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【邪馬台国】未だ所在地がよくわからない!?女王が治めた日本のミステリー国家【壹与】

どーも、たかしーのです。

今回は、日本のミステリー国家『邪馬台国』について、書いていきたいと思います!

邪馬台国とは?

女王・卑弥呼が治めていた日本の古代の連合国家

邪馬台国やまたいこくとは、中国の史書『魏志』倭人伝に記された日本の古代の連合国家です。記述では、2~3世紀にかけて、日本列島(当時はと呼ばれていた)に存在し、30もの国を従え、女王 卑弥呼ひみこが治めていた女王国であると記されています。

邪馬台国の女王 卑弥呼(イメージ)

↓ 女王・卑弥呼については、こちらをどうぞ。

未だに所在地がよくわかっていない

しかしながら、邪馬台国の所在地は、当時の日本にまだ文字がなかったこともあり、記録として残ってはおらず、また考古学的にも決定的な証拠が出てこないため、どこにあったのかは、いまだ謎のままとなっています。

ただ、邪馬台国の候補地はいくつかあり、有力なのは九州畿内(近畿)のどちらかとされています。※この点については後ほど。

2023年、佐賀県にある吉野ヶ里遺跡で、 石棺墓せっかんぼが見つかり、これが卑弥呼の墓ではないか?と話題になりました。

残念ながら、フタを開けても、遺骨や埋葬品が出土しませんでしたが、調査の結果、邪馬台国の時代の有力者の墓であることが結論づけられました。

この吉野ヶ里も、邪馬台国の候補地とされていますが、もしも、この中から「親魏倭王」と彫られた金印が見つかっていたら、邪馬台国の所在地に即確定であったかもしれません。

実は邪馬台国への行き方は記録されている

実は、『魏志』倭人伝には、現在の韓国・ソウル近郊から邪馬台国までの行き方が記されています。当時、韓国・ソウル近郊は帯方郡と呼ばれ、『三国志』でおなじみのが支配をしていました。

その帯方郡から邪馬台国までの行き方を、『魏志』倭人伝ではこのように記しています。

  1. 帯方郡 (ソウル近郊)→ 狗邪韓国くやかんこく(朝鮮半島南部):水行 7,000余里

  2. 狗邪韓国 → 対馬国つしまこく (対馬):渡海 1,000余里

  3. 対馬国 → 一支国いきこく(壱岐):渡海 1,000余里

  4. 一支国 → 末盧国まつらこく(佐賀県松浦郡):渡海 1,000余里

  5. 末盧国 → 伊都国いとこく(福岡県糸島市):東南 陸行 500余里

  6. 伊都国 → 奴国なこく(福岡県):東南 100余里 ※

  7. 奴国 → 不彌国ふみこく(???):東行 100余里 ※

  8. 不弥国 → 投馬国とうまこく(???):南 水行 20日

  9. 投馬国 → 邪馬台国:南 水行 10日 陸行 1月

※移動手段が書かれていない。

見ていただいてお分かりの通り、最後のほうは、かなり案内が雑なのが、よくわかります。(なぜ、最後は、距離じゃなくて、時間で書いたんだ…)

ただ、方角や距離なども、抜けはあるにせよ、しっかりと残されており、おおよそこの行き方どおりに向かえば、だいたいの場所には辿りつけそうな感じにも見えますが、実際に従ってみると、なんと太平洋に出てしまうため、方角か距離が誤っているのだろうと指摘されています(太平洋に出て、海の上を歩くルートになってしまう…)。

卑弥呼死後の邪馬台国

再び勃発した内乱を13歳の女王が鎮めた

邪馬台国には、そのライバルとして 狗奴国くなこくという国がありました。この国は、邪馬台国の南に位置してた国であると記録がされています。

邪馬台国は、この狗奴国と紛争状態となったため、卑弥呼は、帯方郡に使者を派遣して、魏に支援を求めたりしていましたが、その最中で、亡くなってしまいます。

卑弥呼の死因は、諸説あり、単純に高齢だったため、寿命か病で亡くなった説、狗奴国との紛争によって亡くなった(殺された)という説などがあります。没年は、『魏志』倭人伝の記載から、248年ごろと推定されていますが、根拠がなく、いまだよくわかっていません。※なので、卑弥呼は生没年不詳です。

卑弥呼の死後、邪馬台国には、男子が王となり、治めようとしましたが、卑弥呼が女王となる前と同じように内乱が起きてしまい、約1,000人が戦死するという事態に陥ってしまいます。

そこで、白羽の矢が立ったのは、卑弥呼の親族であった 壹与いよでした。※書物によっては、 台与とよとも呼ばれています。

邪馬台国の若き女王 壹与(イメージ)

壹与は、当時13歳だったそうですが、邪馬台国の女王に大抜擢されます。
すると、卑弥呼のときと同じように、内乱は鎮まり、邪馬台国がまたうまく治まったそうです。

もしかしたら、壹与が卑弥呼の親族であったことから、正統な女王が即位したことで、みな納得がいったのかもしれません。

壹与の朝貢を最後に消える邪馬台国の記録

その後、壹与は、魏の後に興った西晋へ266年に使いを送り、朝貢をしています。

266年ごろの中国と日本 黄土色の国が西晋

その様子が記された『晋書』には、男女の奴婢30人を貢いだと記載されています。

ただ、この朝貢を最後に、邪馬台国や倭に関する記録が中国の史書からは途絶えることになります。理由は、その後まもなく中国統一を果たした西晋が、権力闘争による内乱や、それに乗じた異民族の反乱によって滅亡してしまう(316年)など、中国自体が乱れまくってしまい、倭国どころではなくなってしまったためです。(昔は「倭国大乱」って、余裕ぶっこいて書いていたのになぁ…)

次に、中国の史書に「倭」が現れるのは、壹与が朝貢してから、およそ150年後(西暦413年)で、『宋書』に登場した讃(倭の五王)の朝貢からとなります。

論争が続く邪馬台国の所在地

邪馬台国の所在地を巡る論争は、江戸時代から始まったと言われます。

特に、所在地として有力とされているのが、九州畿内(近畿)です。
それぞれ唱える所在地が大きく離れてしまった理由としては、先ほど紹介した『魏志』倭人伝に書かれた邪馬台国までの行き方の解釈が、説により異なるからです。

邪馬台国が九州にあったという説

九州説を唱える人の出張としては、『魏志』倭人伝に記された距離の単位が間違っていることを指摘しています。

『魏志』倭人伝では、距離の単位として、1里(中国では約434m)が使われているはずなのですが、全行程(帯方郡~邪馬台国)12,000里あると記載があるにもかかわらず、1~5.までの行程(帯方郡~伊都国)までで、すでに10,500里も使っていることから、このままのペースで、残り1,500里を進めると、海上に出てしまうことがわかっています。

そこで、この1里の単位がもっと短いはずであるという考えのもと、実際の距離と『魏志』倭人伝で記述された距離を比べてみると、狗邪韓国 ~対馬国、対馬国~一支国が約70kmであるのに1,000里と書かれていることから、この1里は約70mほどであったと、推定ができます。
この単位のことを「短里」と呼びます。

この「短里」で、再度『魏志』倭人伝での行き方を見てみると、海上には出ず、九州地方北部にたどり着くルートをイメージすることができるわけです。

邪馬台国が畿内(近畿)あったという説

一方で、畿内説を唱える人の出張としては、『魏志』倭人伝に記された方角が間違っていることを指摘しています。

どのルートの方角かというと、8.「不弥国→投馬国」のルートです。
方角は南で、そこから「水行 20日」と記述がされていますが、この方角がであるという主張です。

仮に、東であるとするならば、ルートは関門海峡を渡って瀬戸内海を航行する瀬戸内ルートを辿ることになります。
この場合、たどり着く先の投馬国は、発音が似ているということもあり、備後のとも(現在の広島県福山市)が有力であるとされています。

そこから、9.「投馬国→邪馬台国」のルートが「南 水行 10日 陸行 1月」であるので、またこの方角を南ではなく東と仮定して、船で10日、陸で1月移動すると、畿内(近畿)にたどり着く、というわけです。
※他にも瀬戸内ではなく、日本海側から移動するルートも、畿内説では唱えられています。

ただし、方角が南ではなく東であるという強引な仮説であることから、これだけ見ると、九州説のほうが信憑性が高そうには見えますが、畿内説で邪馬台国の所在地として有力視される奈良県の箸墓古墳が、

・造営年代が卑弥呼の没年に近い
・『魏志』倭人伝に記された墓の規模感に近い(「径百余歩」という記載)
偉大な巫女王の墓とする伝承がある

などの理由から、卑弥呼の墓なのでは?と考えられています。

箸墓古墳(wikipedia)

他にも、「邪馬台国= 大和国やまとこく」と発音が似ていることや、卑弥呼も魏から 賜ったたまわったとされる三角縁神獣鏡が畿内に分布していることなども、根拠としてあり、いまだ論争が続いているといった状況です。

おわりに

今回は、『邪馬台国』について、書いていきました。
『卑弥呼』の回で触れることができなかった『壹与』についても、今回書くことができてよかったです!

ちなみに、邪馬台国のことが記された『魏志』倭人伝ですが、当時の日本人の暮らしぶりも記されており、男は布を体に巻き付け 刺青いれずみをし、女は中央に穴の空いた布をかぶっていたと、記述されています。
また、野菜を手づかみで食べ、酒好きであるとも記されているため、当時の中国人から見て、とても野蛮に思われたことが伺えます。

ただ、ここから中国と対等になるべく、日本は文明レベルを格段にあげていくことになるので、これからnoteで書きながら、見ていくであろう日本の歴史も楽しみです!

他にも、この歴史上の人物神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!


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