見出し画像

【小説】 夢の街 【ショートショート】

 ガラクタの山、冴えない通り、曲がり角に立ち続ける古びた娼婦が男に声を掛けた。

「どうせ見つかりっこないわよ。いつまで探すつもりなの?」

 風は錆びた鉄の匂いを運んでいるが、それが川向こうの国政工場のものなのか、目の前の女の経血のものなのか、男は考えあぐねて顔を顰める。

「俺だって、本当に見つかるとは思ってないさ」
「呆れた。そうやって自分に言い訳してるつもりなの?」
「うるさい」

 男は吸いかけの煙草を娼婦に投げつけるが、草臥れた身体に弾かれて地面に落ちた燃え殻を、娼婦は拾い上げて煙を吸い込んだ。霞んだ空気の中に吐き出された煙と共に、娼婦は叫んだ。

「これだけは言っておくわ。夢はね、誰にでも見れるもんじゃないのよ」

先を急ぐ様子を見せつける為、肩をいからせていた男は立ち止まり、踵を返す。

「じゃあ、誰が見れるっていうんだ?」
「本物の愚か者よ。あんたは無駄に頭が良いから、夢は見れないわ」
「……放っておいてくれ」
「じゃあ、一生探していれば?」
「そのつもりだ」

 男は再び歩き出す。通りに立ち並ぶバラックは病的な風に吹かれ、バタバタと音を立てている。足を一歩踏み出すたびに、何の動物かも分からぬ骨の欠片、抜かれて捨てられたままの釘、嘘と真実の境目を失くした新聞紙、そんなものを足の裏に感じてはいるが、男がそれを気にする様子はない。

 四方を高い壁に囲まれたその街に逃げ場など無ければ、また、希望も無かった。飼育動物的にぎりぎり生きていけるだけの環境を国からは与えられてはいたが、多くの者の不平不満による皺寄せが全てそこへ偏っていた。
 高い壁の向こうから、空を越えてそこに生きる者達を嘲る声を聞いているような気分で過ごす日常の中で、人々は多くの物を失った。若しくは、元から
持たざる者となった。

 男には娘が一人居た。無表情で暗く、成長しても一向に口数の増えない子供だった。母は娘を産んでから床に伏せた状態になり、それから二年後にバラックの家、それも湿った黴だらけのベッドの上で亡くなっていた。
 娘は母の死を理解していたようだが、泣いたり喚いたりもせず、確実な死を前に立ち尽くす男に「ごはん」と、何度も無表情で要求し続けていた。

 男は重機を扱い、壁の向こうから不法に投棄され続ける塵の塊を回収する仕事に就いていた。
 それらの多くが処理に手間のかかる家電製品や注射器などの医療廃棄物などであったが、時折、人も混ざっていた。
 其れ等の多くは壁の向こうでその存在を消された者であり、表の世界の人間ではないようであった。
 壁の内側の人間の中で積極的に不法に投棄される人に触れたがる者はいなかった。
 ただ、男だけは違っていた。その人となりがどんな者であろうとも、命を亡くした者を弔う気持ちを持っていた。
 
 塵山の片隅に、葬られた者達の墓が出来た。
 それは男の手によって作られた場所であったが、壁の内側の人間は忌み地として近寄ることすらしなかった。
 それは呪いや霊的な類のことではなく、現実的な問題への恐れからであった。
 どこから噂を聞きつけたのか、壁の向こうから墓に手を合わせる者が現れるようになった。
 彼らの格好は一様に黒尽くめであり、また、多くのことは語ろうとはしなかった。葬られた者がどんな人間で、何をして死んだのか、語る者は一人もいなかったが、男に対して感謝の言葉だけは伝えられていた。
 
 ある日、男は娘を連れて仕事に出ていた。住処であるバラックの建替があり、家の中に娘を置いておくことが出来なかったのである。
 昼休憩の間、霞み切った空気の中を一匹の蝶が飛んでいるのを娘はじっと見入っていた。
 赤と黒の二色で羽根が構成された、不気味な模様の蝶だった。
 娘は初めは座って蝶を眺めていたが、そのうち立ち上がってふらふらと追い掛け始めた。
 男はその様子に気が付いていたが、目から離れる場所には行かないだろうと思っていた。

 しかし、わずか一分後に娘の姿は目の前から消えてしまい、それから何処を探しても見つかることはなかった。
 ガラクタの山や、廃棄物の溜まる穴に落ちたのだろうと心配になり、あちこち掘り起こしてみたりしたが、ついに娘が見つかることはなかった。
 娘の失踪はわずかな騒動を起こしたが、壁の内側の人間達は「自業自得だ」と男に呆れ果てていた。

「おまえが壁の向こうの招かざる者を呼んだんだ。娘さんは残念だが、もう二度と見つからないよ」
「何か知っているのか? 娘は一体、何処へ消えてしまったんだ。教えてくれないか?」
「夢の中に消えたのさ。そう思っておけば良い。なんせ、二度と見つからないんだから」
「夢の中? どういうことだ?」
「……ここで暮らすよりもきっと、よっぽど良い場所だと思うよ」
「…………」
「まぁ、元々いなかったと思えばいいだけさ」

 同僚はまるで犬猫が失踪したかのような口調で言うと、意気揚々と塵処理の仕事へ戻って行った。
 男は絶望的な気分になりながら、放心状態で目の前に落ちていた注射針を拾い上げた。
 その途端、指先に小さな痛みが走った。すぐに血を拭ったものの、清潔な水はなかった。

 男はそれからというものの、夢の正体が一体何なのか、いくら考えてみても理解が出来ないような状態になってしまった。
 今となっては毎日のようにフラついた足取りで不法投棄の現場へ赴くものの、それは仕事ではなく夢を探す為なんだと常に言い聞かせなければ一体何をしに向かっているのか、失念してしまう程に非道い状態になっていた。

 重機が唸り、毒性の埃が舞い上がる現場のゲートへ近付くと、かつては同僚で今は現場の監督をしている男の元友人がフラついた足取りに向かって怒鳴り声を浴びせる。

「毎日毎日いい加減にしろ! もうこの場所は変わったんだ! おまえが探しているものはここにはもう、ないんだ!」

 男はその言葉を初めて聞いたかのような表情で立ち止まり、宙を見上げた。

「おい、俺は……ここへ何しに来たんだ? 仕事は、何をすれば良かったんだ?」
「おまえはもう半年も前にここをクビになったんだよ! 余計な面倒ばかり運んで来やがって。出て行ってくれ、痛い目に遭わないうちにな!」
「あぁ……そうか。そうだった、すまなかった」
「本当、どうしちまったんだよ。毎日毎日……」
「そうだ、なぁ!」
「なんだ!?」
「二番重機は空いてるんだろ? 今日はそっちを使わせてくれ」
「……さっきも言っただろ。おまえはもうここの人間じゃないんだ! いい加減にしてくれ」
「ここの、人間じゃない……俺は、何をしに来たんだ? 朝は覚えてたから、紙に書いたんだ。あの紙は、何処に行ったか……そう、誰かを探してたのか? その誰かとは、誰だった……俺は、俺であって、俺は俺の意識があるから、俺を認識していて、俺は俺で……なんだ? だから、なんだ?」

 そう呟きながら、男はバラックへ戻る道を辿った。
 乾いたままの喉に気が付く様子もなく、噴き出す汗が止まったことにも身体は反応も見せず、男は歩き続け、呟き続けている。
 半ば無意識に煙草に火を点け、ふと空を見上げた。
 赤黒い蝶がゆっくりと羽ばたきながら、色を失くした空を横切って行く。
 男は空を見上げたまま、失くしたものと探すべきものをいっぺんに思い出す。
 娘の名前が記憶の底から湧き上がり、明確に思い出すその一歩手前で、男は空を見上げたまま背後へ倒れた。
 そうして、そのまま誰にも見向きもされない路上の亡骸の一つとなり、また、誰からも思い出されることもない一人となり、やがて消えて行った。
 

  

サポート頂けると書く力がもっと湧きます! 頂いたサポート代金は資料の購入、読み物の購入に使わせて頂きます。