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指導者を目指した訳 〜私を作り上げたもの〜

みなさん、こんにちは。

サッカー、フットサル指導者を仕事としていますが、
「初心を忘れない」「今だからかけること」と思いまして、書かせていただきます。
前回、僕がプロサッカー、フットサルコーチになるまでの物語(大学生編)を書きました。そちらを読んでいただけると今回の内容がわかりやすいと思います。

GKコーチの存在

 私の人生で指導者を目指したきっかけは、GKコーチの存在です。高校時代サッカー部には監督、コーチがいましたけど、GKコーチはいませんでした。当時は強豪でもGKコーチがいないのは珍しくはありませんでした。
 誰かに憧れて指導者を目指しました!とか、誰々みたいになりたくて!じゃないんです。「いないなら俺がGKコーチになろう!」が始まりでしたね笑

そんな高校時代の話をします

 GKで2つ上の先輩がいました。先輩はとても上手で本当に憧れていました。当時はそんなことを言わず、「先輩を差し置いて試合に出てやる」って生意気に思ってました笑 憧れだったんだなって思います。先輩からのご指導でメキメキ上達していきました。練習を考案、修正もしてくれる。正直マニアックでしたね笑 今考えると指導にマニアックなのは先輩からの影響が出ているかもしれません。

先輩が卒業して最高のコーチがいなくまりました

 そこからが私の指導者原点の始まりかもしれません。本やYouTube、社会人チームでプレーするGKに教えてもらったりしました。練習メニュー、プレーの何が良い、悪い、ウィーク、ストロングを考えてトライ&エラーを繰り返しました。そんな高校サッカー人生も終わり、高校3年生の時に日本サッカー協会公認の指導者ライセンスがあることを知ります。受講しようと調べ出しますが、年齢制限で受講できませんでした。大学になった受講する!と決めました。

指導者の基盤は大学時代のスポ少と大学フットサル

スポーツ少年団(スポ少)

スポ少には3年間在籍しました。
1年目:6年生アシスタントコーチ
2年目:6年生以外の全学年を総監督と一緒に指導
3年目:5.6年生メインコーチとアシスタントコーチ

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 スポ少では、サッカー指導者として基礎となる部分を構築したと思います。子どもたちへの接し方、声の掛け方、言葉の選び方、毎日コツコツと学んでいきました。保護者との関わり方もすごく大切で挨拶は欠かしませんし、時には学校やお家での様子を聞いたりもしました。意外と学校の先生や親の言うことは聞かないのに、コーチの話は聞くなんて子も多いです。


 「育成の大切さ」

 それを感じたのもスポ少での経験です。指導者を始めたての頃は勝つことが重要だと思ってました。優秀な指導者は勝たせることができると。。。そんな考えで子どもたちの未来を奪ってしまった、そう感じています。これは一生背負っていくものです。育成年代を学んでいくにつれて結果ではなくプロセスが大切で、今の子どもたちではなく未来の子どもたちを意識して指導していくことに気づきます。その頃には遅かった。

 子どもたち、保護者はどうしても「勝ちたい」と思う。毎回練習に送り迎えして、試合を観に来る保護者を観ていると伝わって来ます。コーチ陣からも何かと無言のプレッシャーを感じる。そんな中でやって来ましたからね、試合の時はお腹がめちゃめちゃ痛かったですよ。痛すぎて保護者の車で休ませてもらったこともあります。寝れないこともありましたよ。夜中まで考えて考えて。まぁ今だとプレーモデルが定かではなかったんです。サッカーを知らなかった。答えがないのに答えを見つけさせようとしていたんです。ろくなヒントも無しに。
 メインコーチから離れてみると感じることが多かった。それからは私と子どもたちのコミュニケーションツールは「サッカーノート」でした。暗号(文章)を解読しながらコメントを書きました。大抵の小学生の文字は読めるようになりました。後から知ったのですが、サッカーノートのコメントが「嬉しかった」「ありがとう」「コーチがコーチでよかった」と。立派なコーチじゃなくても子どもから見たらカッコイイ立派なコーチに見える。(育成年代の)指導者は教育者だと思います。だからより良い指導を。過去は変えられないですが、未来は変えられることができる。育成の指導者は大切です。サッカーが全てではありませんが、子どもが接する数少ない社会、大人ということ。影響は計り知れない特に最初に出会う指導者は。


大学フットサル

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 大学は違う難しさがあった。年齢と意識の違い。この2つが難しかった。年齢が近いから締めるところを締めないとなめられてしまうし、練習ができなくなる。秩序がなくなってしまう。プロになりたいと思っているものから、部活ができれば良いというものがいたり様々だった。よく選手に言われた、「なぜあいつが出るんだ」「なんで俺が出れないんですか」と。私は毅然とした態度で選考した理由、外れた理由を説明しました。泣く奴もいました。ヘソを曲げる奴もいました。しっかりフォローもしました。

 私の見解なのですが、大学はどちらかといえば「強化」勝つことが求められる。一定のレベルまで達している選手ばかり。

私は「育成」「強化」バランスをとって指導しました。

決まった選手だけ出るのではなく、対戦相手や目的、コンディションにあった選手を選んで試合にだしていました。これは選手だけでなくチームとして大切なことでした。4名のGKがいて会場に来るのは3名、ベンチに入れるのは2名、試合に出れるのは1名。それがチームでの常識でした。コーチになってから、3か4名会場に来て、3名入れる時はベンチに入れて、試合に出るのは2名(前後半か様子を見て)にしました。その場の空気を感じることが大切です。サテライトチームにも反映させました(2名体制)。選手の成長が格段と早くなり、ライバル意識がかなり出ました。そして選手のコンディションが良くなりました。しっかり取り組んでいれば、誰にでもチャンスがあると。レギュラーと呼ばれている選手もかなり意識していましたね。どの選手でも自信を持って試合に出せる。そんな状況が4年生の時はできました。

どこか子どもたちと重なったのかもしれないです。


親からの猛反対

 大学生も指導者も楽しくやっていたのですが、大学も学年が上がると就職のことを考えて行きます。全く実家に帰らないタイプの人間だったので、大学1年の終わりか2年生のはじめぐらいの時に久しぶりに帰ったんですよ。

その時に「将来どうしていきたいの?」

実家帰ったら聞かれるテンプレートのように聞かれて

「指導者としてやっていきたい」

って答えたんです。両親は猛反対!そんなに反対するか?ってぐらい反対されました。そりゃそうです、大学に教員になるって言って入学したんですから。そこから実家にはほとんど帰らず、帰ってもサッカーの話はしませんでした。

 大学3年生の時ですかね、やっと私の話を少しずつ聞いてくれるようになりましたが、賛成はしてもらえませんでした。大学3年生の終わりにJ所属クラブでスクールコーチができる話が入ってきました。両親はサッカーには興味がなく、「好きにしなさい」と言われていたのを思い出します。スクールでコーチを始めて少したったあたりで、両親の反応が変わってきました。両親の知人で私がスポ少時代に対戦したことがあるチームの保護者の方がいたらしいんです。そこで繋がったらしく、私がやってきたことを理解してくれたみたいです。急でしたが、このまま認められずに指導者をしていく覚悟はできていましたから、変な感じしかしませんでした。ドラマで似たようなことありますよね。人生わからないなと思ってます。

今では一番応援してくれています。

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現在

 2020年2月からプロコーチとして活動していますが、新型コロナ感染症で3月からは在宅勤務になり、唯一楽しみだった卒業式もなくなりました。最高の船出です。初っ端から社会の荒波にのまれています。1ヶ月プロとして活動しましたが、変化が多かった。同じクラブの指導者の目つきが変わった。これからはライバルとして見られるからなと言われました。立場環境が変わるとここまで違うものかと。洗礼を受けながらも頑張っていきます。やると決めたのだから頑張ります。


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武田琳太郎

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