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『琳琅』創刊号より、「かんう」

小羽千尋の視点2

 トッキーは一眼レフカメラのモニターを確認するときだけ、かっこよくなる。撮影中は周囲の通行人や被写体であるわたしにこれでもかと気を配るくせに、撮った写真を確認するときだけは画面に全神経を集中してしまうので、わたしが所定の位置を離れて一緒にモニターを覗き込んでいることにも気づかない。無防備な彼の、うん、と小さく呟く声を聞くのが好きだ。

「次の場所、行こうか」

 大ガード下をぬけて薄暮の青梅街道を歩く。冬の初めに贈ったモスグリーンのモッズコートを羽織っている彼は、写真家として活動する駆け出しのアーティストでもあった。普段は不動産物件をリノベーションして取り扱う企業で働いており、そこでも写真を撮る担当を任されていて、仕事でもプライベートでも、趣味のカメラに没頭できる環境にあるらしい。今日も既に都内の何ヶ所かで仕事を終えた帰りだということで、久しぶりにわたしを被写体にしたいという連絡を受けて合流したのだ。

 三ヶ所目となった撮影場所は青梅街道を見下ろせる歩道橋の中腹だった。欄干に背中を預けて、少し俯くようにという彼の指示に従って位置に着くと、早速一回、二回とシャッターをきる音が聞こえた。彼がカメラに視線を落として無防備になるタイミングを見計らい、横からモニターを覗き込む。画面に表示された画像は、夕暮れと夜との間、数分にだけ現れる青みがかった通りの風景と、規則正しく並ぶ自動車のブレーキランプによる赤い輝きが美しいコントラストとなってお互いを引き立たせている、幻想的なものだった。素直に綺麗だと思ったのだが、トッキーの小さな満足の呟きはいつまで経っても聞こえてこない。理由はなんとなくだが、素人のわたしでも理解できた。光量の問題だろうか、顔が逆光の影響で若干暗くなってしまっているのだ。

「もう一度、立って」

 その後もトッキーは何度もシャッターをきり続けたが、納得のいく写真はとうとう撮れずに終わってしまった。ピカソブルーのような風景に紺色が混ざり始め、気付いたときには黒一色に沈む。控えめだった自動車のライトやビルディングの明かりが主張を強めてきて、自分勝手な光が散りばめられた、ギラギラと輝く都会の夜になってしまった。

 初めて被写体になってほしいと頼まれたときも新宿だったことを思い出す。まだ大勢の人の前に出ることのできないわたしのために、撮影はいつも終電の終わった深夜に行われた。発作のフラッシュバックで毎夜二時間も眠ることのできないわたしを気遣って声をかけてくれたのだと思う。撮影のあとにはコンビニでお酒と肴を買い込み、一人暮らしをしている彼の家で酔っぱらって寝落ちするまで、ずっとわたしの泣き言を聞いていてくれた。父の凶行から救ってくれたあの日以来、わたしはずっと彼に助けられてばかりいる。

 事件の日、救急車が来るまでずっと声をかけ続けてくれたトッキーは、わたしが担送車に乗って家から運び出された後も、胸部の手術をしている間も、ずっと傍についていてくれたらしい。痛みとショックで意識が混濁していて救急車に乗ってからのことは何も覚えていないのだけれど、彼曰く、手を放そうとすると泣き叫んで手が付けられなかったんだよ、ということらしい。意識がハッキリしはじめた頃には、わたしは病室のベッドの上で、隣にはやっぱりトッキーがいて、わたしの手を握ってくれていた。その時からもう、彼の存在はわたしの心の大部分を占めてしまっている。

 これは次の機会かな、と画面を見つめたままトッキーが呟いた。あれくらいの逆光なら、撮った写真をコンピューターにとりこんで、たいして時間もかからずに補正することができる。そうしないのは、撮影時の心持ちや空気感を大切にしたい彼の、写真におけるこだわりだった。最後に一枚だけ、とトッキーがカメラを構え直す。わたしもポージングをし直してシャッター音に備えた時、通り過ぎていく通行人の中から巨大な影が飛び出してきて、わたしのすぐ隣に立った。大きく心臓が跳ねて悲鳴を上げそうになったが、どこかで嗅いだことのある匂いに上背のある男を仰ぎ見ると、見慣れた二重顎が水風船のように小刻みに震えていた。わたしのお店にもちょくちょく顔を出す、井塚さんの二十顎だった。

「井塚さん。おひさしぶりです」

「ひさしぶり、鴇田。小羽は一昨日ぶりだね」

 嗅いだことがあると思ったのは井塚さんのスーツに染み付いている煙草の匂いだった。銘柄はたしかポールモールといって、次元大介が吸っているのと同じヤツだと言っていただろうか、愛煙家であるかれは一昨日も吉祥寺駅前の喫煙所で、電車を待っている間に三本を灰にしていた。次元のようなスマートさとはかけ離れた体形をしている井塚さんだが、父の死を知ってトイレに駆け込んだわたしを三十分近くも待っていてくれて、最寄り駅まで送ってくれたときの対応は、いかにも紳士だったというほかない。先日はすみませんでした、と軽く頭を下げると、かれは持ち前の二十顎を震わせて、気にしなくていいよ、と優しく笑いかけてくれた。

「作品の撮影?」

「はい。次の展示に向けて撮りためておこうと思って」

 井塚さんとはトッキーとの共通の友人という関係だった。元々はわたしの勤めるスポーツ用品店に通う常連さんである。まだ秋口のある日、トッキーとお店の前で待ち合わせをして向かってみると、なぜか彼と楽しそうに話し込む井塚さんの姿があった。二人は趣味を通じて知り合った飲み仲間らしく、変なところで人間関係が繋がったな、と、世間の狭さを実感したのである。

 世間話を始める二人を通行人がそっと避けて通り過ぎていく。ここは歩道橋の真ん中だ。二人ならまだしも三人になるとやはり狭く感じる。通行人の一人と目が合った。仕事で疲れているのか、その眼差しには疲労と苛立ちの二色が浮かんで見える。その人が通り過ぎる頃には、わたしの胸の中に奇妙な疎外感が宿り始めていた。トッキーも井塚さんもすぐ近くにいるのに、二人の会話を聞くわたしだけが他人のような感覚。共通の会話じゃないため割り込むことは出来ないが、それがどうしてか酷く心を騒つかせた。それとなくトッキーに近づいて彼のコートのポケットに手を入れる。指先になにか四角いものが触れたが、その正体を確かめる前にトッキーがわたしの手を引っ張り出し、腕を組むようにして握ってくれた。

「ここじゃあ邪魔になるからさ、どこかお店、入りましょうよ」

 なにかを察してくれたらしい井塚さんが、それじゃあ、移動しようか、実はもう、予約してあるんだよね、と言って手に持ったスマートフォンを振る。トッキー曰く、撮影のあと、久しぶりに皆で飲もうと思って井塚さんを呼んだんだ、ということらしかった。話の続きは二人がよく通っているというお店ですることになり、井塚さんを先頭に移動を開始する。歩道橋の階段を降りながら、先頭を歩いて道を切り開いてくれる井塚さんと隣で支えてくれているトッキーへ密かに頭を下げた。

続きはまた、近いうちに。

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