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アデイonline再掲シリーズ第十三弾 「欧米」への回答 「パッドマン 5億人の女性を救った男」(”Padman”、2018年、インド)(と日本に関する+α)

全く主体性の無いきっかけから、今後の人生はインド絡みで行こうと思っているわたくしは、インド映画を意識的に観ている。本作『パッドマン』は、2018年の12月だったか、映画館で観て、翌年1月辺りに下記(【本文】以下)の文章を書いた。インド行ってきたばっかり、しかも今の彼氏と出会ったばっかりの頃じゃないか。

浮かれやがってッ!その後の辛苦を知りもしないッ!

昨日観なおしてみて、改めて本作の面白さに感じ入った。ものすごく速く変化する世界から少し距離を置いた田舎では、住民の認知にガードがかかって、新しいものや異物に対して強い心理的反発を生んでしまう(ラクシュミに味方する人達ですら、ラクシュミの行動や思想を支持しているわけではない)。

そのような抵抗に遭うと、新しいものを「言葉」及び「正義」の意味合いで広めてゆきたいと頑張っている人には、歯がゆく腹立たしい。やがて彼らの無知蒙昧を憎みさえするかもしれない。私だったら憎むだろう。映画観てて腹立ったもん。でも、本作は、そうではない人の視点も描いている。

恐らく、最後の最後になっても、「女性の権利向上」という欧米世界的な脈絡を村人たちは理解していない。彼らは「祝祭」としてラクシュミの帰還を祝い、ついでにパッドも使ってみようか?くらいの気持ちでしかない。極めてパーソナルかつ、オカルティズムに近い感覚で新しいものを受け入れていると見える。もちろん「お金」がもらえることだって大事だ。

そして、外に女が出て働くことや、女児が学ぶことに理解を示すかって言ったら…またそれは別の闘いが待ち受けている。どうしてえ!!!?この社会が男が年寄が悪いんだ!と私達は考える。まあだいたいそうなんだろうけども。

当のラクシュミにしても、妻のためという気持ち以外はほとんど何も考えていない。自意識というものがほとんど描かれていない人だ。周囲をトラブルに巻き込みながら、辛うじて奇跡を起こした人物だと見える。スティーブジョブズみたいなものでは?

今、何か差別や不公平に苦しんでいる人や、それに対して言葉で戦っている人にとってげんなりするような意見だけど…下記の会議録を読むと、「言葉」を尽くしたところで決して納得には至らない何かを感じてしまう。

ゴールはほぼ同じなのに手段や道順の違いによってまったくの物別れになってしまうのが、LGBT応仁の乱以後の世界だ。エルジービーティー周辺のことを「祝祭だよ!祝福だよ!」と言って、ある種の「ごまかし」やあいまいさを残しながら周囲に認めさせていくのだって、私はありだと思うし、実際そういう時期がある(あった)。

でも、やっぱり婚姻とか、国の制度圏に入って行くときに、どうしたって「言葉」で合意に至らなければならない場面がやってくる。上記リンクの中で、日本国内でのパートナーシップ制について「たったの1000組ですよ?」と述べた参考人さんの言葉は、「1000組もいるんだなあ」と受け取る人もいる(私とか)。あの制度は、確かに中途半端で、そもそも生活基盤の安定した二人にとっての飾りのようなものだし、私たちのカップルを全く何一つ救いもしないのだが、でも「そこにそれがある」ということが大事だと私は思う。それは、同性婚に関して「いいじゃないの~幸せになってね~」とゆるーく言えもしない、というところまで議論が進んできたとも言える。

またしても解釈の問題でしかない!

でも理詰めでやっても、何か…「話が進んだね!」という感じがしないのはなぜだろう。参考人であれだけのテキストを述べることができるなんて、只者ではないし偉い。そして、決して議員さんのやっていることに100%反発したのでもないでしょう。二人の言葉が過熱すればするほど、周りもしらけて来るのは、しらける私の方が悪いんだけどさ。上記聴聞会のあと、議員さんと参考人の間でモメているらしくて、やっぱりしらけるよ。

別の議論になるけれど、本当ーに同性婚を実現するには、この参考人さんの意見の通り、憲法改正という手段しかないのでは?と私は思います。言葉で国民が納得するかどうかを決めるしかない。他の国だってそうやって厳しい議論を潜り抜けている。皆が大好きな台湾だってそうでしょう。

「憲法を改正するなんて!」と反発する人々の様子は、『パッドマン』劇中、「言葉」による議論や説得を全く聞き入れず、「タブーを犯すなんて!」と糾弾し、ラクシュミを追い出す村人の様子にも似ている。同性婚という同じゴールに向かっているのに、そのタブーを超えられない我ら日本の同性婚運動。これを打破するにはどうしたらいいのか?

何かお祭りか禊か儀式を必要としている。言葉による認知をぶっ飛ばして、「いいじゃないの~」と皆が誤魔化される何かが。となると…日本の場合はもうあのお力にすがるしかないんじゃないかな。皆が大好きなもっとでっかいタブー。神様に最も近く、生きながら人権が与えられない日本人と言えば…。

言葉で納得してくれない人達のことを「彼らが悪い」と言ってみたって、世界は変わってくれないのよ…私だってさ、日本の入管制度や採用雇用制度等々について言いたいことあるよ。もっと言えば、同性婚が合法になったって、私たちは現行法の日本では一緒にいられない(私たちを救ってくれなくても、私は同性婚支持派です!)

そして、言葉で正論を言われても聞き入れたくなくなる瞬間を何度も体感しました。トランプに投票した人達の気持ちも何となく分かりましたし、「弱者切り捨て」の政権を「あんたが弱者でしょうよ」という人達が支持する思考回路、ネオナチに行く若者の気分もなーんとなくわかっちゃった。上手くやれない自分に絶望すると、現実の社会を100%肯定せざるを得ないんですよ。明日生きなきゃいけませんでしょう。社会変革なんてね、西側諸国の一定以上の階層の人達のぜいたく品ですよ。

そういう意味で「あっち側」に行くのなんて簡単ですよ皆さん。

というわけで、インドの田舎の「ある側面」を描き出した作品が、図らずも現代日本の最先端の議論を彷彿とさせてしまったという『パッドマン』について、2年前の文章です。まあ気力があったらどうぞ!!※今とほとんど同じことを考えてます。

【本文】
10か月ほど恋い焦がれた憧れの地、インドのハイデラバードに1月に行ってまいりました。向こうでやりたかったことを全部実現できて、1年の幸運を全て1月初旬に使い果たした気がしました。私をそこまで動かした2018年は…まあ色々あってインドしかないと思っちゃったんだけどさ、インド映画大豊作(インド映画に限らず大半の日本公開作が素晴らしかったけれども)と言ってもいい年で、その前の年末から2018年末まで実に1年間に亘り上映された「バーフバリ 王の凱旋」に始まり、「マガディーラ」「ガンジスに還る」「ムトゥ 踊るマハラジャ・リマスター版」を経て最後は「パッドマン」で締めくくられました。隠れインドものとしては「ボヘミアン・ラプソディー」も外せないでしょう。また、1月公開の「バジュランギおじさんと、小さな迷子」も期待作。今回の映画は、格安の生理用ナプキン製造に成功しちゃったインドのおじさんのお話です。


インド北部の田舎に住む男、ラクシュミは、愛する妻ガヤトリが生理の期間、家の外で寝泊まりしなければならないことにふと疑問を抱く。更に、たまたま行った診療所で「生理の期間中、不潔な布を使って病気になる女性がたくさん来る」という医者の話を聞いて青ざめる。妻が死んだらどうしよう!強迫観念に近い思いで、近所の薬局で高価な生理用ナプキンを買ってくるが、伝統や信仰を重んじる妻は、「そんな高いものは使えない、いつものあの布でいいの。そもそもそんな話はしたくないのよ」と嫌がる。「じゃあ、自分で作っちゃえばいいんだ…」と何かひらめいちゃったラクシュミは、生理用ナプキン製作に没頭するのだった。


私はひねくれ者なので、敢えて「声を上げられない女性たちを救った英雄」の物語としてはお話しないことにします。また、パヨク的にも「原題には入っていない副題は果たして適切なのか?」という問いが非常に重要だと思っています。


この映画ね、「伝統VS欧米」の対立として観ちゃうと、妻ガヤトリの反応が忌々しく思えてくるの。何故そこまで夫の気持ちを無視するんだよって。あなたのためなのに。「生理の話なんかしたくない、恥ずかしい」「あなたが変なことするから私は恥ずかしくて死にたい」と言って夫を責めたり泣いたりする。でもね、夫の行動もかなり奇矯で、これが事実だったとしたらすっごい変人だと思うよ(演じるアクシャイ・クマールが上手い)。だから妻の視点にも共感できるようになってる。ひやひやさせられるの。そして遂に、あんまり変なことするから、村の会議が行われて(あの偉いっぽい人達が被る提灯崩したみたいな変なターバン面白いわね)、ラクシュミは村人から責められた上、妻の兄貴(こいつが曲者)からは、妻と離縁させられそうになる。そうなった時、ラクシュミは「じゃあ自分が村を出ていく」ときっぱり言っちゃう。行き先なんか無いんだけどさ。「恥」が機能する上、恐らくそれと連動している男尊女卑的な発想が強固な社会なのがよく分かる。まあ、日本とおんなじね。


ラクシュミは、紆余曲折を経て、ものすごく安い値段で生理用ナプキンを作ることに成功し、インド全国の発明大会で表彰された上、国連にまで呼ばれる。インドの発明大会では、出ました、インドの宝、アミターブ・バッチャンが本人役で出て来て演説をする。そこに、繁栄するインド、変わろうとするインドへの希望が溢れていた。


ラクシュミの国連での演説も面白いの。ブロークンイングリッシュで、欧米人たちの前で滔々と持論を述べる。「お金を沢山持っていても、もっともっと欲しくなるだけ。私はお金はいらない。皆が笑顔になったらいい」となかなかくすぐり上手なところを見せるのだが、このシーンね、インド側から「欧米」を見てるシーンなのだと思うの。こういう映画を欧米で作ると、国連みたいな表舞台で表彰されてよかったね、なんだろうけれど、本作は違う。彼の本当のゴールはそこじゃないんだよっていうのがいい。


他方で、彼を支援する都会の大学教授おじさん(ターバンしてるシーク教徒イケじじぃ。かわいい)の存在も今のインドを象徴している。シングルファーザーで、美しく優秀な娘を育て上げた人。しかも2人とも外国で教育を受けて英語を話すので、インドのエリート層の一類型である「欧米化したインド人」なのね。男だけど料理上手いっていう描写で。おまけにヒンドゥー教徒じゃない、というのも重要なのかもしれない。おじさんも娘も、今風の「起業」支援をしつつ、人道的なことよりも若干お金儲けに興味がある。ラクシュミがパッドマンとなってナプキンを売るに当たり、彼の娘が大活躍し、村の女性たちを販売員にしてビジネスを広げていく。まさにバングラデシュのグラミン銀行で成功したと言われるマイクロクレジットのやり方。だから国連からも興味持たれるわね。でも、その中にあってラクシュミは自分を見失わないと描いている。そこが泣けるとも言えるし、彼の変人ぶりを表現しているとも言える。


でね、本作観た後に「生理用ナプキンは特段インドの女性を救ってはいない」と主張するインド人女性による研究記事を目にしたのよ。果たして彼は、インド社会(あの村だけでも)の人々の価値観を変えたんだろうか?私は「違うと思う」と言っておきましょう。映画もそこははっきり描かなかった気がする。インドは、10億人が、個別ルール縛りで放置プレイしてるような社会よ。ラストのシーンは、「この人すっごいわ」「徳が高いわ」ということに対するインド人の興奮と熱狂が描かれてるんじゃないかなあ…と解釈してみると、ハリウッド映画だったら、こういう話を「途上国の人が先進国(というかアメリカ)の思考に沿って大成功したついでに愛を取り戻した」と描くんだろうという気がしてくる。「LION」なんか、Google様という新しい神に祈れと迫るグローバリズムのプロパガンダ映画だったしね(でも主演男優のデヴ・パテルさんLOVE。ニコキも出るよ)。


本作は、「パッドマン」と呼ばれた人物が辿った不思議な運命の物語、くらいに観ておくのがいいんだろうと思う。そして、インド映画には、そういう風に解釈ができる余地があるんじゃあるまいか。と同時に、大学教授おじさんと娘が象徴する「欧米化してるつもりのインド」という側面も、「恥」に隠れる妻ガヤトリの姿も、ラクシュミを非難するモラハラ男なガヤトリの兄貴も、どれもインドの現実であって、等価なんだと思う。その中で何か新しい扉を開くのは、「変人」なのだ

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