記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『THE BATMAN』の長めの感想、あるいは暗闇の中に子供

『THE BATMAN』(2022)を観ました!

面白かったし、感想が書きたくなる映画だったので書きます。バリバリネタバレしますので、未見の人が読む場合はネタバレ覚悟でよろしくお願いします。

見出し画像はワーナー公式Youtube Chの冒頭10分映像からスクショしました。

それにしても上の予告編のサムネ、目の周りを黒く塗って陰鬱な顔のロバート・パティンソンが、バットマンなのかジョーカーなのかリドラーなのか迷っちゃう感じでいいですね。


闇と赤がとてつもなく美しい映像

本作の魅力として第一に挙げるべきは、なんといってもビジュアル面でしょう。

スタイリッシュ! かっこいい! ダークでノワール! 百点満点!

ロゴや各種ポスターからもわかるように、本作のイメージカラーは赤と黒です。黒はバットマンの伝統カラーです。また、漫画的表現として黒を暗い青で表現することもありました。しかし本作は青ではなく、血や危険を思わせる赤が非常に印象的に使われています。そして病んでいるバットマンによく似合う。

本作のバットマンは活動二年目らしいのですが、その中身であるブルース・ウェインは青白い肌で細身、社交上手のプレイボーイどころか会社の会計士とも会いたがらない引きこもりで、両親が殺されて世界を恨み精神が限界ギリギリの少年めいた人物です。

リドラーは「黒くて青くて死んでいるものってなーんだ? お前だ」と言いましたが、死んでいないからこそ苦しみ病んでおり、その心は血が滴っていることでしょう。

ビジュアル系の歌詞のような文章を日記に書いているブルース・ウェインには、毒々しく痛々しい黒と赤がピッタリです。

二年の夜が、俺を夜行性動物に変えた。

俺は影に隠れてはいない。俺こそが影だ。

俺は"復讐"だ。

さて、物語の雰囲気も暗ければ、画面も闇が多くて物理的に暗い本作。
しかし、洋画にありがちな「画面が暗すぎて何をやってるかわからない、逆に閃光の走るシーンは眩しすぎて目が痛い」という状態になっていません!
この点が『THE BATMAN』はマジでいい!

本作の闇の使い方の上手さは、冒頭のリドラーの犯行から、バットマンの駅での暴漢退治の時点でわかりやすいです。公式で冒頭10分が公開されているので見てみましょう。

開始から2分50秒あたり、市長の背後に潜んでいたリドラーに一瞬光が当たりますが、すぐに闇に沈みます。眼鏡に反射する光が少し見えますが、コートかけか何かのようにも見える。いるのか、いないのか――観客が焦れだすその時、やはりそこにいるという恐ろしい登場の仕方をします。

そしてバットマンの方も、強盗と落書きとリンチ、どの犯罪者のもとに現れるだろうと不安にさせ、そして駅の暗がりから思い足音だけが響き、闇と恐怖をまとってのっそりと現れます。

しかし戦闘が始まると、後ろに少し明るい空間を置く構図にすることでシルエットが見やすく、格好いいアクションがわかるようになっています。また土砂降りの雨は陰鬱さの表現だけでなく、濡れたバットスーツに光を反射させることで姿を見えやすくする効果も発揮しているようです。

映像について詳しくない私でもこれくらいはスルスル思い浮かぶので、たぶんオープニングだけで、もっとたくさんの映像テクニックが詰め込まれているのでしょう。

本作の闇の上手な使い方と、暗いのだけれど必要な場面ではちゃんと見える親切さ、それを実現するセンスと技術は本当に素晴らしいです。リドラーも「ほーーーーーーーーんとうに素晴らしい」って言うことでしょう。映画はもちろん、ゲームでもドラマでも色んな作品が参考にしてほしい、マジで。

まあ見え方というのは個人差もあれば見る環境によっても違います。宇多丸のラジオでは、映画館の中でも劇場によって当たり外れがあると言われています。

しかし環境がある程度十分なら、フィルム自体はとても上手に映像処理されていると思います。私は家庭用のPCディスプレイで、輝度や部屋の照明を適当に調整して見た結果、このように大満足です。

キャラだけでなくゴッサムシティの写し方も凄いです。

現実っぽさがありながら、クリストファー・ノーラン監督の現在のアメリカの都市ほぼそのままの実在的ゴッサムシティとはまた別。レトロな猥雑さと毒々しさ、キッチュさと腐敗、それが狭い場所に詰め込まれているおもちゃ箱のような窮屈さとロマン。

これまでゴッサムシティの実写化として称賛されてきたのは何と言ってもティム・バートン監督版でしょうが、本作は、バートン版の青黒いゴッサムシティと並び称されるくらい……というか私は本作の方が好きと言い切れるくらい見事に、独自の赤黒いゴッサムシティを出現させています。

アクションやガジェットも、重みとスピード感、渋さとスタイリッシュさを両立させた造形&見せ方になっていて、地に足の着いた格好良さがあります。

そして音楽も映像に似合った、ダークで辛そうなBGMが多い。ニルヴァーナの『Something in the Way』が挿入歌として使われてよく似合っていますし、ブルース・ウェインのメインテーマもニルヴァーナに似せている気がします。

更に、監督・脚本のマット・リーヴスのインタビュー記事で、脚本段階から本作のブルース・ウェインはカート・コバーンを意識していたと語られていますが、それが絶妙にマッチしています。

音楽だけでなく効果音もよくて、これは特にガジェットを使う時に感じます。バットモービルの荒々しく重いエンジン音とか、あまり車に興味がない私でもテンション爆上がりですよ。


ストーリーや映像での明瞭な対比

本作の物語は、対比や繰り返しを非常に重視していると思います。円環構造というか鏡写しというか。それがわかりやすく、また、美しい。

後段でも語りますが、『THE BATMAN』は、バットマンとリドラーがどちらも子供時代の傷に苦しみ続け闇に沈んでいる犯罪者であり、似た者同士として描いています。

ヒーローとヴィランが同類ではないかという問題提起はこれまでも多く行われていましたが、本作では、リドラーの外見を大胆に変え、暗い色のミリタリーっぽいマスクをかぶった異常者にすることで、バットマンと同様に暗いところ潜ませることができ、映像面でも両者の対比をわかりやすく描いています。

さきほどオープニングの闇の美しさについて述べましたが、リドラーの双眼鏡の覗き方が中盤でのバットマンの覗き方と似ていること、いつの間にか背後に立ってる登場の仕方がバットマンの得意技なことなど、二人の類似性を暗示する描写も含まれています。

また、序盤でバットマンの危険性を印象付けた日記のモノローグと『Something in the Way』はラストでも流れるのですが、そちらでは成長と希望の表現となっています。

TVアニメなどについて「オタクはタイトル回収が大好き」とか「最終話でOP流れるの最高」みたいなツイートをよく見ますが、『THE BATMAN』は、そういうグルっと回ってキチッと収まる構図を、明瞭に、ハイクオリティな映像でやってくれます。(たぶん、私の読解力では理解できていない、慎ましくさりげない対比も色々仕込まれているとは思います)

このわかりやすい対比やリフレインは、オタク心をくすぐるというだけでなく、基本的に同じだからこそ差異を際立たせる――すなわちバットマンとリドラーの違い、物語スタート時点と終了時点の違いを理解しやすくしてくれます。

『THE BATMAN』は新鮮なバットマン像を作り出し、見たことのないダークさで、衝撃作だなどと呼ばれる一方で、形にハマることへの愛着というか、様式美のようなものを大事にしてもいるようです。それは過去のバットマン関連作品へのラブや、それ以外もオマージュしてそうな色んな映画へのラブを感じられるということにも繋がっています。


キャラや展開に漂うゆるふわうっかり感

と、熱く褒めてきましたがここから不満点。百点満点からの不満点(リドラーも大喜びのオモシロ言葉遊び)。

それは、映像面がこれだけ格好良く洗練されているのに対して、キャラのうっかりミスや物語上の仕掛けの妙な簡単といった細部のゆるさが目立つ、ということです。

時間通りに爆発する爆弾を至近距離で食らうとか、親指ストラップがつけられたUSBをゴードンの仕事用のPCにいきなり刺してメールをばらまかれるとか、そういうゆるさ。

ストーリー全体が悪いわけじゃないんですよね。でも細部が、変に気になる。

まあ、キャラのうっかりミスについては、意図して未熟に描かれている面も大きいでしょう。

バットマンは活動二年目だし情緒不安定、リドラーは少年聖歌隊的なアヴェマリアを歌うし、どちらも子供時代を引きずっている存在です。だからミスとか自制の利かない場面が多いのは道理であり、子供時代のトラウマや復讐心を抱えた人間がどう生きるかというテーマとうまく噛み合っています。

とはいえ、さすがにしょーもないミスが多すぎるのではないか? 所々では、未熟さの表現というより話の都合のために詰めの甘い行動をさせていないか? というのが気になってしまいました。

映像がダークに洗練されていて格好良いからこそ、落差でズコーッてなってしまうんですよね。映像のガチさと、キャラのやストーリーのゆるふわさが釣り合ってないと言いましょうか。漫画で言えば絵柄とノリが合ってない。

ゆるふわの最たるものだと思ったのが、バットマンとゴードン警部がペンギンを推理ミスで問い詰めるシーンです。

間違った相手を疑うパートがあるのはミステリの定番ですが、その理由は暗号解読の時にスペイン語が怪しいのをスルーしたからってのはダサい。暗号解読をした時にアルフレッドが「リドラーのスペイン語は堪能じゃないようですが」みたいに言ってたのも予防線みたいでさらにダサい。そんで正解は「ユー、アー、エル……ユー、アー、エル……ユーアールエル!?」って、あやふやすぎるだろ!

ついでに言えば、アニカの死!→バットモービルの超格好いいカーチェイス!!→ペンギンという有名ヴィランを確保!!!→スペイン語が下手でした、というシーンの流れも肩透かし度を高めています。

ペンギンを放置してコンピュータでレトロなチャットをしていたり、縛られたまま置いていかれるペンギンがペンギンらしいチョコチョコ歩きになっていたり、シーン自体がギャグを意識してるのかもしれないんですが、映像や音楽はシリアスだし長尺なので、どこまで笑っていいのかわからず落ち着きません。

翼のあるネズミという言葉も、アルフレッドが暗号を解いた時点で、観客の内そこそこの人数が「それってコウモリのことでは?」と考えたと思います。

「リドラーは、バットマンも金持ち達の癒着構造の一員であり、同時に(バットマンの自覚がなくとも)情報の流出元となっている翼あるネズミだと言いたいのでは? あるいはバットマンの世直しは癒着構造を内部から破壊する、悪を裏切る正義のネズミと評価しつつ、しかしあくまでお前は金持ちの中で暮らしてるという揶揄も込めてるのでは?」みたいな。

しかしリドルの正解は、ユーアーエルと響きが似てるからURLというのと、ファルコンにも翼があるからファルコーネがネズミだよ、でした。ゆるい! 

翼のあるネズミ=コウモリというのはミスリードですらなく、ペンギンの軽口として触れられるだけです。本当にペンギン以外誰も思いつかなかったのか……?

リドラーはその後バットマンもターゲットにしたので、翼のあるネズミはコウモリも含んでいたと考えられなくはないんですが、あんまりそういう雰囲気でもない……。

追悼式での爆弾事件の時に出された謎々も、謎っていうよりちょっとした皮肉みたいだし、頭脳明晰のバットマンじゃなくてもまあまあ気づけそうです。かつ、言葉遊びとしてそれほど鮮やかでもないし、他の答え候補を潰して正解に辿り着く十分な手がかりが提示されているわけでもないので、超知能犯のリドラーにしてはリドルの完成度やセンスがショボいと思います。

アルフレッドが担当した(というか勝手に解いた)暗号表は観客にわかるのは漠然と難しい暗号なんだろうなというくらいで、印象に残りません。

ミステリ小説や脱出ゲームにも通じることなのですが、謎というのは、答えを見れば納得せざるをえないフェアさがあった方が美しくなります。でも本作のリドルは全体的に「それも答えの一つかもだけど、他にも答え候補はあるんじゃない? あ、それが正解で良いんだ……」みたいなのが多く、美しくないと思います。リドルが簡単なのはバットマンに正解に辿り着いてほしいからだとフォローするにしても、美しさに欠けるのは納得しかねます。

こまごましたところだと、キャットウーマンはコスチューム着る時にカーテン閉めなよとか、捜査現場を堂々と荒らしてるバットマンに対して警官が文句を言いつつ許しすぎだろとか、アルフレッドは怪しい手紙に無警戒すぎるだろとか、ラストバトルなのに近くにショットガンが落ちてる相手に正面から歩いて近づき撃たれてピンチになるなよとか、変な甘さが頻出します。

先ほど述べたように、本作はバットマンとリドラー(とキャットウーマンも?)が思春期のトラウマを引きずり未熟であることが核心の一つだと思いますし、それは興味深いです。

しかし、未熟さのあまりの多さとか、その三人以外の大人もしょーもない失敗や油断をしたりとか、リドラーの知能のようにそこだけは優れてるはずの分野でも微妙だったりとかのせいで、キャラクターというより脚本がいまいちなのではないか、という印象が、見てるうちにじわじわ強まっていきました。

これが痛快アクション映画とかコメディミステリなら、あまり気になりません。

でも、これもさっき言った通り、超スタイリッシュでノワールな映像でやられると、リアリティラインならぬシリアスラインが作品内でブレて感じられてしまいます。

言うなればハードボイルド小説の重厚文体でどたばたラノベ展開、ゴルゴ13の絵柄できらら漫画ノリです。ショートのギャグ作品ならそれも面白そうですけど、本作はそういうものではないでしょう。


ラストの倫理的回答は誰を救うか

「映像は洗練されているのに、内容に稚気がある」という難点は、倫理テーマ部分にも感じてしまいました。

改めて本作の倫理面でのテーマは、バットマンもリドラーも不幸な人生を送って世の中に復讐心を抱いた人間として同類であり、そういう人間はどう生きるべきか、ということだと思います。

ヒーローとヴィランが本質的に同じコスプレ変態犯罪者だという指摘はバットマンでも他のアメコミでも定番のようですが、本作は対比構造が明確であることや、ウェイン家の偽善性やブルースの精神の歪みの強調、『JOKER』の後に発表されたことなどで(私はまだ見てませんが)、立派なお題目では救われずに世の中へ復讐心・怨み・ルサンチマンを抱いた壊れた人間をどうするんだ、それはお前も含んでるぞ蝙蝠男という問いが、とりわけ鋭くブルースに付きつけられ、観客も注目したと思います。

そして私は、本作が出した結論に共感できませんでした。

本作の倫理的な答えは、バットマンが泥だらけで被災者を救急隊まで運びながら呟く日記モノローグでわかりやすく言語化されています。

しかし、これまでのバットマンを踏まえリドラーの存在がつきつける問いの困難さに比べると、このモノローグは普通というか、うーん、ベタなヒーローだな、と思ってしまいました。

俺は影響を与えた。意図しない影響を。
復讐では過去は変えられない。俺の過去も、誰の過去も。
人々には希望が必要だ。彼らを支える存在が。
この街は怒り、傷ついている。俺と同じだ。
心の傷は破滅に繋がる。たとえ体の傷が癒えたとしても。
だが、それを乗り越えれば、生まれ変われる。
より強い存在に。耐える力と、戦う強さを持つ者に。

過去のトラウマや怒りに支配されず成長することが大事、復讐ではなく人を助けることが大事、それもまずは目の前の人を助けて希望を見せよう。救われるのを待つ子供じゃなく、救う大人になろう。それこそが、自分自身を救うことだ――そりゃあそうだけど、それができない奴らがリドラーになるわけでしょう。

だいたい、傷を乗り越えれば強く生まれ変われるとか言うけれど、むしろ順番が逆で、強い奴・運のいい奴だけが己の傷を乗り越えられるんじゃないのか、とも思います。問いの困難さに比べて、出された答えは当人の強さに楽観的な期待と要求をする、素朴なヒーロー的感覚すぎるのではないでしょうか。

バットマンはなんだかんだでヒーローであり、そして本作は病んだ復讐者を名乗る子供だった彼が大人のヒーローになる映画なんだから、普通にヒーローとして着地して良いだろと言われたら、それはそうなのかもしれないですけれど。

やはりここも、映像の美しさやダークさ比べて、素直で王道すぎる成長とヒーロー観なことにがっかりしてしまったのかもしれません。

そう、映像については、終盤もしっかりしています。

火花散らす電線を切って自分ごと水面に落下、そして暗闇の中で赤い発煙筒を焚いて、泥水に漬かりながら人力で瓦礫をどけるバットマンのシーンは、本作がずっと強調してきた赤と黒を、「血まみれの心を抱え、暗闇に潜み恐怖を振りまく復讐者」から、「人々が不安に怯える暗闇の中に、鮮やかな赤い希望の灯をともすヒーロー」へ反転させます。

電線が垂れるのがなんとなく不自然とか、自分が捕まってる部分の下を切ればあんな落ち方しないでいいだろとかツッコミはできますが、それはオープニングの駅の戦闘では電気ショックで他者を攻撃したことと、自己を犠牲にしつつ他者を電気から守ることを対比するためだと思います。土砂降りの駅と洪水のホールで水も共通しています。

それから、瓦礫をどけた後、画面中央にいる市長を助けるかと思いきや、瓦礫の影にいた少年を先に助けてそれから市長を助けるシークエンスも象徴的です。

わかりやすくて目立って可哀想だけれど実はまだ恵まれている環境の人ばかり助ける偽善はやめて、見過ごされる真の弱き者を助けるという表現でしょう。

リドラーが「ブルースは親を殺されて同情されたが家柄も金もあって良い環境で育った、俺たちが育った孤児院の劣悪な環境は同情すらされない」みたいに語ったことへの回答を行っているわけです。

このようなメッセージを、闇と赤光の美しさを一貫させつつ、行動で象徴的に語るのは洒落ていると思います。

思うんだけど、うーん、やっぱ優等生すぎるんじゃないかなあ。

そしてこれだけ優等生な答えと象徴的な映像なのに、一番に少年を助けて二番目が市長だったりするあたりには、「言い訳になる程度の最低限の慈善はこなしたので、じゃあ偉くて重要な人を助けますねってこと?」みたいなイヤな勘繰りをしたくなります。

しかも、洪水シーンで成人男性を助ける所は描かれないんですよ。

瓦礫をどけて最初に助けた少年が少年時代のブルースやリドラーの象徴なのはわかるんですけど、今現在のブルースやリドラーに相当する、肉体的には加齢してしまったが精神や能力は弱いままのダメダメな大人を助けるところは描かれない。

それどころか、リドラーのフォロワーであるマスクをつけた一般犯罪者男性をバットシャブをキメてボコボコに殴りまくるところがアクション的見せ場となっており、彼が本作のラスボスでありバット暴力の最後の被害者です。

マスクを脱がされて「お前は誰なんだ」と問われ「俺は復讐だ」とバットマンと同じことを言ったあと――ここで彼はただのリドラーのフォロワーであり扇動されたモブではなく、本作でバットマンが戦わねばならないブルースやリドラーや大衆の心にある傷や復讐心を持つ存在であり、その意味でラストバトルはちゃんとバットマン対メインヴィランだったとわかる――、彼は放置されます。

そんなぁ~。

犯行に及んだリドラー群を助けるのは流石に嫌がる観客がいそうだからやらないとしても、瓦礫の中から、リドラー予備軍っぽい冴えない一般成人を救けるシーンを入れたっていいじゃん! ってか入れてくれよ!

しかし本作終盤のバットマン、即ち本作の倫理がそいつらを救うところは描かれません。リドラーのことも、リドラーになるかどうか瀬戸際の人のことも、三十代無職メンヘラの私のことも、バットマンは救ってくれない。

オープニングに駅でリンチされそうになっていた男性は救われたと言えるかもですが、あの時のバットマンは恐怖を広める復讐者ですから、救われたはずの人もビビりまくりで、それに対しバットマンは「安心しろ」の一言も言わずに怖がらせたままです。

というかオープニング時点でのバットマンは犯罪者を憎むと共に子供時代の自分の弱さを憎んでいるでしょうから、その自己嫌悪を弱弱しい被害者男性にも投影していて、彼のこともボコボコにしたいという欲求をギリギリで我慢していると思います。あの被害者はそれを感じ取って「やめてくれ」と怯えていたのでしょう。かわいそう。

そんで、バットマンに助けてもらえなかった孤独なリドラーは、刑務所でヤバそうな友達を作ってしまい、次回へ続くのであった。『THE BATMAN Part II』、2025年10月3日公開予定。

なんだか私自身が世の中にルサンチマンを持ってるから満足してないだけだろって言われそうで不安になってきました。それも否定はできないんですけど、このゆるさはどうなんだってのが映画を通して積み重なってきたから、ラスト近くを見ている時にこれだけつっこみが浮かんだのだと思います。

別の言い方をすれば、バットマンが復讐者をやめて成長を選べた(選んだ、ではなく選べた)理由を実感できなかったということでもあります。

市長の息子への同情? セリーナへの恋? アルフレッドへの感謝? それらが成長のための背中を押してくれる十分な理由だと感じられたって人もいるかもしれないですけど、私には足りなかった。これは理屈というより、感覚的な部分です。

物語や表現が持つ特殊な力の一つは、論文のような理詰めの説明や説得では伝えられない内容や、通じない読者相手でも届くようになることだ、と思います。これを言う時私はいつも兵庫ユカの短歌を思い出します。

成長した方がいいとか、努力した方がいいとか、運動した方がいいとか、そんなのはいくらでメリットを説明できるけれど、理詰めで言ってもやる気になれない人が大半だったりする。そういう人間にも、なぜか物語は感動を呼び起こし、「ちょっとがんばってみっかな」と思わせることができる。この点において『THE BATMAN』は、私に対して物語の魔力を発揮するに至らなかったってわけです。


「思ったよりも全然賢くないんだ」

『THE BATMAN』は、プロモやインタビューでは「ノワールミステリ作品」「世界最高の探偵という異名に相応しいバットマン」などと言われがちです。

しかし実際の作中では、バットマンは名探偵というより迷探偵として描かれています。捜査・推理面の成果はかなり周囲のおかげだし、かつ自分から目星をつけ調べた情報より、ラッキーや他人の好意で得た情報が多い。

暗号を解読するのは主にアルフレッド、社会との協力はアルフレッドとゴードン、キャットウーマンに教わるまで秘密クラブ-44を知らない、スペイン語もペンギンに笑われながら解説してもらい、カーペット剥がしの道具という知識はモブ警官由来。

それからカットされたシーンではありますが、囚人に助言をもらいに行く場面も公式がYoutubeにアップしています。あのシーンは、リドラーの動機もブルースの懊悩もほとんど言い当てられてしまい、あまりに展開がわかりやすくなってしまうので削除して正しかったですね。

DRIVEの暗号を解いたのはバットマンの思い付きですから全くダメダメではないですが、彼が一番得意なのは、推理する必要のない現行犯を復讐心のまま執拗に殴るという身体能力頼りの行動のようです。

その身体の使い方も、タイマーゼロまで時限爆弾の至近距離にいたせいで気絶して、警察にマスクをはがれそうになったらキレて暴れて、ゴードンの助言でゴードンを殴って逃げて、滑空したはいいけど着地で失敗するわけです。タフさは凄いし現代風のグライダースーツは格好いいけど、相当情けない。

と、ちょっとからかうように書きましたが、これらも、(流石に多いとはいえ基本的には)意図した未熟さであり、良い効果をもたらしてていると思います。

推理はいまいち頼りなく、肉体も頑強ではあるけど使い方がスマートではない。その迷探偵っぷりは初々しさでもあり、大人のセカイに対する少年のままならなさの比喩でもある。

尾崎豊の『15の夜』『卒業』になぞらえるなら、非合法バットモービルやバットサイクルで暗い夜の帳の中へ走り出そうが、夜の駅でガラスを割ろうが、ゴッサムシティの支配から本当に卒業することはできないブルース君の無力さなのでしょう。

刑務所でリドラーがバットマンに投げかけた台詞は、バットマンの未熟さを――そしてリドラーにとって不本意でしょうがリドラー自身の未熟さを――看破しているようです。最初はただ二人の子供じみた口喧嘩の中の罵倒に感じていましたが、思い返すほどに味わいが出てくるシーンですね。

がっかりだな、思ったよりも全然賢くないんだ。
なんだか過大評価してたみたいだね。

しかしこの台詞って、この映画自体にも当てはまる気がします。

重く暗く本格派に見えるけれど、展開は妙に甘さがある。

これまでに述べた場面以外だと、バットとキャットがキスするかしないかを繰り返しすぎではとか、ラストで二人が別れを言い合ってから並走するのがなんだか間抜けとか。

リドラーからの全体を見ろというヒントに従うブルースは、床に資料を全部並べるところは良いけど、スプレーで床に描くのは見栄え重視すぎて流石にギャグっぽい。しかも全体を見た時に「ハッ!? 再開発!?」と気づける理由が薄いせいで、リドラーのヒントの出し方が下手、もっと言えば脚本が下手なように見えます。

こういう部分は、グライダー着地失敗の効果的な未熟表現とは違って、映画としてよくない隙を作っていると感じられました。


暗闇の中に子供

これ以上言葉を飾るのもまどろっこしいのではっきり言ってしまいましょう。

『THE BATMAN』は映像の重厚さに反して、かなり子供っぽい映画だと思います。

私は世間から子供っぽいと説教される物を好む二次元オタクですから、子供っぽいという言葉を悪い意味で使うことに抵抗があるんですが、しかし本作は端々が妙に子供っぽいのではないか? そしてその欠点を指摘している人が少なくないか?

全体として優れた出来栄えの『THE BATMAN』に、そして子供向けと批判され続けてきたヒーロージャンル映画に、しかも時流的には子供っぽいと言われてきた漫画アニメゲームなどの評価が高まってる現代に、悪い意味での子供っぽさを指摘するのは躊躇われるかもしれません。

バットマン以外でも、アメコミヒーローと子供っぽさというのは、ナーバスになりがちな話題です。「元々コミックなんだから子供っぽさを気にするもんじゃない」という反論も、逆に「コミック由来だから子供っぽいはずというバイアスをかけて見てるんじゃないか」という反論もしやすい。

また、バットマンの実写映画の評価を高めたのがティム・バートン監督というのも、状況を複雑に――もしくは面白く――しているところです。ティム・バートンは独特の幼児性への愛着が強いクリエイターで、それは『バットマン』『バットマン・リターンズ』にも表れています。そして、ゴッサムシティの美しさの話題で少し触れましたが本作はバートン版もかなり意識しているように見えます。

いやもっと言えば、バートンだって当時はアメコミ映画を大人向けにしたと言われた存在であり、60年代にはもっと子供っぽいドラマ版バットマンが人気を博したと聞きます。その第1~2話の敵がリドラーで次がペンギンだし、マスクの縫い目が似ているし、『THE BATMAN』はドラマ版ももオマージュしているようだ、というレビューを幾つか読みました。ということは、キャラだけでなく全体の子供っぽさもドラマ版から意図的に取り入れたということも考えられます。

私の脳内反論者曰く、「アメコミ映画を安易に子供っぽいと評していいのか、見下しが入ってるんじゃないのか? しかもバットマンは、バートン版やドラマ版のように幼児性も魅力になる題材じゃないのか? 特にも本作は子供時代を抜けられないブルースとリドラーの話なんだからうまくハマってるだろ」。

そうかもしれん! そうかもしれんけど、私はこの映画は、いい意味の子供っぽさだけじゃなく、悪い意味の子供っぽさもあると思ったの! 本作の子供っぽさは全部計画通り……いや「ぜぇーーーーーーーんぶ計画通り!」なのか? 骨太にしきれずそうなってしまったってのも結構あるんじゃないのか?

とはいえ長所として解釈すれば、『THE BATMAN』は、ハードそうな雰囲気に反して、子供でも楽しみやすい映画だと言えそうです。

禍々しい赤い光が多用されているけど、流血はほとんどなし。裸もなし。リドルはわかりやすいし、大体すぐに答えを言ってもらえます。

ファルコーニとブルースの会話も、「なぜ親父さんはギャングの俺の命を助けたと思う?」「……医者の誓いだからだ」「(意味深に部下と目配せして)フハハハ!」って、父ウェインとファルコーニの繋がりを暗示させる会話としては相当に露骨で、後で明らかになる父ウェインも悪事をしていたという衝撃を薄めてしまっていますが、それでもわかりやすさを優先したようです。

上でも語った発煙筒を焚いて救助するシーンは、彼自身が復讐者から希望の光になるという反転を台詞なしの動きだけでお洒落に描いてるんですけど、そのあとモノローグでもわかりやすく言語化している。ブルースのエモな見た目もティーン受けしそうです(ホントに? マイケミカルロマンスとかのエモロックのブームや、ロバート・パティンソンが『トワイライト』に出演して十代女子にキャーキャー言われたのは10年以上前だぞ?)。

あとこれは日本特有ですが、吹替のキャストが櫻井孝宏、石田彰、ファイルーズあい、内山昂輝など吹替よりアニメでよく聞く人選なのも特徴的で、そっちジャンルの声優で固めることで特有の雰囲気が出ています。

三時間というのはネックでしょうが、それ以外は相当わかりやすく、若年層にとってキャッチーに作られているようです。

それに、コミックやアニメ関連で大人向けをアピールされる作品は暗い作品が多いし、逆に暗いオタク作品はとりあえず大人向けと言われがち、という風潮がある中、暗いけど子供受けを意識した作品も全然ありえるじゃろがいというのを身をもって示したような興味深さもあります。

考えてみれば、「子供っぽさ」というのは、明確ではないうえ、良い効果も悪い効果もある要素です。

童心、幼稚さ、素直さ、わかりやすさ、安易さ、子供向け、子供騙し、子供ウケetcetc、類義語も色々あります。

日本のTwitterで、コロコロ編集者の「大人の自分が格好いいと思っていることをわかりやすく作った作品が子供向け。大人の自分が格好いいと思ってないのに、子供はこれが好きなんだろと作った作品が子供騙し」って考え方が話題になったことがありました。


格好良い言葉ですが、絶対的な基準ではありません。わかりやすさが格好悪さや野暮さになる場合もあるし、子供向けならわかりやすくしようというのが嫌味な傲慢さとして滲む場合もある。私がすぐ上で書いた、「『THE BATMAN』のわかりやすさやゆるさは子供の楽しみやすさに繋がるだろう」ってのも、傲慢さかもしれません。子供っぽさは評価が難しい。

そして本作の子供っぽさは、色々な方向に存在しています。それぞれどう作用してるかというのは、月並みですが人によって大いに違いそうです。

私が歓迎しなかったリドルのしょぼさや予定調和っぽいアルフレッドの油断も、シンゴジラの着ぐるみ感や、シン仮面ライダーの襟足の髪の毛のようにオタク喜びポイントと感じる人もいるのかもしれない。

ただ少なくとも、『THE BATMAN』は子供っぽさが大いに含まれている映画ではあろう、と思います。

本作を評する時によく使われる言葉は、リアル、地に足がついている、ノワール、陰鬱、硬派、中二、痛々しい、重いなどですが、それらの暗闇の裏に子供っぽさがあるというのを意識して観るのもいいかもしれません。


結びに

というわけで色々言いましたが、『THE BATMAN』はマジでおもろい映画だと思います。

たぶんまた見たくなりますし、誰かにバットマン映画を勧めるなら『ダークナイト』か『THE BATMAN』です。

既に観た人も、ネタバレ上等でここまで読んだ人も、『THE BATMAN』を観て感想をネットにアップしてくれたら嬉しいです。現代人は、感想や考えをSNSのTLに流すだけじゃなくて、ストックできるところに書き留めてほしい!

最後に宣伝ですけど、モーニングで清水栄一×下口智裕(『鉄のラインバレル』や『ULTRAMAN』)がバットマンの漫画を連載中なのでよろしく。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?