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人生甘くないよ!たけし日本語学校奮闘記 第8話「希望」

2003年9月1日、西アフリカベナン共和国で「たけし日本語学校」を開校しました。ゾマホンさんとともに歩んだ道のりを実話をもとに当時の僕の心境も付け足しながら書いています。新型コロナの影響で日本語教育のみならず、不安な日々を過ごしている方も多いと思いますが、「人生、甘くないよ!」と口ずさんで、乗り越えていきましょう!!

前回の話

2003年9月1日、日本人の日本語の先生をベナンに派遣し、とうとう「たけし日本語学校」は開校しました。しかし、派遣した日本語の先生は1ヵ月もたたないうちに帰国されました。「もう、私はベナンに帰れない」そうつぶやくゾマホンさん。それを聞く僕。「たけし日本語学校」廃校の危機?!

張り詰めた空気

開校1ヵ月にして日本語の先生が不在となり、せっかく集まった生徒たちも解散することになりました。再び学校をはじめたとしても、生徒たちはもどってこないかもしれません。失意のまま日本に帰国したゾマホンさんは、ホテルの一室で椅子に座り、うつむいたまま動きません。僕はその光景をみて、自分がやってしまったことの重大さに恐怖を感じていました。

「僕はなんてことをしてしまったんだろう・・・」

僕はゾマホンさんや日本語学校に来てくれた生徒たちに対して申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

「ゾマホンさん、本当にすみませんでした。」

それしか言えませんでした。怒りとか、悲しみとか、そういう感情すら忘れ、ただただ茫然としていました。

「山道さん、やっぱり人生、甘くないね・・・わたしは、自分が稼ぎたいから日本語学校をやったわけではないよ。ベナンの人たちのために力になりたかったですよ。」

日本語教育の価値

僕はアフリカにおける日本のプレゼンスを高めるために親日・知日の国を増やしたいと考えていました。そのためには人的交流が一番よい手段だと考えていました。日本人がアフリカ諸国を発展途上の国々としてみて、支援するのではなく、日本とアフリカ諸国の人々がお互い対等な関係で、お互いを尊重しあい、関係性を育んでいきたいと考えていました。
その中で、日本語学校は「文化理解」「人材育成(留学)」の両方がかなえられるものでした。そして僕は何よりも、人が楽しそうに学んでいる姿をみるのが好きでした。だから日本語学校にこだわりました。

また、日本語教育に対しては、「低賃金の労働者」を「技術研修生」と称して日本に受け入れていた、という事件がありました。日本語教育がそのために利用されているという実態を知りました。僕は日本語教育の価値をアフリカで証明したい、そういう考えもありました。

理想に燃えていても、現実は厳しいことを、この出来事で思い知らされました。

夕日

約束

静まりかえったホテルの一室で、僕はゾマホンさんに話しはじめました。

「ゾマホンさんは以前に、”私を信じてください”と僕に言いましたよね。
ゾマホンさん、今度は僕を信じてください。必ずゾマホンさんがベナンに帰れるようにお手伝いしますから。」

借金もある24歳。夢をあきらめることもできました。正直、開校するまでも様々な問題があったので、これ以上踏ん張れるかは、わかりませんでした。しかし僕は以前ゾマホンさんと交わした約束を守りたいと思いました。

「山道さん、ありがとうございます。」

2013年10月、ゾマホンさんと僕はもう一度、日本語学校開校にむけて約束しました。

再開に向けて

日本語学校を再開するためには、日本語の先生を一から探し始めなければなりません。もう二度と同じ過ちを繰り返してはいけませんでした。
僕は今回ベナンへの派遣手続きをしてくださった本社のスタッフに会いにいきました。そのスタッフは50代の男性で、ゾマホンさんに一度だけ面識がありました。

「山道さん、私、ここを辞めて、ベナン共和国に行きますよ。」

「えっ?」

「私は外資系企業を早期に辞めて、第二の人生は、以前住んでいた所に(東南アジア)戻ろうと思っています。そのために日本語教師の勉強をはじめたんですよ。その夢はあきらめてないけど、その前にアフリカに1年行きますよ。」

ベナンに派遣する先生の手続きをやってくださった方が、自ら行くことになるとは、信じられませんでした。しかも会社を辞めて・・・

「山道さん、私が1年アフリカにいる間に、次の日本語の先生を探してくださいね。いま10月だから、これからビザを取得したりすると11月にはベナンに行けますよ。」

思いもよらない展開に戸惑いました。

とりあえず僕はすぐにゾマホンさんに連絡し、会ってもらうことにしました。

ゾマホンさんも最初は信じられない様子でしたが、その方の熱い想いを聞き、最後には深々と頭を下げてお願いしました。

その方は小国さん

小国先生の出発が目前にせまり、ゾマホンさん、小国先生、僕の3人は四ツ谷で再会しました。前の先生が1ヵ月で帰国されたときは、絶望しかありませんでした。しかし小国先生の一言で、ゾマホンさんと僕は再び希望がうまれました。
ゾマホンさん、小国さん、僕の3人はささやかな壮行会をおこないました。
壮行会の会場は千駄ヶ谷にある「ホープ軒」というラーメン屋。
アフリカ人1人、50代の男性1人、20代の男性1人というなんとも不思議な3人が、カウンターに並んで座り、ラーメンをすすり、瓶ビールを1本あけました。

「小国先生、よろしくお願いいたします。日本の方は僕が頑張ります。」
「小国先生、ありがとうございます。あなたは命の恩人だよ。」
「山道さん、頼んだよ。ゾマホンさん、頼んだよ。」

この千駄ヶ谷ホープ軒での出来事は、いまでもはっきり覚えています。
そしてこのホープ軒は僕たちにとって聖地となり、ことあるたびに足を運んでいます。

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小国先生の功績

小国先生は2013年11月に「たけし日本語学校」に着任し、1年間「たけし日本語学校」の運営基盤の整備に尽力されました。
また、小国先生は今後、ベナンに赴任する日本語教師のために、少しでも現地のことがわかるようにと、自費で『ゾマホンも知らないゾマホンの国』という本を出版されました。この本にはたけし日本語学校、創世期のことが書かれています。

そして2014年10月、小国先生は任期満了で日本に帰国されますが、帰国直前にベナン共和国政府から小国先生に「国民栄誉賞」が贈られました。
その後、小国先生はご自身の希望通り、東南アジアにわたられ、そこで日本語を教えながら生活を送られています。
この場をかりて、あらためて小国先生にお礼申し上げます。

勲章授与

最後に

小国先生の後、2021年までに19名の日本語の先生が「たけし日本語学校」の教壇に立たれ、延べ人数80名のベナン人が日本に留学することができました。僕は小国先生がベナンに行かれて3か月後、日本語学校を退職し、埼玉で住込み日雇いをしながらNPO設立に動き始めました。

これが「たけし日本語学校」開校までの物語です。(つづく)

スタッフ集合


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