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【小説】 オニイチャン 【ショートショート】

 休みの朝。コンビニへ煙草を買いに向かっていると、公園の脇を通り掛けに左手前の茂みからサッカーボールが飛び出して来た。
 思わず腰を引いてしまったが、公園に目を向けてみると小さな男の子の二人組が突っ立ったままこちらをジッと眺めていた。
 僕はボールを拾って投げてやると、ボールを受け取った背の高い方の男の子がこちらへ向けて丁寧に頭を下げ、それに続いて小さい方の男の子もぺこりと頭を下げた。
 背の高い男の子は小さな男の子にボールを放り、受け取った男の子がボールを地面に置いて元気な声を辺りに響かせた。

「お兄ちゃん、覚悟しろよー! スーパーレインボーウルトラサンダーシュート!」

 デタラメなネーミングに心の中でくすりと笑い、僕は白い息を吐きながらコンビニへ急いだ。
 アパートへ帰り一服しながらテレビをぼんやり眺めていると、インターフォンが鳴った。休みの朝に誰かがやって来る予定もなく、どうせ何かの勧誘だろうと思って居留守を決め込んだが、インターフォンが再び鳴った。

 面倒だったが咥え煙草で立ち上がり、玄関のドアを少し開けると見覚えのない、スウェット姿の中年男が笑みを浮かべて立っていた。
 頭は禿げ上がっていて、残された毛が伸びて落ち武者のようになっている。おまけに、くすんだ肌色には艶がなく、灰色のスウェットのあちこちに正体不明の染みが出来ていた。
 手ぶらで突っ立ったまま前歯のない口元を緩ませる男に、僕はすぐに警戒心を剝き出しにした。

「なんすか、あんた」
「おにいちゃん、来たよ!」
「はぁ……? すいませんけど、帰ってもらっていいっすか?」
「おにいちゃん!」
「はい?」
「僕だよ、おにいちゃん!」

 おにいちゃんと言われても、何の意味だかさっぱり分からなかった。僕に弟はいないし、そもそも僕の年齢は二十八だ。このオッサンはどう若く見積もっても五十は過ぎているし、見覚えすらない。

「警察呼びますね」
「せっかく来たんだよ? ねぇ、中に入れてよ。おにいちゃん」

 僕は返事をせずに玄関のドアを閉めた。せっかくの休みの朝に、あんな頭のおかしな奴に目をつけられたと思うと気分がげんなりし始めた。
 すぐに警察に電話をすると、パトロールをしてくれることになった。

 その後、昼のうちはあのオッサンがやって来ることはなかったものの、夜になってから状況が変わった。 
 酒を飲みながらぼんやりテレビを観ていると、インターフォンが鳴った。すぐに嫌な予感がして、音を立てないように玄関の傍へ近づいてみる。
 すると、玄関の外から声が聞こえて来た。

「お兄ちゃん、朝はごめんね。僕、お兄ちゃんに急に会いたくなっちゃったんだ。ねぇ、お兄ちゃんが大好きなおでんの大根、買って来たよ! 店員さんに頼んで、汁もたぷたぷに入れてもらったんだ! ねぇ、すっごく寒いんだ。中に入れてよ」

 警察に電話しようと思いながら声を聞いていたが、おでんの大根、それも汁をたっぷり入れるのが大好きだった自分の少年時代を思い出し、たまらなく怖くなった。

「寒いよ、入れてよ」

 その声が徐々に大きくなり、僕はすぐに警察に電話を掛けた。

「中山さんですね。すぐに向かいますから」

 事情を察したようで、それだけ言うと警察はすぐに電話を切った。
 電話を切ってリビングで警察が来るのを待っている間も、外からの声は止む様子がなかった。

 オニイチャン、サムイヨ、オニイチャン、シルガサメチャウヨ、オニイチャン、オボエテル? ボクノ、サッカーノ、ヒッサツワザ、スーパーレインボーウルトラサンダーシュート、オニイチャン、アノトキ、ボール、トレナカッタヨネ、オニイチャン。

 底冷えではない震えを身体に感じながら、部屋にまで届くその声を聞きながら、僕は警察をまだかまだかと待っていた。
 五分ほど経った頃、外から数人の話し声が聞こえて来た。次いで、部屋をノックされて僕は玄関をそっと開けてみた。
 懐中電灯で顔を照らされて思わず目を瞑ってしまったが、目の前には屈強な警察官の二人組が立っていた。
 安堵した僕は膝に手をついて、彼らを迎い入れるようにして玄関を開けた。
 だが、そのすぐ隣にあの中年男が立っていた。気持ちの悪い笑みをにやにいやと浮かべ、こちらをじっと眺めていた。

「お巡りさん、こいつヤバイっすよ! マジで捕まえて下さいよ!」
「中山さん、落ち着いて。こうやって毎度様子を見に来てくれてるんだから、良い弟さんじゃないですか。悪く言っちゃダメだよ」
「はぁ? 何言ってんすか! ちょっと、おふくろに電話します」

 まさか、警察官までグルになって僕にあの中年男を押し付けようとしてるのか? 僕には弟がいない証拠を聞かせてやろうと母親に電話を掛けると、すぐにこんなアナウンスが聞こえて来た。

「おかけになった番号は、現在使われておりません。おかけになった番号は、現在使われておりません」

 は? これは一体、どんな悪い冗談なのだろう。ディスプレイを見てみると、掛けている番号は母親に違いなかった。僕は何か悪い夢に騙されているんじゃないかと思いながら、顔を洗おうと洗面所の扉を開けた。
 玄関では警察官と中年男が僕のことを無視して、妙な話しを始めている。

「弟さん、いつもご苦労さまです」
「いえいえ、こちらこそ毎度ご迷惑おかけして……。兄はまだどうも立ち直れてないみたいで……ショックって言うんですかね。子供の頃のことでも思い出してもらおうと頑張ってみたんですけど、ちょっと違かったみたいで」
「そうですかぁ、大変ですねぇ……」
「まぁ、兄弟なんで……義務って部分もあるんですけどね」
「おうち、お近くで良かったですね」
「本当、それだけが救いっていうか」

 警察も頼れないとなると、次に駆け込むべきところは何処なんだろう。こんな場合、弁護士を頼るのが良いのだろうか? いや、けれど法的にあの中年をどうこうするには裁判を経て……。
 冷や水で顔を洗った僕は、顔を上げてみて声を失った。
 鏡には、枯れ木のように痩せ、生気のない目をした老人が映っていたのだ。

 そうだ。そうだった。この声を失う瞬間を、恐怖で震えたことを、また思い出した。そして、また忘れてしまうことに恐怖をしたことも。
 鏡に映った皺だらけの顔。
 それは紛れもなく、僕が知っている「僕」だった。 

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