケとトンだクソ馬鹿タレ、あたしにぶん殴らせろって言ってんだよ!」

 組長は顎髭から手を離すと、両手を叩いて笑いだした。

「おうおう、いいよいいよ! それでいいよ。それが一番、あんたらしいや」
「それで、いつ行くんだい」
「どちみち時間はあんまりねぇんだ。こっちゃすぐにでも出れるぜ」
「よし、連れてけ!」

 そのたった二日後のマニラの外れで、民子は土下座するカナエを見下ろしていた。
 ビーチの砂が口に入ってしまうほど土下座をしても、民子はカナエを赦す言葉の片鱗すら吐き出すことはなかった。カナエの後頭部に、民子のビーチサンダルの圧が掛かり続ける。その背後では、痩身の優男がビーチでは違和感でしかないダークスーツの男達の手でワンボックスに詰め込まれているのであった。

「本当に、ごめんなさい」
「うるせぇ。テメェのごめんは一円にもならねぇ、聞きたくねぇ」
「どうか命だけは……これから、赤ちゃんが生まれて来るの」
「知らねぇ。生まれて来ねぇ方が世のためだ」
「ごめんなさい……あの時は気の迷いで」
「パチこいてじゃねぇぞテメェ。健全な他人様を病気扱いした挙句、ハメやがって」
「どうしたら、許してもらえますか」
「くだらねぇこと言ってんじゃねぇ。立て」
「えっ」
「いいから、立て」

 顔についた砂粒を落としながら、カナエはゆっくりと立ち上がる。南国が弾く真っ白な光に目を眩ました次の瞬間、視界が右方向へすっ飛んだ。

「二度とそのツラ見せんなよ」

 そう吐き捨てた民子はビーチを後にした。痛みと共に砂浜に取り残され、呆然とするカナエに声を掛ける者は誰もいなかった。ただ静かに寄せては返す波の音だけが、辺りに響いていた。

 数百万の現金と共に帰国した民子であったが店を閉めた後は何をする訳でもなく、部屋の中で酒と共に無限の時間を過ごしていた。これと言った趣味もなく、友人と呼べる人間もいないので民子を訪れる者はなく、日々の色には何ら変化はないまま時間だけが過ぎて行った。
 すっかり忘れた頃に、カナエの顛末をニュースで知った。
 中国の空港で覚醒剤の入ったバッグを持ち込み、逮捕されたとの事だった。
 解説者が「中国では死刑」と不安げな表情で語っていたが、本人は「身に覚えがない」と供述しているのだと言う。そんな訳ねぇだろ、と声を漏らしてテレビを眺めていると、そのうち食品工場の特集が始まった。
 工場違いとは言え、自分もまともな頭をしていたらあんな場所で働くことになっていたのだろうかとぼんやり考えている内に、自分が今の今まで「会社」という組織で働いたことがない事にふと気が付いた。
 そろそろ五十を迎えようとしている。年齢も年齢だけに、今から夜の店で雇ってもらうことは相当に壁が高いことは百も承知だった。雇われるとしたなら熟女スナック、おばけ風俗店、モノ好きが集まる変態倶楽部。そんな所が関の山。新たに店を出すことも考えてみたものの、景気の風向きが一向に変わらない現状にそんな気力はとうに尽き果てていた。

 ぼんやり眺めていた食品工場のVTRに、民子が愛食している工場のカップラーメンが映し出される。

「おっ、アイツじゃん!」

 日頃愛食しているカップラーメンの銘柄のことを、民子は親しみを込めて「アイツ」と名付けていた。アイツの本体でもあるフライされた麺がコンベアを流れ、カップに入るとスープ袋とかやくが載せられて行く工程が紹介されていた。日頃知っているアイツがどのような形で作られているのか知った民子に、ある想いが過った。

「作ったモンがこの世に出るって、すげー仕事じゃん」

 消費の最終終着駅のような仕事しかして来なかった民子は、そんなシンプルで偉大な発見をすると、居ても立っても居られなくなり、コンビニへ駆け込むと生まれて初めて求人誌を手にするのであった。
 民子は工場求人に狙いを付けて意気揚々と電話を掛け始めるが、出だしからその並外れた社会不適合ぶりを発揮してしまうのである。

「あー、もしもし? テメェの会社で募集こいてんだろ? あたしが助けてやっから面接させろよ。な? は? いらねぇってどういうことだテメェ! 今からカチ込んでやっからガン首揃えて待っとけこの野郎!」

「もしもし? 働いてやってもいいけどよ、この「時給九百円」ってどういうつもりなんだよ。頭おかしいんじゃねーか? とりあえず面接させろよ。あ、何切ってんだこの!」

「あのぅ、もしもしでございますけど。宅のご求人拝見あそばせでして、あのぅ、お募集はまだしてらっしゃるのかしらでして。あー、だりぃな! 働いてやっからよ、いっちょ面接しばけよ。あぁ? おい、切んじゃねぇよ!」

 民子は自らの傲慢さと口の悪さがアダになっていることに気が付くと、まずはごく当たり前の社会性を身に着ける為に「社会人マナー講座」を受講することにした。
 大学生や新社会人に混じり、禁煙パイポを咥えながら貧乏ゆすりで机をガタガタと震わせるケバい化粧の中年女はすぐに女性講師から注意を受けた。

「ここは学ぶ場ですから、丸山さんにはまず学ぶ態度から改めて頂きます」
「ガタガタ抜かしてんじゃねぇよ! こっちゃ金払ってんだから、さっさとおっ始めたらどうなんだい?」
「おっぱ、じめ……では、ついて来れる人だけを対象に講習を始めさせて頂きます」

 民子が事あるごとに文句をつけたり話が長いと茶々を入れた為、講習は散々たる具合であったが、ここで転機が訪れた。マナー講座を主催する担当者からこんな声が掛かったのだ。

「実は弊社は別事業で教材の販売をしておりまして、何といいますかそのぉ、その性質上クレームというか言い掛かりが非常に多くてですね……」
「上タマのナオン捉まえといてまどろっこしいんだテメェ! 何の用件かさっさと言えよ!」
「はっ、はい! あの、うちでクレーム処理を担当してもらえませんでしょうか?」
「は? なんだそりゃ。免許も持ってねぇあたしにクレーン車の運転なんかできる訳ねぇだろ」

 事情が全く呑み込めないままではあったが、こんなきっかけで晴れて民子は遅咲きの社会人デビューを果たすのであった。
 勤務先は学習教材の訪問販売を行う会社で、その営業の仕方はヤクザ紛いのものが多く社会問題にもなりつつあった。
 ノーアポイントで玄関に上がり込み、契約をするまで帰らない、主婦を恫喝して無理に契約させるという手口を繰り返す悪質な商売を行うことで有名な会社であったものの、初めてのオフィス勤務に民子は心を躍らせた。
 特別処理班として勤務を始めた為、会社の人間とはほとんど接点はなかったものの、民子にとっては見るもの触るもの全てが新鮮に思えた。

「仕事を行って頂く執務室ですが、この廊下の奥にあります。どうぞ」

 担当部長が手を差し伸べて廊下の果てを案内するも、民子は目についた部屋に勝手に入って行ってしまう。

「おー、これが「パソコン」ってやつか。これで何してんだよ、なぁ? 暇こいて遊んでんじゃねぇよな? 教えろよ」
「ちょっと、丸山さん! あなたの仕事場はあっちですから! すいません、迷惑掛けちゃって……行きましょう、ね?」
「ちっとくらいいいだろうがよ、うっせぇなぁ! あ、それ知ってるぞ。クリックってやつだろ? なぁ?」
「もう行きますよ! ほら!」
「わーかったよ! ったく、っせーなぁ」

 何とか執務室に辿り着いた民子が案内されたのは、パーテーションで区切られたデスクと電話のみが置かれた殺風景な一角であった。

「なんだい、これ? あたしゃ何すればいいんだよ」
「ええ。あのぅ、クレームの中でもかなり温度の高いお客様の対応をお願いしたくですね……」
「温度が高いって、病院行けって話しで終わりだろ」
「あ、いえいえ! 発熱ではなくですね、お怒り、という事をあえて「温度が高い」と表現しておりまして……」
「馬鹿かテメェ! 一々まどろっこしいんだよ! 要はパチ切れてるってことだろうがよ! 他のモンにもそう言っとけよ。次、あたしにそんな遠回しな言い方したらマジで帰るからな」
「いやぁ……ここまで強気に出られる方に帰られてしまうのはちょっと……」
「で、あたしゃ何をすればいいんだい?」
「ええ。あのぅ、うちの学習商材を買っておきながらですね、高すぎるからすぐに訴えるだの、クーリングオフだの言う客が多くてですね……そんな奴らを黙らせて頂ければ結構です」
「なるほどな。テメェで商品買っておきながら後からゴタゴタ抜かす連中を黙らせるって寸法だ。分かったよ、任しておきな」
「ええ! もう、丸山さんなら適任ですから! こっちとしては鬼に金棒です! お願いします!」

 民子が席へ座ると、デスクにポツンと置かれた電話機が鳴り出した。

「おい、出ていいんだよな?」
「ええ、もちろんです! 名乗りは「ヴィクトリー出版」と言って頂ければ結構ですので……」
「はい! ヴィクトリー出版! あ? 転送だ? おう、回せよ。……おう、あんた客か? そうだよ、天下のヴィクトリー出版だけどよ、何の用事で電話掛けて来たのか言ってみろよ。あぁ!? 声が小さくて聞こえねぇよ! ケツの穴で喋ってねぇで口で喋ろよこのタコスケがよぉ! ビビこいてんならテメェが用件伝えるまで待っててやっからよぉ、どんなモンか聞いてやろうじゃねぇか。おい、けど買ったモンを後からケチ付けるってことはよぉ、それなりの覚悟は出来てるってことだよなぁ!? あ、切れた」

 受話器を置いた途端、担当者は揉み手をしながら民子にすり寄る仕草を見せた。

「いや~! お見事です! さすがです! 」
「近付いてんじゃねーよ気持ち悪ぃな!」
「いや、すいません! いやぁ、その濁声と迫力のトーン。ここまでか、とこの宮島。おみそれしました」
「どの宮島か知らねぇよ。で、こんなことで給料もらえんの? これ」
「ええ! もちろんでございます! これは丸山さんにしか出来ない立派なお仕事ですから!」
「へぇ。意外と社会人っていうのも、チャラいもんだね」
「いえ! 才能でございます!」

 下手に持ち上げられていることは十分に承知しつつも、夜の街でしか働いたことのなかった民子は組織の一員として認められたことに内心わずかながらの喜びを感じていた。
 なんだ、やれば出来るモンじゃねぇか。こんな電話しか掛けて来れないぺーぺー共、酔って暴れ回る客に比べたら屁にもなりゃしないね。
 その後も架かって来る電話を次々と猛烈な勢いで黙らせることで、民子は益々自信をつけて行った。
 自分でも働ける場所があったことで民子は日々の心持ちが充足し、飲酒量も減って行った。飲むことには飲むが、休みの日など朝から晩まで飲むことはなくなり、自然と飲む気がなくなっていたのだ。仕事へ出れば社内で頼られる場面も増えて行った。頼られる場面が増えることはすなわちクレームの増加を意味し、強引な手法で商材を販売するこの手の会社にとっては潮時を意味していた。

「よーし、今日も頑張ってやるかぁ!」

 酒ヤケの濁声を部屋にこだませて気持ち良く出勤し、いつも通りにオフィスの入るビルへ向かう。エレベーターで八階まで昇り、いつも通りに扉が開くと、民子は階を間違えたのだと錯覚した。
 昨日まで皆が働いていた八階のオフィスが、もぬけの殻になっていたのだ。
 人にトバれたりトンだりする経験はあったものの、会社単位で夜逃げされる経験は民子にとって初めてのことであった。
 ハローワークにトバれたことを相談しに行ったものの、職員は頭を掻きながら

「良くないことをしていた会社だったんですかねぇ……まぁ、逆に言えば巻き込まれずに済んで良かったんじゃないですかね?」

 と、まるで他人事のように振る舞う態度に激昂してしまい、席へ着いてからものの三分も経たないうちにハローワークをつまみ出されるのであった。

「ったく、どいつもこいつもやってられねぇってんだよ!」

 自然と飲酒量が減って行った頃と同じように、これまた民子の飲酒量は自然と増えて行った。飲んでも飲んでも日々心を覆う雲のような、霧のような靄は晴れることはなく、飲めば飲むだけその濃度を増して行く。
 やがてその靄の中を行き場なく彷徨うようになると、前後不覚の酩酊状態で家の中とも外とも区別のつかない状態でいる時間が多くなった。
 ベッドに転がり込んだと思い目を覚ましてみるとゴミ捨て場であったり、自室のトイレで用を足していると思ったらそれが路上のビルとビルの隙間であったり、自分が今どこにいるかさえ不明なことが日常となった。

 いつものように酩酊した頭のまま、民子は歩いてわずか一分の雑居ビルの一階に在るコンビニへと向かっていた。理由は酒を足す為であったが、アパートの扉を開いて階段を降り、通りへ出ると視界のど真ん中に大きな柿が浮かんでいるのが見えた。
 人より、車よりも大きなその柿の色は燻んでおり、目を凝らしてよくよく眺めてみると、宮城の生家の軒先に吊るされていた干柿なのだと気が付いた。

「あれ、なんで!? なんでぇー!?」

 民子は眼前に浮かぶ巨大干柿に手を伸ばしてみるものの、まるで掴める気がしなかった。あんなに大きな干柿なのに、幾ら手を伸ばしてみようとも少しも届く気配がないのだ。
 干柿をストーブの上に置き、ほくほくになったのを食べるのが民子はとても好きだったことを思い出す。干柿の大半は自宅で食べる物ではなく、よそへ出荷する為に作られていた。
 なので親や他の姉弟に見つかると怒られることを知っており、他の家の者達が農作業に出ている隙を狙ってこっそり盗んでは干柿ストーブをひとりで愉んでいた。
 一番下の末弟が柱の陰から干柿を貪る姿をジッと物欲しげに眺めているのに気付くと、民子は顔の前に人差し指を立てて末弟を手招きした。
 喜びを隠せない様子で駆け寄る末弟が傍へやって来ると、民子は何故か分からないが理由もなく無性にその小さな丸坊主の頭を引っ叩きたくなった。干柿をくれるのだろうと期待を込めた眼差しと目が合うと、容赦なく坊主頭を引っ叩いてわんわん泣かせていたことまで思い出した。

「たぁくんごめんね! ほら、タミ姉の分、あげるから! 泣くな、大丈夫っちゃ!」

 そう叫びながら白昼の路上をうろつく民子であったが、素足でいることに自身は気が付いていなかった。
 通りを歩く者は皆民子を避けるようにして過ぎて行った。子供の目を伏せる母、笑いながら指を差す学生、舌打ちを漏らしながらわざと民子に肩をぶつけるサラリーマン。そんな者達の怪訝な気配にすら気が付くことなく、素足の民子は眼前に浮かぶ幻の巨大干柿を、泣かせてしまった末弟の為に追い掛け続けるのであった。
 市街地を抜けて閑静な住宅街へ差し掛かると、巨大干柿は半回転した。くるりと回った干柿の中央では、亡くなった父母が顔を並べて微笑みを浮かべていた。

「おっかぁ! 父ちゃん! オラぁ、民子だ! 民子!」

 葬式にすら出なかった両親との邂逅に民子は大はしゃぎした。両親の顔は微笑みを浮かべたまま顔色を変えることなく、猛烈な勢いで昔話から今の生活を喋り続ける民子を見つめている。

「この前まで会社でさ、働いてたんだ! んだっけ、朝行ったら会社がなくなってたんだいなぁ。なんだべちゃ、オラ何か悪いことしたんかなぁって考えたら、会社の方が悪いことしてだみてぇでなぁ」

 一向に変わらない干柿中央の両親の顔。その目と口元がいつの間にか「へ」の字に変わっていることに民子は驚き、肩を跳ね上がらせた。

「えっ! びっくりしだぁ! おっかぁも、父ちゃんも、死んだらそうなるんかい? なんだが、目と口がへの字みでぇだけども」

 目と口がへの字になった両親の顔が干柿中央からボトリと音もなく崩れ落ちると、糸を引いた根元から今度は電話機が姿を現した。

「あっ、鳴る! 鳴るから出なければ! はい、ヴィクトリー出版! ゴタク並べてねぇで用件早く言えやテメェ! こっちゃテメェみてぇに暇こいて電話する時間なんてねぇんだよ! お客様は神様だとでも勘違いしてんじゃねぇだろうなぁ!? 契約してんだから対等だろうがよ、おい! テメェがバカ息子のために参考書作れんのか!? あぁ!? 作れねぇからうちで買ったんだろうがよ! テメェのバカ息子の不出来をこっちの所為にしてんじゃねぇぞコラ! あ、待て! 切んじゃねぇよ! 勝手に架けて来て何勝手に切ってんだこの野郎! どいつもこいつも、勝手に来て他人様に迷惑掛けやがってこの野郎! どいつもこいつも! どいつもこいつもよぉ!」

 干柿を追い続けて住宅街を抜けた河川敷で髪を振り乱しながら、河川敷で叫びながら地団駄を踏んでいた。
 風の強い日で、オレンジ色の斜陽が川に反射していた。  
 巨大干柿がみるみるうちに色を失くしてしまい、やがて民子の眼前から消え去ってしまった。それでも、民子は狂ったように叫びながら河川敷で地団駄を踏み続けた。
 そうしてそのまま倒れ、知らないうちに眠りに就いてしまうのであった。

 目を覚ましてみると、そこは部屋の中でもゴミ捨て場でもなく、知らない天井が広がっていた。
 半身を起こすと左腕には点滴が挿されており、その場所が病院なのだとすぐに悟った。自分が何処で目を覚ますのか自分でさえも近頃覚えがまるでない民子であったが、病院で目覚めることになる日が来るとは夢にさえ思っていなかった。これは、運ばれたのだろうか。
 自身の状態が分からず半身を起したままぼんやりしていると、廊下から民子を認めた若い看護士が特に驚く風でもなく、踵を返して何処かへ消えて行った。しばらくすると老人の割に背の高い白髪を七三に分けた医師がやって来て、民子の脈を測り始めた。次に腹部に聴診器を当てると、ようやく声を発した。

「丸山さん、下のお名前答えられますか?」
「民子です」

 なんとなくカナエとのやり取り、そしてその後の精神科医とのやり取りを反芻して気分が重くなった民子であったが、そんな様子を気遣うこともなく医師は質問を続けた。

「丸山さんね、一日どれくらいお酒飲むの? 毎日飲んじゃう?」
「それしかやることないからね。こっちゃ暇こいて朝から晩までなんだから、量なんか覚えちゃないね」
「あぁそう。あのね、お酒はやらなくてもいいことなの。だったらもうやらないで、ね?」
「うるせぇなぁ」
「うん、うるさくないから聞いてね。ハッキリ申し上げるけど、丸山さんの肝臓はもう使いモノになりません。それでね、この状態だともうすぐ死にます」
「はい?」
「いいですか、もう一度言いますね。この状態だと、丸山さんはもうすぐ死にます」

 医師の口から伝えられた「死」という言葉を受け、民子は何も言い返せず、何も思考出来ず、固まってしまった。いくら歳を食ったとはいえ、まだまだ先が長いものだとばかり思っていたら、曲がり角の先が行き止まりだった。
 思考が停止したままの頭を冷静にしようと努めたが、全く回り出す気がしない。

「丸山さん、驚かれましたか?」
「まぁ……うん」
「私からしたらね、そりゃそうかって状態ですよ。どうします?」
「え、どうするって何を」
「このまま放っておいて、死にますか?」
「……そりゃ、ちょっとなぁ」

 わずかに回り始めた頭で人生を振り返ってみると、ほんの十秒で生まれた頃から現在まで辿り着いてしまった。
 田舎でこれと言った思い出がないまま育ち、就職先を逃げて横浜へ、夜の街で働きながら自分の店を持ったものの、店の金を全額を持ち逃げされ閉店、興味本位で会社で働いたものの出社してみたら会社ごと失くなっており、あとは朝から晩まで酒を飲んで、趣味はこれと言ってナシ、やりたいことと言えば気に食わない相手を全力でぶん殴ること。やりたくないことは他人と関わること。以上。
 一体、自分は何のために生まれて来たのだろう。いや、そもそも何のために生まれて来たのかなんて、そんな無駄なことを考える時間が面倒だからこんな生き方しかして来なかった。
 医師に問いに、民子は答えた。

「まいったね」
「あぁ、でしょうね」

 診断名はアルコール性肝炎。幻の干柿を追い掛けた民子は河川敷で地団駄を踏みながら吐血し、その場に倒れた。犬の散歩に出ていた近くに住む中年男性が発見し、救急車を呼んで病院へ担ぎ込まれたのだ。

 民子は自らのガソリンとも言える酒を断つことにした。その為に治療を続け、人嫌いにも関わらず集団カウンセリングにも参加した。
 その中で自分と同じような境遇の人間が多くいることを知り、自分が酒に呑まれていたことも嫌になるほど感じたのだ。
 ホスト通いから酒を覚え、まだ若い身体で依存症になってしまった女。仕事に出ても手が震え、悪いことだと分かっていながらも飲酒を続けて事故を起こしたドライバー。酔うと暴力を振るうという悪い癖が出てしまい、家庭を壊してしまった男。
 その誰もに共感する部分もあれば、馬鹿ばっかりじゃないかと呆れることはあったものの、そこに居る誰かが民子を責めることは決してなかった。

 朝起きてから味噌汁を作り、白米と少しのおかずを食べる朝の回数が増えて行った。自分なりに勉強をしようと図書館へ通い、アルコール依存に関する本を何冊も読み込んだ。自分の身体の状態を知れば知るほど死が間近だったことを知り、中学卒業以来ほとんど毎日アルコールを注ぎ続けていた自らの肝臓の状態をイメージした。ボロボロで硬くなり、吐く息さえ重くそろそろ呼吸をするのを止めてしまいそうな肝臓を思い描く度、身震いした。
 アルコールは止めた訳ではなく、今はただ飲んでいないだけ。止められたと思い込むと、結局また手を出してしまうだろうと考え、止めていないだけと自分に何度も言い聞かせた。

「いいかい、あんたはどうせロクなモンじゃないんだ。調子こいたら寿命が来る前にあたしが、あんたを殺すからね」

 わずかでも「飲みたい」という気持ちに駆られる度、民子は鏡に向かって自らを睨みつけてそう呟いた。死ぬ覚悟で、死ぬことを避ける。そうやって日々を重ねて行った。
 ある日の集団カウンセリングの終わりに、民子は一人の患者から声を掛けられた。

「あの、ミサコさんですよね?」
「ええ? あんた、誰だい」

 申し訳なさそうな表情を浮かべて目の前に立つ背の高い小太りの女に、覚えがなかった。ただ、自分の夜の名前を知っているということは夜と関係ある女なんだろう、と思いながら見つめている内に、その白い肌と栗色の瞳に合点がいった。

「あんた、マユか?」
「はい、お久しぶりです。こんな場所で会うなんて、本当にすいません」
「あぁ……まぁ立って話すのもなんだよ、座んなよ」
「はい」

 院内のソファに腰掛け、民子はまじまじとマユの体形の変わり様を上から下までじっくりと眺める。それに気付いたマユが笑いながら言う。

「過食症です」
「過食症? だからデブなのかい?」
「元々拒食症、こないだまで過食と、アルコールがやめられなくなってしまって……それで、これです」
「そうかい、人ってのは変わるモンだね」
「こんな身体になるなんて、自分でも思ってもいませんでした」
「違うよ。あんた、顔が変わったって言ってんだ」
「顔ですか?」
「ずいぶん、柔らかくなったじゃないか」
「そうですか?」
「あぁ。最後に会った時はしらばっくれやがってこの野郎、あのクソ雌タダじゃ置かねぇぞって思ったけどね」
「ははは、相変わらず口悪いですね」
「生まれつきなんだから、カウンセリングじゃ治らねぇよ」

 柔和に笑うマユの表情に、民子は焼きそばを初めてマユが食べた日の柔らかな表情を重ねていた。緊張から放たれた、無垢な顔。身体はボロボロでまるでダメでも、こうやって笑いながら話せることに民子は思ってもいなかった感情が芽生えて行くのを感じていた。

「本当、あんたが笑って生きていてよかったよ」
「はい。今の旦那と出会ってから、カウンセリング受けることにしたんです」
「二回目か?」
「恥ずかしながら、三回目です」
「そうかい。モテる女はね、じゃんじゃんくっ付いて別れてしたら良いんだよ。どうせ向こうから勝手に寄って来るんだからね」
「あはは。最後に会った時のこと、ずっと謝りたかったんです」
「いいよ、もう」
「あの時凄く後悔して、なんであんなこと言っちゃったんだろうと思って……ロータリー戻ったんです。でもミサコさんいなくって、私、お店に行こうかと思ったんですけど、殴られる覚悟でお店行ったらもうお店なくなってて、驚きました」
「色々あったからねぇ。まぁ、こうしてまた会えたんだからね」
「はい。あの時、ミサコさんが優しくしてくれることが凄く怖かったんです。だから、誰にも頼らないで一人で生きた方がずっと気楽だって思って突っ張ってたんです。私、母親がいないので意味もなく優しくされるのがなんだか怖かったんです」
「女は大事な商売道具だから利用はしていたけどね、あたしゃ優しくなんかした覚えはないよ」
「優しいですよ。今まで会った人は、みんな何処か利己的でした」
「……人ってのはそんなモンだよ」
「焼きそば、好きでしたよ。だから、ミサコさんが焼きそば作らない日は実はちょっと残念でした」

 マユの告白に、民子は堪らず噴き出してしまう。白状しやがったな、という想いもあれば、可愛げがある奴だな、という想いもあったが、一番の理由は自分が認められていた安堵と喜びの為であった。
 その感情の全てを、民子はつい汚い口で濁してしまうのだ。

「残念だったらなんで素直に「ハラ減った!」って言わないんだよ、ったくあんたは馬鹿だね! 黙ってたってね、腹は膨やしないんだよ!」
「あはは、すいません。っていうか本当、口悪いですよね」
「うるせぇんだよ! 生まれつきなんだから仕方ねぇだろ!」
「あはは。でも、ミサコさんらしくて安心しました」
「ふん、勝手ほざいてな」
「私、身体が落ち着いたらお店出したいんですよね。ネオンなんかなくて、ひっそりとしていて、それでも来る人みんながホッとできる居場所になるような、そんなお店です」
「あんた、酒は厳禁だよ」
「分かってますよ。だから、お客さんにだけ飲んでもらうんです。私は、作るだけ。夜の街で歩き疲れた男の人も、女の人も、安心して来てもらえるような、止まり木みたいなお店ですけど」
「そんな夢があるんじゃ、さっさと身体治さないとだね」
「はい。私のお店、キャッスルみたいなお店にしたいんです」

 民子は病院でわずか十秒で回想を終えた人生を振り返り直してみる。大雑把だった景色をよく目を凝らして見てみると、深夜の店内で全部のボックス席を巻き込んで盛大に笑い合う女や男の姿が見えて来る。その場所はカラオケもなく、BGMすら流れていない、楽しげな笑い声が響く時代遅れもイイ所の小さな空間だった。ふと、そんな時代や場所があったことを反芻する。

「私がお店出したら、お手伝いしてもらえませんか?」
「いいじゃないか。その代わり、あたしは高いよ」
「勝手を言ってるは分かっているので、百も承知です。今度は私がミサコさんを利用します」
「あたしを利用しようだなんてね、あんた百年早いよ」
「えー、その間に死んじゃいますよ」
「馬鹿野郎。あたしより先におっちんだらね、容赦しないからね」
「その為にこうやってカウンセリングにも出てますから、大丈夫です。ミサコさんのお葬式に出るって約束します」
「縁起でもない約束なんか出来るか、馬鹿!」
「あはは。ねぇミサコさん、お店出したら乾杯しましょうよ」
「あぁ。コーヒーでよけりゃね」
「もちろんです。約束です」
「女同士の約束は信用ならないけどね、今回は特別だよ」
「はい」

 話しながら、民子はマユを自分と重ねて見ていたことに気が付いた。人を頼らない性格で度量もあり、オトコの転がし方を心得ている辺りはもちろんだったが、意味もなく人に優しくされることが受け入れ難いという点まで似ていると感じていた。だからこそ、数多くの女の中でもマユを気に掛けていたのだ。
 誰に報告する訳でもなかったが、マユとの出会いを人に話したいような気持になりながら民子は家路に着いた。その間、なるほどねぇと一人で呟きながら歩くのであった。

「みんな、こんな気持ちなのかねぇ」

 そう笑って交番の前で立ち止ると、医師からなるべく早々に止めるように言われている煙草に火を点ける。駅前の通りを知らない雑踏達が行き交いながら、吐いた煙の形を変えて行く。

 それから日々は流れ、貯金の尽きた民子だったが身体は快復しても口の悪さは変わらず、とうとう働き口が見つけられずに身体的な理由もあり生活保護を受給することとなった。長年に渡る飲酒の影響で、彼女の右脚は言うことを利かなくなっていたのだ。杖をついて歩くことは出来るが、買い物などは難儀した。家賃が安くスーパーも近い公団住宅の一階に住まいを移した頃、何となく思い立って一通の手紙を認めた。
 宛先は両親の住んでいた実家で、今は誰が住んでいるのかも分からなかったものの、これだけは伝えなければと筆を執った。

『ごめんさない。今日も、生きています』

 それだけ認めた手紙を投函したが、返事が来ることもなければ、念のため記しておいた自身の連絡先に電話が鳴ることも無かった。
 小さなベランダにはそれ相応の小さなプランターとパイプ椅子、訪問看護士にバレないように灰皿を置いた。
 プランターは季節によって小さな花を咲かせたり、花に飽きるとピーマンやプチトマトなどの野菜が植えられた。
 趣味がない、と散々言っていたが街のコミュティが主催する絵画教室に興味を持ち、下手なりに何かを描くことに楽しみを見出したりもした。
 それはテロ事件を起こした宗教団体の教祖を描いた依頼の絵画体験であったが、プランターで花を咲かせる季節が真っ白い画用紙に現れることに喜びを感じたりもしたのだ。

 コミュニティが主催する大会などでこれと言った賞は取れやしなかったものの、民子にとってそんなことはどうでも良かった。寧ろ、賞を取って自慢げに吹聴するコミュニティの人間を辟易とした思いで眺めていた。

「丸山さん、今度私が取った賞の鑑賞会、兼慰労会を主催しようと思いましてな。是非参加をお願いしたいのですがね」

 そうやって声を掛けて来た髭の老人に、杖をついて歩く民子は口をへの字に曲げてこう返す。

「テメェでテメェを慰めてんなら世話ないね。そういうのはね、家ん中で勝手にやってな」
「いやいや、皆さんも頑張ったじゃありませんか! みんなでお疲れ様、と労い合う会ですから」
「ドガやゴッホが聞いたらね、あんたを殺しに来るよ」
「ゴッホが何か……関係あるんですかな?」
「安心しな。あんたには死ぬまで関係ないよ」
「そうですか! ハッハッハ!」
「……ったく、馬鹿タレが」

 咥え煙草で煙を吐きながら、民子は去って行く老人の背中を睨みつける。
 下手なりにプライドくらい持ったらどうだい。そんな風に心中で毒を吐きながら、傍から見たら非常にゆっくりとした足取りで、彼女にとっては急ぎ足で自宅へ向かう。予定をすっかり忘れたまま買い物に出てしまっていたのだ。
 駐車場で遊ぶ二人組の男の子の姿を見つけると、わずかに綻んだ心を紡ぎ直しながら、民子は大声で怒鳴りつける。

「ったく! あんたらねぇ、年末なんだからおとなしく家に居たらどうなんだい!」

 その声に振り返る子供達が「ばあば!」と叫んで駆け寄った。彼らが離れた場所に立っているのは、歳を重ねはしたものの美しさは健在なマユの姿だった。
 不況の煽りを受けた旦那の会社が倒産寸前まで傾き、経済的な理由から夢であったお店を開くことはなかった。しかし彼女の婚歴は三回のままで止まっていた。
 民子がぶら下げるビニール袋を見て、上の子供が「焼きそば?」と目を輝かせる。

「そうだよ!」
「食べたい食べたい食べたーい! ばぁば、早く作って!」
「小六にもなって「ばぁば」ってあんたね、あたしとあんたは血の繋がりなんてないんだからね。あたしはガキなんか作った覚えないんだから!」
「はぁー? そんなん関係ねぇし! ばぁば、はばぁばじゃん!」
「ったく口の悪いガキだね。誰に似たんだか」
「ばぁば」
「焼きそば作ってやるからさっさと入んな! ガキがオモテで騒いでたら迷惑だよ!」
「またまた~。ミサコさんの方がよっぽど声大きいんだからさぁ。ヒロ、リュウ、ばぁばの荷物持ってあげな」
「はーい! ばぁば、持ってやるから荷物寄越せよ」
「ったくこっちのガキまで! いいかい? クソガキに持たれるほどあたしゃ弱っちゃあないんだよ!」

 公団住宅一階の小さな部屋で、焼きそばを囲みながら笑い話に花が咲く。
 その大半がマユの働くスーパーの愚痴であったが、民子は耳を傾けながら時々「そんな奴ぶっ飛ばしちまえ」と相槌を打つ。子供達がゲームをしながら大はしゃぎしていると、インターフォンが鳴らされる。
 騒ぎ過ぎて苦情が入ったかと思ったら、やって来たのは隣室に住む民子より二つ上の佐山という小太りの独身老婆だった。

「あのね、お餅もらったんだけど食べきれなくって。良かったら食べない?」
「あら、切り餅?」
「そうそう。チンすればいつでも食べられるから」
「こりゃあ助かるねぇ。あたしゃ人がついた餅なんか気持ち悪くて食えないからね」
「何だかわかるわぁ。子供達、賑やかでいいねぇ」

 中を覗いて佐山が手を振ると、ゲームに夢中だった子供達が軽く頭を下げる。

「あらぁ、えらいわねぇ」
「あたしの孫じゃないよ。うるさくってたまらないだろ、すまないね」
「いいのよ。子供の声聞くと元気もらうもの」
「そうかい。餅、悪かったね」
「いいのよ。もらってくれて助かったわぁ」

 日頃は挨拶を交わす程度でたまにしか口を利かないが、佐山を見る度に民子はぼんやりとした既視感を覚えるのだが、それが何なのかすぐに忘れてしまうのであった。

「ミサコさん、お風呂入れてっちゃっていいよね?」
「あぁ。好きにしな」
「ヒロ、リュウ。ゲーム止めてお風呂にしな! 三秒ルール、はーい、さーん、にぃー」

 猛烈な勢いでゲームを止めた子供達が着替えの入ったリュックを手に風呂場へ駆け出す。束の間静まった部屋で、民子が茶を啜りながら笑う。

「あんたまであたしに似て口汚くなってどうすんだい」
「子供に言うこと聞かせるにはこれくらいでちょうどいいの」
「そうかい」
「それにさ……」
「まだなんかあんのかい」
「私……母親だと思ってるから、ミサコさんのこと」

 娘を生んだ覚えはないよ。瞬間的に浮かんだ言葉を、民子はぐっと熱い茶で流し込む。

「そうかい、ありがとね」
「……」
「出来の悪い娘を持つってのは、こんなに大変なんだね」
「……うん」
「馬鹿。こういう時はね、「うるせぇ」って返すモンなんだよ」
「……はは。本当、このババアったらうるせぇなぁ」
「誰がそこまで言えって言ったんだ! ったく馬鹿だね!」
「ははは!」

 楽し気な声達が民子の部屋を後にした頃。しんと静まり返った部屋で民子は絵筆を手にする。はがきサイズの画用紙に、なんとなくの記憶を頼りに筆を走らせ、色を重ねて行く。一時間掛けて描き終えた人物画の裏に、今度は鉛筆を走らせた。

『佐山さんへ。お餅ありがとう』

 外へ出て郵便受へ投函すると、すっかりと街へ降りた冬の寒さに身を震わせた。すぐに家へ戻れない右脚を拳で引っ叩くと、「この馬鹿足が!」と悪態を吐き、玄関を閉めた。

 その年最後の訪問看護の直前に、民子はベランダのパイプ椅子に腰掛けて煙草を燻らしていた。 
 夜は相応に冷え込むが春のような陽射しの暖かさに、思わず目を瞑る。
 そうやって全身で陽の暖かさを感じていると、隣のベランダから声を掛けられた。仕切りが入っているから顔は見えないものの、煙草の匂いで佐山が気付いたのだ。

「丸山さん、イラストありがとうねぇ。ねぇ、私ってあんなに美人かしら?」
「まさかぁ。餅の分サービスしてやったんだよ」
「あら、そうなの!? なぁんだ。でも、嬉しいわぁ。人に絵なんか描いてもらったことないもの」
「あたしだって描くばっかりでないよ。前に描かせたらあんまりブサイクに描きやがったから怒鳴りつけてやったんだよ」
「あら、もう本当に怒りっぽんだから。ねぇ……丸山さんって昔私と会ったこと、ないわよね?」
「ある訳ないだろう。あったらすぐに思い出すよ」
「そうよね。また何か持って行くわねぇ」
「あぁ。現金なら喜ぶよ」
「ざ~んねん」

 他愛ない会話を終えて残りの煙を吸い込むと、民子は思わず咽そうになった。
 時間より早く看護士が来てしまい、車が縁側の目の前で停車したのだ。
 焦りながら火を消したが、窓を下げた看護士は笑っている。

「丸山さーん、焦らなくって大丈夫ですよー! とっくにバレてますから」
「あぁ!? な、なんだい! 知ってて黙ってたのかい?」
「だっていっつもヤニ臭いんですもん」
「芝居こいてんじゃないよ!」
「予定パンパンだから早めに来ちゃったけど、駐車場空いてるかな?」
「世話ねぇよ。鍵空いてるから入んな」
「ありがとー」

 部屋へやって来た看護士は民子の血圧を測り終えると看護ノートに情報を記録しながらふと何か思いついた顔付きになった。

「そういえば丸山さんって、昔はどんなお仕事してたんですか?」
「そんなん聞いてどうすんだい」
「え? ただの興味ですよ。芝居こくなって言われたから」
「ふん。聞いて驚くんじゃないよ」
「ええ? そんな凄いお仕事なの?」
「女優」

 看護士は血圧を記していた手を止め、「えぇ!?」と裏返った声を上げた。

「女優さんしてたの!?」
「馬鹿だね。嘘だよ」
「なぁんだ。驚いて損したじゃーん」
「なれるもんなら、なりたかったけどねぇ」
「へぇ。なんで諦めちゃったんですか?」
「なんでだろうねぇ……」

 民子は近頃、過去を思い出すことが増えていた。それは何か具体的なことではなかったし、大半がどうでも良いような記憶ばかりだった。
 ただ、それだけの記憶が自分の中にあることに自身でさえ驚くこともあった。
 看護士が「諦めちゃったのかぁ」と続けたので、民子は堂々と煙草に火を点け、煙と共に答えを吐き出した。

「あんたと違ってね、あたしゃ芝居こくのが下手だったんだよ」

 芝居なんかしてませんから、という看護士は鼻を摘まみながらわざとらしく煙を手で払う。それを見て民子は楽し気に煙を吹き掛ける。
 そうしている内にも季節は過ぎて行き、日々へと変わり、そして日常へと移って行く。
 誰かを想いながら心を萎めたり弾ませたりする夜が民子に訪れることはなく、その晩もテレビを点けて各地の年越しの様子をぼんやり眺めていだけであった。
 画面の中から、そして外からも除夜の鐘の音が響いて夜の静けさの中に人の気配を伝え続けている。
 深夜十二時を回り、新たな一年が始まる。
 若手芸人が新年を祝うバラエティ番組に、民子は「売れてから騒ぎな!」と悪態を吐き、テレビを消した。
 そうして灯りの消えた部屋の布団の上で、右側の脇腹を何度かさする。

「今年も苦労かけるけど、よろしく頼んだよ。お酒は絶対に、飲みません」

 祈るようにそう言って、布団に潜り込む。
 しんと静まり返った部屋に民子の寝息が聞こえ始め、さきほどまで明日だった一日が今日へ変わる為に動き出す。それと擦れ違う形で、燻らしていた今日が昨日へ向かって消えて行く。


【あとがき】

今年も一年、読了頂きありがとうございました。
つい最近までモノをまともに書くことが出来ず、おまけにコロナに罹ったり父が亡くなったり、そしてまた体調を崩したりと散々でぎゃふんな一年でありました。
このまま何も書けないのではないか、そう思っていた所昨日になって狂ったように無性に書きたくなり、今回の小説を書くに至りました。
プロットは頭に置きながら、構成は書きながら、と言った具合の為読みづらい点もあったかと思いますが、一年最後の日になってこのような小説が書けて嬉しく思います。
これからも人を描き続けたいと思います。

それでは、よいお年を。

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