夏休み、実家に帰るメカニズム|絵本で読む戦後日本型循環モデル
のりもの絵本の巨匠・山本忠敬(1916-2003)の代表作『しゅっぱつしんこう!』(福音館書店、1982)は、おかあさんとみよちゃんの二人が電車に乗って田舎のおじいさんの家に遊びに行く道中を描いたお話です(図1)。
図1 しゅっぱつしんこう!
まだ国鉄の時代、仙台駅から特急はつかりに乗って、盛岡駅から山田線急行に乗り換え、さらに茂市駅から岩泉線普通に乗って、おじいさんが待つ浅内駅に至るルートをモデルに描かれているそう。田舎の無人駅で出迎えるのは、おじいさんといとこの兄妹。
鉄分不足なわたしは、みよちゃんたちが乗る電車や道中の駅よりも、都会から田舎に至るグラデーションや、その間を水平移動する物語の背後にある登場人物たちのライフコースが気になります。時代は東北新幹線開通(1982)前。岩手の寒村にいるおじいさんは、みよちゃんの母親の実家と推測されます。
みよちゃん一家はおかあさんと、作中には登場しないおとうさんの3人家族(=核家族)でのアパート暮らしなのでしょう。おかあさんは高校卒業後に仙台市へ出て、就職先で今の配偶者と出会ったのでしょうか。一家はいずれ庭付き郊外一戸建て住宅の取得を目指しているのかな。実家のおじいさんは二人の孫を連れだっていますが、これは母親の兄の子たちなのでしょう。兄は家業を継いだのか農協勤務なのか。
そう。『しゅっぱつしんこう!』の物語は、戦後日本において一般化した「地方から進学や就職を通じて大都市に出てゆくという地理的な移動の軌跡」(本田由紀『社会を結びなおす』2014)があってこそ成立する「核家族の実家帰省」を描いているのです。
実家帰省と住宅双六
よく似た設定の絵本に画家・岡本雄司(1971-)の『でんしゃにのったよ』(福音館書店、2009)があります(図2)。主人公の男の子がおかあさんと一緒にいとこのしんちゃんに会いに行くお話。ただ、この絵本で描かれる水平移動は『しゅっぱつしんこう!』とは全く逆に、田舎から都会へ向かいます。
図2 でんしゃにのったよ
ここで描かれる移動は、大井川鐵道大井川本線(千頭-金谷間)金谷駅からJR在来線へ乗り換え、そして静岡駅から新幹線(300系)に乗り東京駅へ。東京で待ついとこのしんちゃんは母方のいとこなのでしょう。しんちゃんより大きいので姉(あるいは兄)の子かな。主人公の叔母は大学進学とともに東京へ出たのでしょうか。1980年代と2000年代、それぞれの田舎-都会間距離は随分と伸びていることに気づきます。
この絵本は「実家帰省」が描かれているわけではありませんが、『しゅっぱつしんこう!』を成立させたのと同じ構図があってこそ物語ることが可能な旅。
というか、そもそも作者の岡本雄司は確実に山本忠敬の『しゅっぱつしんこう!』を意識したというか、作品へのオマージュとして、この『でんしゃにのったよ』を描いているはずです。
ふたつの絵本の背後には、地方から進学・就職を通じて大都市に出て行く移動の軌跡が透けて見えます。それは戦後日本を特徴づけるライフコース。よい教育を受け、よい就職をなし、よい家庭を築く。さらに自分の子にはよい教育を施し、よい就職を・・・という欲望のスパイラル。
そのスパイラルに寄り添ったのが白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫からカラーテレビ・クーラー・自動車の獲得ゲームだし、そのゲームを展開するための基地として機能したマイホームがある。そう思うと、このふたつの絵本には描かれていないけれども、その物語を支えるさらなる「物語」に、あの「現代住宅双六」があることに気づきます。
1973年に発表された「現代住宅双六」(上田篤・久谷政樹、朝日新聞、1973.1.3)。よく知られたように、母親のおなかの中をふりだしに、〈庭つき郊外一戸建住宅〉を人生のあがりに位置づける「標準的住遍歴」を描いたものです(図3)。
田舎から都会へ出てきた青年は、下宿生活、単身アパート、社宅、公団アパートなどを経て、いずれは郊外にマイホームを獲得する。それが戦後日本の立身出世のステレオタイプだったわけで。
図3 現代住宅双六
戦後日本型循環モデル
例えば東京五輪の1964年に公開された和製ミュージカル映画『君も出世ができる』(須川栄三監督、東映、1964)は、まさに田舎から上京し、観光会社で出世を夢見る主人公・山川(フランキー堺)たちの物語でした(図4)。
都会での出世競争に荒む心を支えるのは田舎への望郷の思い。出世を果たした山川は、きっと近未来に〈庭つき郊外一戸建住宅〉を手にすることでしょう。
図4 君も出世ができる
仕事で失敗し、出世への道が断たれたと早合点した山川が飲んだくれて大合唱する印象的なシーンがあります。その歌詞は戦後日本を生きるサラリーマンの欲望を戯画的に描いていて興味深いもの。
投げやりになって山川が歌う「欲しくない~、欲しくない~」の対象は、出世、金、車、家、女房、子供。やけっぱちになって口にする「欲しくない」対象は、裏を返せば「持つべきもの」として規範化された「家族」像。まさに戦後日本の典型的な欲望だし、持ち家主義を象徴する「現代住宅双六」に必須のアイテムなのです。
この戦後日本の持ち家主義を象徴する〈住宅双六〉は、もはや破綻し、住まいの過剰(=空き家問題)と欠如(=ハウジングプア)がいまの日本を覆っています。どこか『しゅっぱつしんこう!』のお話しがノスタルジックに感じられるのは、そのせいなのでしょう。
この〈住宅双六〉の成立と破綻を理解するために有効な見取り図が、冒頭にもほんのすこし触れましたが、仕事・家族・教育の各領域を連携させながら発展してきた「戦後日本型循環モデル」(図5)です(本田由紀『社会を結びなおす』2014)。
本田は「仕事・家族・教育という三つの異なる社会領域の間が、①きわめて太く堅牢で、②一方的な矢印によって、結合されていた」と指摘します。
図5 戦後日本型循環モデル
サラリーマンのお父さんがお給料を家に持ち帰り、そのお給料で主婦のお母さんは家計のやりくりをしつつ教育ママとなり、子どもはいい高校、いい大学に進学していい会社に就職すべく学校に通う。そしてその子がやがて親になりサラリーマンとして働きつつ、お給料を家に持ち帰って・・・。
このモデルの特徴は、
①3つの領域をつなぐ矢印は〈ヒト〉〈カネ〉〈ヨク〉がよじり合わさるような形で成立している。
②3つの領域は「だんだんよくなっていく明日」として、螺旋状なキリの頂点に向けて上る三次元構造。
③三次元の上昇移動は、大都会へと向かう、二次元的・水平的な地域間移動と重なり合っている。
④性別・年齢に応じた役割分担が明確。サラリーマンと主婦、子どもという「標準家族」。
⑤3つの領域それぞれが、対外的には厚い殻をもち、対内的には強い凝集性と同調圧力をもつ。
⑥モデルそのものを原因とするような社会問題を生み出していった(矢印の自己目的化)。
などが挙げられるといいます。
この循環は1990年代に「仕事」の領域から綻び始めました。その綻びは当然に「家族」、そして「教育」、さらに「仕事」へと波及していきます。空き家問題にせよ、ハウジングプアにせよ、このモデルから読み解くことが可能でしょう。
戦後日本の特殊な状況下に成立した、仕事・家族・教育の強固な関連性が〈住宅双六〉を成立させ、そして、仕事・家族・教育の関連性の破綻が〈住宅双六〉をも崩壊させたわけです。
マイホームと「通俗道徳」
ところで「戦後日本型循環モデル」の成立を積極的に受容した日本国民のメンタリティって、一体どんなものだったのでしょうか。その問いを解く鍵が、幕藩体制崩壊・明治新政府成立によって全面化した「通俗道徳=努力は必ず報われる」(安丸良夫『出口なお』朝日新聞社、1977)に求められます。この「通俗道徳」を軸に日本社会の構図を描いたのが「分断社会の原風景」(松沢裕作・井手英策、2016)。
松沢らは、安定した身分制が崩壊した明治維新後、「家」が置かれる位置もまた不安定化したと指摘します。「家」が没落しないためには、勤勉、倹約、謙譲、孝行といった規範を内面化し、それに従うことが求められていったのです。
ということは、「家」が没落したら、それは通俗道徳の実践が不十分であったと見なされることになります(自己責任論の祖型!)。この「通俗道徳」は「家」を準拠点に個人を縛り、そして戦時には「家=国家」となることで皇国勤労観を生み出していったのでした。
なるほどなるほど。そのお話しを戦後へと延長させていったのが〈住宅双六〉なんじゃ中廊下。田舎から都市へ出てきた人々は、通俗道徳に従ってマイホーム獲得に励んだ。「庭付き郊外一戸建て住宅」に住まい、それを維持するためお父さんはモーレツ社員になり、お母さんは教育ママになる。そして、子はガリ勉に勤しみ、将来のモーレツ社員・教育ママとなる。そう、「君も出世ができる」。
人々は通俗道徳に背中を押され持ち家取得へ旺盛な意欲を持つ。企業はその意欲を活用しながら通俗道徳の達成を企業成長の原動力としました。そして政府はもっぱら産業政策でもって支援し、住宅政策は等閑視されていく。この歪みがそのまま、現代社会の住まいの過剰と欠如へとつながっているといっても過言ではないでしょう。
実家帰省絵本の現在
『でんしゃにのったよ』と同じ岡本雄司は、『しゅっぱつしんこう!』と同じように、主人公が実家帰省する絵本『くるまにのって』(福音館書店、2014)を描いています(図6)。ただし、移動手段は電車ではなく、自動車です。
図6 くるまにのって
お父さんの運転する自動車(トヨタのランドクルーザープラド)に乗って、主人公のしょうちゃんとお母さんの家族3人、おばあちゃんの家に向かいます。車はしょうちゃんたちが住む分譲住宅地を出発し、市街地を経て、山道を抜けて港町に。港からフェリーに乗って離島のおばあちゃんのおうちへ。そこまでの道程を柔らかなタッチの版画でもって、鳥瞰図のみで描き切る物語です。
さて、実家で待つおばあちゃんは、きっとお父さんの母親なのでしょう。どうも大きな古い民家に一人暮らしの模様。おじいちゃんはすでに他界したのでしょうか。
物語冒頭にチラ見えする主人公しょうちゃんの家は、延べ床30坪半ばの木造2階建て住宅。デザインサイディング貼りで屋根はスレート葺きです。たぶんしょうちゃんの父母は30年前後の返済期間を要する住宅ローンを組んで、この分譲住宅地に「庭付き郊外一戸建て住宅」を取得したのでしょう。そして、離島の実家は近い将来「空き家」になることが宿命づけられています。
『しゅっぱつしんこう!』(1982)から『でんしゃにのったよ』(2009)、そして『くるまにのって』(2014)という3つの絵本に共通するのは都会・田舎間の水平移動。どちらかというと、電車や自動車といった移動体に目が行ってしまいがちですが、その移動を成り立たせる「戦後日本型循環モデル」を思うと、また違った味わいがありました。
そして、時代を経るに従って「戦後日本型循環モデル」が破綻していく足音を、3つの絵本はそれぞれに描き出しているようにも見えます。電車が出発する駅、フェリーが到着する港はそれぞれにくたびれ、寂れています。
ただ、この「破綻」は、いままで自明のものとしてみなされてきた家族のありかたを見直す機会にもなります。
「戦後日本型循環モデル」は、あまりにうまく組み合わさり、回りすぎたため、次第にモデルの各矢印が自己目的化していき、そして、〈仕事〉〈家族〉〈教育〉の領域ごとの存在理由が空洞化していったといいます。つまりは、何のために学ぶのか、何のために働くのか、何のために人を愛して一緒に暮らすのかといったことの意義を喪失させていった。
それは言い方をかえると生きることの意義が外発的動機に置き換えられていったことを意味します。結果として、なにかを実現するための一手段であったはずの「家族」は、「家族」を成立・維持するためのあれやこれやにかわってしまう。その功罪をいまようやく客観的に捉えられるようになってきた。それが令和の時代。
さてさて、私自身、名古屋と神奈川に従兄弟たちがいたので、子どもに実家帰省を描く絵本を読み聞かせていると、田舎の駅で待ったあの時間、あるいは都会に出かけたあの風景がジンワリと思い出されます。もちろん、当時は戦後日本を特徴づけるライフコースの有り様など想像もしなかったわけですが。
そしていま自分自身が田舎を遠く離れ、妻子とともにアパートに住み、お盆と正月に『くるまにのって』を演じています。
時代の波は自分の生活にも押し寄せます。「庭付き郊外一戸建て住宅」はどうやら持てそうにありませんし、実家の木造2階建て住宅も空き家になる時が刻一刻と迫っています。さて、娘はどんな実家帰省の物語を演じることになるのでしょうか。そして自分はどんな「家族」を生きていくのでしょうか。
(おわり)
参考文献
1)本田由紀『社会を結びなおす:教育・仕事・家族の連携へ』岩波書店、2014
2)井手英策・松沢裕作編『分断社会・日本:なぜ私たちは引き裂かれるのか』岩波書店、2016
3)砂原庸介『新築がお好きですか?:日本における住宅と政治』ミネルヴァ書房、2018
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