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尊敬○ 崇拝△ いいとこ取り◎

今回は、前々回の尊敬に対する話の続きとして、その尊敬の念をただそのままにしておくのでは勿体ない、その先に進むことが望ましい、という話を話そうと思います。

なおまだ尊敬する人に関する記事を読んでいない方がいらっしゃれば、ぜひ下のリンクから飛び立ち、読んでいただければより話の繋がりがわかりやすいはずです。


さて、前回述べた通り私には尊敬している人が数多く存在している。
その具体的でわかりやすい例として岡本太郎氏、糸井重里氏、星野源氏の名前を挙げたのであって、有名無名はここでは関係は全くない。
さらに言ってしまえば私は、尊敬という概念はその人物のことが好きか嫌いかどうかなどは全く関係のない概念と捉えるべきだ、と考えている。

これは、自分自身が面白いなと考えるような活動・行動・信念などをその人が行なっていたり、持っていたりする場合、その時に抱く感情・考えを広く私は尊敬と呼称すると考えているからだ。

つまり、たとえその人のことが苦手であると感じていたとしても、自分がいいな、これは楽しそうだな、と思えるようなものをその人が持っていた場合、その時点でその人のことを尊敬していると言えるし、そう言うべきなのだ。

そもそも、他人の性格・行動・信念などをすべて肯定することなど不可能なことであって、

「私はあの人の全てを尊敬している!あの人に欠点や不足などない!」

なんて考えになった時点でそれは尊敬ではなく、崇拝となってしまっているように感じる。
個人の自由なので崇拝をするな、とは全くいうつもりはないけれど、私個人の意見としては、人生の主導権は自分自身が持っている必要があると思う。
崇拝は我々の信念を他者に委ねてしまうことに繋がりかねない。あやつり人形になる訳には行かないのだ。

つまりここでまず言いたいことは、他人の全てを認める必要は無いし、全てを否定する必要もないということだ。これはどちらの場合においても、自分自身の可能性を潰しかねない極端な判断と言わざるを得ない。世の中白か黒ではないのだ。むしろ全てがグレーでいい、くらいに捉えなければならない。

しかしながら、尊敬しているだけでも不完全であると思われる。なぜなら凄いなあ、と思っているだけでは、何も自分の中に新しいものは生まれないためだ。
尊敬という感情が芽生えた以上、我々はそのエネルギーを燃料として行動する必要がある。
その尊敬を取り入れて行動しなければ、そのエネルギーはどこかに消えていってしまい、自分自身の新たな広がりの可能性の芽を摘んでしまうこととなる。

そう、いいとこ取りをするべきだ。
いいとこ取りと聞くと自分の“都合のいい”ところだけを取っていく、というような言ってしまえばネガティブなニュアンスを感じ取る人もいるだろう。
でも逆に考えて欲しい。自分の都合のいいところだけを取っていくことの何が悪いのだろうか。それはつきつめていくと、より良い自分となるための行為であって、決して独善的な行為などではないはずだ。
これは“都合のいい”という言葉がネガティブな意味で使われすぎている世の中の責任だ。よろしくない。

尊敬の先にいいとこ取りという考えを設け、個人間でいいとこ取りをし合うような関係性を築いていく。これこそが人間関係の正しいあり方ではないか。他人の悪口や噂話などで結束した関係なんて、必要は無い。少なくともそこに尊敬もいいとこ取りも、ないでしょう?


今週も読んでいただきありがとうございました。
なんだか私のnoteは説教臭い記事が多くて嫌になりますね、ほんとに。自分で書いてて思いました。
これからはちょくちょく日常で起こった些細な出来事でも書きたいなあ、と考えてます。色々書いているのに素性が知れないとよく言われますから。

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