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芥川賞受賞作「コンビニ人間」を読んで普通の人について考える。

大学や専門学校を卒業して、正社員で就職し、
20代で結婚して30歳までに子どもを生む。
これが普通の人の人生である。

誰がこんなことを普通だなんて決めたんでしょう?正解はうちの母です。

高校を卒業したら専門学校に入ってたくさん資格を取って早く就職した方が良いよ。大学なんて言っても遊び癖がつくだけなんだから。
もちろん私は専門学校を出てすぐに就職しました。それが常識かつ最善だと思っていたからです。

そして、25歳のときに今の旦那と1年ほど付き合った末に結婚しました。結婚に至った理由は、旦那が仕事の都合で遠くに引っ越してしまうからでした。それを耳にしたとき、私の頭の中には

別れる or 結婚する

その二択しかありませんでした。正直、私にはこのときまで結婚願望などこれっぽちもなく、「他人と一緒に住むなんてまっぴらごめんだ。男の人にスッピンも見られたくないし」と周りに言って回っていました。それにも関わらず、結婚せずに一緒に付いていくという選択肢はありませんでした。別れたくないのなら結婚するしかなかったのです。
それは何故かというと昔、母がこう言っていたのを覚えていたからです。

〇〇ちゃんは、東京から帰ってきたよ。
付き合ってた彼氏と別れたみたい。結婚もしていないのに、着いて行ってもねぇ、、、(憐)

子どもの頃の親の影響力たるや恐ろしいです。まぁ、結婚に関しては、このときに決めておいて本当に良かったなぁと思います。
上京してからの私は、東京の楽しさに酔いしれ遊び惚けていたので、もし籍を入れていなければ、今頃他の人と一緒にいたかもしれません。明け方までお酒を飲んで道端に座り込んで眠っていたような女と今だに付き合ってくれてる旦那、ちょっと信じられません。(もう一生あんなことしません。ごめんなさい。)

それはともかく、きっと私の中の普通や常識は私の両親が言っていたことそのままなんでしょう。でも、その普通を凄く窮屈に感じることがあります。普通なんて、人それぞれ、ひとりひとり違うんだから、その違いを面白おかしく感じながら受け入れていければ良いなぁと思います。

ところで、私がこんなことを考え始めたのは、この本を読んだからです。
※ネタバレアリ要注意※

数ページ読んだところで、「ああ。この子は失感情症だ。」と思いました。私となんとなく似ているような気がしました。

コンビニ店員をしている主人公は、決められた仕事はしっかりできるし、場の空気も読めるけど、どうも感情が分からない様子です。
自分が今、「嬉しい」とか「悲しい」とか、なにを感じているのか分からないのに、周りの他人がどんな思いでいるのかなんて想像することができる訳がありません。鳥が死んでいようが悲しいなんて思わない。人が痛い思いをしていても、恥ずかしい思いをしていても、自分にはそんな感情がないから理解できないんだと思います。

自分はまわりの人たちとは違って、なにかがおかしいらしいと感じている主人公は、小さいころから現在まで周りの「普通」と思われる人たちの真似をすることで周りから浮かないようにしています。

「35歳 コンビニアルバイト店員 どうみても処女」に成長した主人公は親からも周りからも異物扱いされていて、良き相談相手の妹からまでも、実はお姉ちゃんに早く普通になって欲しいと願われていたことに気がつきます。

誰一人自分の普通を受け入れてくれないなんて、きっともの凄く苦しい世界です。いつも何かの皮をかぶって生活していて、すこしでも本性が出てくると周りから白い目で見られる。

それでも、コンビニの一部として働いているときの主人公は本当に生き生きとしています。

終盤に主人公が、外からコンビニを眺めるシーンがありましたが、この文章はなにを意味しているんでしょう。

私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

村田沙耶香『コンビニ人間』文春文庫 161Pより引用

主人公にとっては妹の子供も他人の子供も、野良猫のようなもので、「赤ん坊」という種類の同じ動物にしか見えないという描写がありましたが、終盤のこの一節を読んだとき、主人公はそんな野良猫のような存在になりたくてたまらなかったのかなと私は感じました。

周りの「普通」という種類の同じ人間になりたくて、なりたくて、もがき苦しんでいたのかもしれません。

私も昔から「変わっている」と言われて育ってきました。人と違うことを誇りに思おうとしていた時期もあったけど、やっぱり周りの子たちと一緒になりたかった。私が発言すると、なんだか今までの楽しい雰囲気を壊してしまうようで、話すのが恐ろしくなった。自分にボールが回ってきたときの、注目を浴びている感覚には、今だに耐えられないものを感じてドキドキしてしまいます。誰にも気が付いてもらえないのは悲しいけれど、透明人間になりたかった。

でも、「普通」の人間になれたところでどうするんだろう。周りと見分けもつかないような同じものになることに何の意味があるんでしょうね。ずっと周りの人間に合わせて、横並びになって、目立たないように、一生気を遣いながら生きていくなんて、想像しただけで息苦しい。


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それにしても、焼き鳥が好きなお父さんと、唐揚げが好きな妹のために死んだ鳥を拾ってきて「これ、焼いて食べよう」「もっととってきたほうがいいかな?」なんて、ある意味家族想いだなと笑ってしまいました。原始時代とかだったら周りの人たちに大喜びされてたかも。

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