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読書感想文: こころの眼(著アンリ・カルティエ=ブレッソン)

こころの眼 写真をめぐるエセー(著:アンリ・カルティエ=ブレッソン、訳:堀内花子、岩波書店、2007)


フランスの写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-2004)のエッセイ集である。この感想文では紹介しきれていないが、他の著名人たちとの交流や苦難の道を辿った旅についてのエッセイも非常に読み応えがあった。

まず、『こころの眼』というエッセイから引用してみる。

写真を撮るとは、過ぎ去ろうとする現実を目の前に、持ち得る能力のすべてを結集し息を殺すこと。そのときこそ、イメージを捉えることが肉体と知性の大きな喜びとなる。
写真を撮るとは、頭と眼とこころが一本のおなじ照準線上で狙いをつけることだ。

こころの眼 一九七六年

この文章からカルティエ=ブレッソンが“瞬間”を大事にしていることがわかる。当然と言えば当然かもしれない。写真は“瞬間”と切っても切り離せないものなのだから。

フォト・ルポルタージュとは何か。(中略)被写体を構成する要素ひとつひとつが放つ輝きは、ちりぢりに拡散する。それらを無理矢理かきあつめる権利を私たちは持たない。場面を演出するのはごまかしだ。フォト・ルポルタージュの効用はそこにある。フォト・ルポルタージュであれば、何枚もの写真を一枚のページ上に構成し、散らばった要素を補って見せることができる。

決定的瞬間 一九五二年


「撮影」と一言で言っても映画やテレビではしばしば演出(ナレーションやインタビュー、実況などの取材も入れていいと思う)や編集といったものが入る。
しかし、写真はごまかしがきかないものであり、場面の”一瞬“を捉えるものである。

一人一人の眼を始点に永遠に向かってひろがりつづける空間、それは、私たちに何らかの印象を与えると、ただちに記憶となって閉ざされ、変容する。その一瞬を、あらゆる表現方法のなかで写真だけが固定できる。私たちの相手は消滅する。そして、消滅したものをよみがえらせることはできない。むろんそこに写されたものに手を入れることもない。何かできるとすれば、それは写真を厳選し、ルポルタージュとして見せることなのだ。

決定的瞬間 一九五二年

今となっては古い考え方と言われるかもしれない。写真は今の時代、固定されたものではなくなったからだ。加工も簡単だ。
だがカルティエ=ブレッソンの言う基本は決して変わらない。
変容する記憶、すなわち、消滅していく“瞬間”。その“一瞬”を固定できるのはやはり写真だけしかない。

それが被写体ではないと、断定できるものがあるだろうか。被写体はそうなるべくして現れる。そしてごく私的な世界もふくめ、この世のあらゆる出来事に被写体は存在する。だからこそ私たちは何が起きているのかを明敏に見きわめるとともに、自分自身が感じたまま素直にのぞめばいい。肝心なのは、自分の感じとったものに対し、自分をどう位置づけるかなのだ。

決定的瞬間 一九五二年

私が今回この本を読んで最も感銘を受けた言葉である。ここに書いてあることは、写真のことだけではないと思う。すべての創作に当てはまることではないか。
そして非常に勇気づけられる。
直感に素直に従えと。
肝心なのは「自分の感じとったものに対し、自分をどう位置づけるか」である。位置づけによって、表現のあり方が変わってくる。手法、技術、時間、心持、信念、等……。そして感じとったものには最大限の敬意を払うこと。それが重要なのだ。

根拠のない構図はない。そこには必然性があり、内容とフォルムを切り離すことはできない。また写真には、ほかの造形美術とはべつの造形性、すなわち瞬間的に生まれる直線の働きがある。私たちは刻々と変化する動きのなかで撮影する。それはある種、命の予感のようなもの。その動きと同調しながら、表情豊かな均衡の一瞬を捉えるのが写真だ。

決定的瞬間 一九五二年


当たり前かもしれないがカルティエ=ブレッソンは“瞬間”、“一瞬”を大事にしている、と先に書いたが、なぜここまで大事にしているかと言うと、「命の予感のようなもの」だからである。

そして、このエッセイの題もまた、『決定的“瞬間”』であった。

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