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ゴミ再考

リサイクル社会「江戸」から学ぶ

 現在我々は、大量生産・大量消費というサイクルのなかで生きている。
 毎日大量に生産される多くの消費材とそれを大量に消費する国民、その消費を喧伝するメディアというシステムのなかで生きている。
 もうこの生活に慣れてしまえばそれが当たり前のように感じてしまうが、本来人間も動物であり、自然界からのいただきもので生きている。
 しかしなぜかシステム化された消費文化に浸っていると、そのことを忘れてしまい、スーパーにきれいにパッケージされて並んだ食品がまるで人工的に作られた商品のように錯覚してしまうが、もとをたどれば全て自然界にあった生命だ。
 さすがに工業製品にはそこまでの思い入れは浮かばないかもしれないが、石油、天然ガス、鉄、アルミニウムをはじめとした資源や半導体を使った最新の電化製品でさえ、最小化していけば人間が人工的に作り出した素材なんてない。
 このため世界は自国を豊かにするために、あらゆる資源を求めてしのぎを削る。

 確かにいろいろな物に囲まれて、快適な生活を送れるということは幸せなことかもしれない。
 しかし多くの人が忘れているが、多くの物があふれているということは、いらなくなった多くの物、つまり「ゴミ」もあふれているということだ。

 大量に生産して消費するということになれば、必ずそれを廃棄したり、処分したりするということになる。
 ただ誰もそのことにあまり関心を持とうとしない。
 なぜなら自分が捨てたモノは、もはや自分のモノではないからだ。
 資本主義の目的から外れた問題になるからだ。
   あとは廃棄物業者の仕事だ
と、そこで思考がストップしてしまう。
 社会が高度に分業化された現在、それはそれで仕方ないと思う。
 何せ実社会は忙しい。
 人の仕事にまで気を回す余裕はない。

 加えて日本人には
   穢れの概念
があり、どうもゴミは穢れたものとして、自分から距離を置こうという発想があるのかもしれない。
 死や病気、不浄なものなどから距離をおいて、そのようなことを考えることさえ忌み嫌うという日本人特有の精神である。   

 ただひと昔前と違って、現在のゴミは昔と比べてその質も随分と
   グレードアップ
しているので、一口に「ゴミ」で片づけられるものではなくなってきているものも多い。

 原子力発電では皆その恩恵に預かっていながら、ひとたび核の「ゴミ」の問題になるとどの自治体もその受け入れをしぶり、脱炭素という潮流に沿った電力確保方策であるにもかかわらず、メディアは「原子力」というだけで相変わらずアレルギー反応を起こす。
 何も問題なく放出される「処理水」にまで「汚染水」ではないかと神経をとがらすほどだ。

 太陽光発電に使うパネルは、持って30年程度でその後は廃棄しなければならないらしいが、廃棄はどのメーカー(まあほとんど中国メーカーだからさもありなんだが)もサポートしない。
 しかしそのパネル部分には毒劇物(鉛・ヒ素・カドミウムなど)が含まれ、山中に建てたものの劣化に伴う漏出による土壌汚染が懸念されるが、脱炭素化の潮流に沿った発電という理由からか、あれほど原子力発電に目くじらをたてるメディアもその問題は見て見ぬふりをする。
 ちなみに、友人にリフォーム関係の仕事をしている人がおり、太陽光パネルも取り扱ってはいるが
   あれは絶対にやめたほうがよい
   補助金も将来打ち切りになるし
   そうなると絶対元がとれない
   電気も余っているから売電価格
   も下がる一方だ
と言っている。
 
 また先進国になれば少子高齢化社会という問題がでてくるが、世界的に見れば人口は増え続けている。
 1950年代には約25億人だった世界人口は今や80億人を突破しており、今後も増加する傾向のようで、そのひとりひとりが毎日「排出」する二酸化炭素も、母なる地球からすればその母体を傷つけるゴミだ。
 逆に地球上の砂漠化は進んでいて、人間に酸素を供給してくれる「緑」はどんどん失われていっている。
 毎年岩手県と秋田県を合わせたくらいの土地(面積にして約264万ヘクタール)の砂漠化が世界中で進行しているらしい。
 脱炭素化が叫ばれるはずだ。

 つまり人類が増え続け、便利な生活を享受する人が多くなるほど、地球上に住むあらゆる資源が失われていくということになる。
 そしてその資源が社会で消費され最終的にゴミになって、母体とも言える地球を少しずつ傷つけていく。

 少し汚い話になって申し訳ないが、動物が排出する糞尿もゴミのひとつである。
 しかしそれは自然に土に帰り、土壌を豊かに育てて植生を促す。
 そして植物は大量の二酸化炭素を消費してくれる一方、人間に必要な酸素も供給してくれる。
 また雨水とともに海に流れ出た土壌の栄養分はプランクトンを生み、海産物の繁殖につながるという実に見事な自然のリサイクルが成立している。

 しかし人類の場合はどうだろう。
 古来人類にとって、汚物は忌避すべきもの以外の何物でもないという扱われ方をしてきたところがほとんどであった。
 特に文明が進歩して、人間が都市という形態で密集的に居住するようになると、そこから排出される汚物は莫大なものとなったが、これを資源として活用としたところはほとんどなかった。
 文明の地として先進的なイメージのある中世の欧米でさえ、その汚物はほとんど垂れ流しであり、花の都ともてはやされた「パリ」でも汚物はバケツにまとめて路上に放り捨てるというのが常であった。
 ハイヒールが高いのは、この路上に遺棄された他人の汚物を踏まないためであり、ペストやコレラなどの伝染病が蔓延したのも市街地に汚物処理システムが構築されていなかったためだ。

 しかし日本だけは違った。
 特に江戸時代になって戦乱の世が終わり平和になると、江戸に大量の人間が集中して居住するようになったが、先人たちはここから出る汚物を農産物を育てる資源として活用することとし、これをビジネス化した。
 つまり、江戸の街から出る大量の汚物を買い取って農家に肥料として売却する業者が現れたのだ。
 当然、食物残さ等大量の生ごみも出るようになったが、これも肥料としてビジネス化された。
 そしてそのシステムは日本中の地方都市にまで波及した。
 江戸末期になって日本を訪れた外国人が
   日本の街は衛生的だ
   全く臭くない
と一様に評したのは、このためだった。
 諸外国では
   都市は臭いところ
というのが当たり前の時代だった頃、すでに日本では衛生的な
   循環型社会
が完成していたのである。
   ただ日本人は、先の大戦後あまりにも資本主義万能の時代に浸されて、それ以前にも世界的にみて先進的な文明があったことを忘れてしまった。
    自虐史観によって戦後の価値観でしか思考しなくなり、歴史から学ぶということをなおざりにしてきた。

 確かにその頃は現代と違って大量に二酸化炭素を排出する時代ではないかもしれないが、当時の人たちにとっては極めて先進的なものであった。
 そのDNAを引き継ぐ日本人であれば、新しい時代の循環型社会を構築する知恵を持っているはずだ。
    そのためには、まずは自虐的歴史観を払拭しなければならないだろう。

 最近よくニュースで
   熊が出た
   イノシシが出た
   鹿が走り回っている
   猿が出た
と言った類の記事でメディアが大騒ぎし
   安全安心が脅かされている
という風潮を煽っている。
 しかし彼らに欠けている視点がある。
 それは
   地球は人間だけのものではない
ということだ。
 彼ら動物は、本来人間の住む区域には出てこなかった。
 なぜなら、霊長類の長としてこの世に存在する人間の知恵とその怖さを知っているからだ。
 だから彼らは、彼らの生存区域で生活してきた。
 これまでも宅地開発やゴルフ場、レジャー施設開発などで自然破壊は進んできたが、最近になってもっと悪化してきた。 
 やれ環境に配慮した自然エネルギーの確保とかいう名目で山林を切り荒らして太陽光パネルを作ったり、やれ世界自然遺産登録とか言ってはしゃぎ、本来人が入ってこなかった自然にまで立ち入って観光地化したりして動物の生息区域をさらに脅かしてきたりしてきた。
 もう限界だったのだろう。
 だから「彼ら」も、身の危険を感じつつも人間の「生息」する地域に出て来ざるをえなくなったのだろう。
 
 古来から日本人には神道に基づくところの
   八百万の神々信仰
というものがあった。
 これは、自然界のあらゆる物に神性を感じ、それぞれを神として祀り、その神である自然とともに生きていくという独自の宗教観だ。
 ところが最近は高度に発達した資本主義社会が、この日本人特有の感性を少しずつ失わせていき、欧米的に
   自然は人間が克服するもの
と考えるようになって、自然に対する敬意が失われてきたように思われる。
 自然界の八百万の神々とともに生きていくという精神構造が少しずつ崩れてきた。
 だから動物界に遠慮なく切り込んでしまった。
 そのなれの果てが、野生動物が街に出るという問題である。
 そしてそれを単に「駆除」という短絡的な発想で解決しようとする。
 その問題で苦しんでいる方々には申し訳ないが、責任は我々にあって「彼ら」にはない。
 
 しかし日本人であれば、意識しなくても必ずそのDNAのなかに自然に対する敬意というものをまだ持っていると思う。
 その証拠に日本には、人間に恵みをもたらす自然界のあらゆる物を神として祀り参拝する神社があまたある。
 対象は山であったり、海であったり、川であったり、動物であったり、植物であったり、自然界に存在するあらゆる物がその対象となっている。
 御神木と言って大木に神性を感じてしめ縄を施しているものは多くの神社に見られる。
 勤労感謝の日も、戦前までは
   新嘗祭(にいなめさい)
ていう収穫を祝うもので、現在も皇室で最も重要な行事である。
 国技の相撲で力士が行う四股は大地の厄を払う動作であったし、地鎮祭なども神に土地を使わせていただく許しを請う神事だ。
 これらは、未だに日本人が自然に対する尊崇の念を抱いているからだろう。
 そのDNAさえあれば、必ずゴミの問題にも活路を見出すであろう。
 そしてそれを新たなビジネスチャンスとしていくだろう。
 太陽光パネルについても、リサイクル方法が確立されつつあるらしいが、それも取り組んでいるのは我がモノづくりジャパンだ。
 自然界のように、また江戸時代のように、完全にゴミがリサイクルされる時代を切り開くのは日本人しかいないと思う。

 また人類から知恵を除けば、おそらく地球上で最も弱い哺乳類になるであることも忘れてはならない。
 なにせ今や紫外線から肌を守る体毛さえなく、他の動物を捕食する鋭利な牙さえなくなってしまった。
 ある意味退化と言えるかもしれない。
 知恵がなくなれば人類はすぐに絶滅危惧種となるだろう。
 最近また「猿の惑星」という映画がリメイク公開された。
 そのなかでは、知恵をなくした人間が猿の狩りの対象として描かれているらしい。 
 やはり自然は恐れ敬うものであり、決して克服できるものではない。
 その自然界とともに生きるという知恵を授けた八百万の神信仰はすぐれた先人の知恵と言えるだろう。
 その知恵を駆使して、ゴミの問題にも光明を見出してほしい。



 

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