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P5 幻想とうつろ

私が「死」というものを理解したのは12の時だ。

前の宵、おやすみの言葉をかけた相手が、翌日の朝、冷たい肉塊と化していたのだ。



その日の朝、不安と驚きが入り混じった姉の騒がしい声で私は目覚めた。

母の寝室に向かうと、側で眠っていた姉が必死に母を揺り起こそうとしていた。



それらが視野に入るが否や、私はいつもと”なにか”が違っているのが感じられた。

その部屋に漂うものか、あるいは欠けてしまったものが、私に何かを訴ているような気がしたのだ。


ここでなにかが終わり、”なにか”が始まるのだと。



私にとって、それが「死」を理解した瞬間だった。

臨終の宣告も、涙を堪えきれなかった葬儀も、火葬された亡骸との対面も、親族や知人の慰みの言葉も、ただそれらの記憶に付随するものだ。



死は時を止める。

それが身近であればあるほど

翌日の朝も、その翌日も、一ヶ月後も、一年後も

私は朝を迎える度にこう思ったものだ。



また、いつものような朝がくるのではないかと



けれどその”いつもの朝”は永遠にこなかった。

ただそこに存在するのは何かが終わって、何かが始まった世界だった。



私も父も姉も、新しい世界に必死に生きようとしていた。

父も姉も、欠けてしまったものを必死に埋めようとした。

虚ろに包まれようとしていた世界に光明を見出そうとしていたのだ。



やがて、父と姉は衝突するようになった。

姉は家出と警察沙汰を繰り返したのち、精神病棟に入院した。

父は鬱と持病の糖尿病に日々蝕まれていった。

私は引きこもり、社会から隔離した世界に身を隠した。



私達は、新しい世界に適応できなかったのだ。





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