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【柿本人麻呂】百人一首の歌は本人が詠んだ歌ではない!?歌聖と呼ばれたミステリー歌人【三十六歌仙】

どーも、たかしーのです。

今回は、飛鳥時代の歌人『柿本人麻呂』について、書いていきたいと思います!


柿本人麻呂とはどんな人物か?

実はよくわかっていない

柿本人麻呂(菊池容斎『前賢故実』)(wikipedia)

柿本人麻呂は、7世紀後半から8世紀初頭に活躍した歌人と考えられていますが、実際どんな人物であったのかは、未だ明らかになっていません
生没年や経歴も不明なままです。

なぜ明らかになっていないのかと言いますと、柿本人麻呂はおそらく宮廷歌人であったにもかかわらず、『続日本紀』といった歴史書に全く記録がされていないためです。これは、柿本人麻呂自身の位が低かったからとも言われていますが、実際のところ、よくわかっていません。

なので、柿本人麻呂という人物を知るためには、日本最古の歌集である『万葉集』に収録された歌と、そこから派生した後世の歌集の注釈を頼りに、想像していくしかないのです。

歌聖、三十六歌仙のひとりと讃えられた歌人

ただ彼が残した『万葉集』の歌が、あまりに素晴らしい作品であったため、後の平安時代になって編纂された『古今和歌集』の序文にて、柿本人麻呂を「うたのひじり(歌の聖=歌聖)」であるとし、人麻呂の歌によって「天皇と臣下は一心同体となった」と讃えています。

また、平安時代中期の公卿 藤原公任ふじわらのきんとうは、和歌の名人として、三十六歌仙のひとりに、柿本人麻呂を選出しています。

柿本人麻呂(狩野探幽『三十六歌仙額』)(wikipedia)

長歌・挽歌に極めて優れた宮廷歌人

柿本人麻呂が残した作品のうち、最も古い歌は、689年草壁皇子(662~689)を悼んで詠んだ挽歌とされ、最も新しい歌は、700年明日香皇女(?~700)の死に際した挽歌とされています。

ここから、柿本人麻呂が活躍した時期は、689年から700年(持統天皇3年から文武天皇4年)の間、つまり持統天皇が在位していた期間とほぼ重なっており、なおかつ、皇子や皇女の死に際しての挽歌を詠んでいることからみても、主に持統天皇に仕えていた宮廷歌人であったと考えられています。

持統天皇(wikipedia)

また、『万葉集』には、柿本人麻呂が、持統天皇の行幸に供奉して詠んだ歌も見られるため、このことからも、持統天皇の代に宮廷歌人として活躍していたことが推測できます。

以前『万葉集』回で紹介した「やすみしし」から始まる長歌が、まさにそうです。

ちなみに、『万葉集』で最も長い歌は、柿本人麻呂が詠んだ長歌であり、高市皇子(654?~696)を悼む挽歌でした。

このことから、柿本人麻呂は、長歌・挽歌に極めて優れた宮廷歌人であったと推測されます。

柿本人麻呂の代表作

それでは、後世の歌人から「歌聖」と讃えられた柿本人麻呂の代表作を見ていきます。

※なお、「石見相聞歌」「かつての近江の都を想い詠んだ歌」については、NHKの番組「100分 de 名著」の「万葉集」回に登場された佐佐木幸綱先生(国文学者・歌人)の見解を参考に、まとめさせていただきました。

安騎野遊猟歌(あきののゆうりょうか)

(万葉仮名→漢字・ひらがな)
東(ひむがし)の 野に炎(かきろひ)の 立つ見えて
かへり見すれば 月西渡(かたぶ)きぬ
(現代語訳)
東の空は曙の太陽の光が差してくるのが見え、振り返って西を見ると、月が西の空に沈んでいこうとしている。

『万葉集』巻第一・四八 柿本人麻呂

まるで、東から太陽が昇ると同時に、月が西に沈んでいくといった光景をそのまま切り取ったかのように詠んだ歌です。

この歌は、途中で「かな」「けり」等といった切れ字(句点「。」が入る言葉)を使わず、最初から最後まで続けて詠めるように、構成されています。
これは、東の空を見上げてから、そのままぐるりと視線を変え、西の空を振り仰ぐ様子が伝わるよう、区切れなしで詠んだものと思われます。

しかしながら、この歌は、単なる情景歌ではございません。
実は、この情景を、柿本人麻呂は、持統天皇の孫である軽皇子(のちの文武天皇)、持統天皇の息子である草壁皇子に例えて、詠んでいたのです。

この歌は、『万葉集』の歌から推測して、軽皇子のお供で、 安騎野あきの(現在の奈良県宇陀市大宇陀区あたり/阿騎野とも書く)の 遊猟ゆうりょう(狩りをして遊ぶ)に随行したときに詠まれた歌と考えられています。

このとき、持統天皇の息子であり、軽皇子の父である草壁皇子は、次の天皇になることを期待されながらも、すでにこの世を去っていたため、安騎野の遊猟は単なる遊びではなく、今後、軽皇子が立派な天皇になるための重要な行事でもありました。

こうした背景を熟知していた柿本人麻呂は、東から昇る太陽を軽皇子西に沈む月を草壁皇子に例え、歌を詠みました。
つまりは、これからは軽皇子の時代が来るぞ!と、美しい情景と重ね合わせて、詠んだわけなのです!

こうした比喩的な表現を「見立て」と言いますが、それをさらりとやってのけるところに、プロフェッショナルさを感じざるを得ません。

なお、この短歌以外にも、柿本人麻呂は、冒頭の長歌を1首、短歌をもう3首、詠んでいて、これらの歌は「安騎野遊猟歌」と呼ばれています。

石見相聞歌(いわみそうもんか)

(万葉仮名→漢字・ひらがな)
笹の葉は み山もさやに さやげども
我は妹思ふ 別れ来ぬれば
(現代語訳)
笹の葉は山全体でさやさやと音を立てているけれども、私は一心に妻のことを思っている。別れてきてしまったので。

『万葉集』巻第二・一三三 柿本人麻呂

柿本人麻呂は、『万葉集』の中で恋歌の最高傑作と評される「石見相聞歌」という歌も詠んでいます。なお、この歌も、この短歌だけではなく、冒頭の長歌1首と短歌がもう1首がセットとなって、詠まれています。

この歌は、序文より、柿本人麻呂が 石見国いわみのくに(現在の島根県)に妻を残して都へ旅立ったときの思いを詠んだ歌である説明がされています。

なので、その前提を踏まえて読んでみると、確かに、別れの辛さがひしひしと感じられるような歌に仕上がっています。

ですが、驚くなかれ、実はこの歌、なんとフィクションなんだそうです!

つまりは、「石見相聞歌」は、柿本人麻呂が石見国に妻を残して都へ旅立ったときの思いを想像して詠んだ歌と考えられているのです。

ただし、本当に柿本人麻呂が、石見国にいた妻と別れて都へ旅立ったときに、その思いを詠んだ歌であるという説も否定はできません。(なにせ、歌しか残っていないので...)

ですが、もしこれがフィクションだとするならば、おそらくこのようなテーマで歌を詠んでほしいと発注され、柿本人麻呂は、その注文通りに、石見国の情景や登場人物の心情が浮かび上がるような歌をバシッと詠んでみせたのだ、と想像できます。

かつての近江の都を想い詠んだ歌

(万葉仮名→漢字・ひらがな)
淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
心もしのに 古思ほゆ
(現代語訳)
近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと、心もしおれるように昔のことが思われる。

『万葉集』巻第三・二六六 柿本人麻呂

この歌のスゴイところは、「夕波千鳥(ゆうなみちどり)」という言葉。
「夕波千鳥」という言葉は、この歌のために柿本人麻呂が用意をした言葉であり、つまりは造語なのです。

なので、柿本人麻呂は、この情景を歌にするなら、この言葉しかない!と、自身のセンスで掛け合わせたものとして、考えられています。

最初の「淡海の海」は、近江の海、つまり琵琶湖のことを指しています。
また、近江には、かつて天智天皇が築いた近江大津宮という都がありましたが、持統天皇の治世では、すでに遷都がなされ、廃墟と化していました。(5年余りしか機能しなかったそうです)

そんな廃墟となった近江の地に、夕暮れやってきて、鳥たちが鳴く声を聴きながら、かつての近江の都の人々や、壬申の乱で亡くなった人々の魂を慰めようとしたのが、この歌です。

これは、あくまで私の想像ですが、このような無念の魂が漂っているであろう近江の地に、朝廷は、柿本人麻呂をわざわざ向かわせ、歌の力・言葉の力で、その魂を鎮めようとしていたのだと思います。
もしそうであれば、柿本人麻呂は、それだけ朝廷内において、厚い信頼を寄せる歌人であったとも、受け取ることができます。

百人一首の歌は本人が詠んだ歌ではない!?

柿本人麻呂の有名な歌に、以下のものがあります。

柿本人麻呂(百人一首より)(wikipedia)

(万葉仮名→漢字・ひらがな)
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
(現在語訳)
夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。

『拾遺和歌集』恋三・七七三 柿本人麿

この歌は、小倉百人一首にも選定された歌で、平安時代中期に編纂された『拾遺和歌集』に収録され、柿本人麻呂が詠んだ歌であるとされています。

しかしながら、この歌は、柿本人麻呂本人が詠んだ歌ではない可能性があるのです!

拾遺和歌集しゅういわかしゅう』には、日本最古の歌集『万葉集』の歌も数多く収録されており、そのうちのひとつがこの「あしびきの」から始める歌でした。

ですが、『万葉集』では少し異なる歌として、収録されています。

(万葉仮名→漢字・ひらがな)
思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を
(現在語訳)
思わないようにしていても、思われてどうにもならずに、山鳥の尾のように長い、この夜を過ごすのです。

『万葉集』巻第十二・二八〇二 作者不詳

ですが、この歌の注釈には「或本の歌に曰く、あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」とあり、『拾遺和歌集』や百人一首ではこちらの歌が採用されました。

ですが、注目していただきたいのは、柿本人麻呂名義の歌が数多く収録されている『万葉集』において、この歌の作者が不詳であるということです。

この作者不詳の歌が、柿本人麻呂の歌であるとされたのは、三十六歌仙を選んだ藤原公任が、この歌を柿本人麻呂の代表作として選んだことがきっかけとされています。

大納言公任(藤原公任)
百人一首には自身の詠んだ歌が選ばれている(wikipedia)

確かに、この歌には、柿本人麻呂の歌らしく「枕詞」や「序詞」が用いられています。

  • 枕詞(まくらことば)・・・ある特定の言葉の前において語調を整える言葉。連想により歌の味わいをより深める効果も。通常は5音だが、4音や6音の場合もある。

    • あしびきの」→「」へつながる枕詞

  • 序詞(じょことば)・・・前置きとしてある語句を導き出すために使う言葉。だいたい7音以上

    • あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の」→「ながながし」へつながる序詞

なので、この作風から柿本人麻呂が詠んだ歌と誤解をして、公任が選んでしまったものとも考えられています。ただし、藤原公任自身は、和歌に関わる著書を多く残した人物でもあるので、そんな公任がミスチョイスをしたとも言い切れず、実際はどうなのか、謎に包まれています。

おわりに

柿本人麻呂(歌川国芳画)(wikipedia)

今回は、『柿本人麻呂』について、書いていきました。

前回の『万葉集』の回でも取り上げた内容も含めて、『柿本人麻呂』のスゴイところをまとめてみると、こんな感じでしょうか。

  • 枕詞」や「序詞」といった言葉を駆使して格調高い作風に仕上げつつ、「擬人法」「対句」「見立て」といった多彩なテクニックを生かし、しっかりとニーズにあった歌を詠むことができる

  • 自身の体験以外に「フィクションでも、本格的な歌が詠める ※ここは諸説あります。

  • 言葉と言葉を合わせて「造語」を作り、歌の世界感をより味わい深いものにできる(例:夕波+千鳥=夕波千鳥

さすがは、歌聖と呼ばれた人物だなと、随所に歌を読んで感じることができました。

あと、個人的な感想として、柿本人麻呂を知るためには、彼が詠んだ歌を見ていくしかないというところに、なにか神秘性とカッコよさを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

他にも、歴史上の人物神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!


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