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【花見】元々は梅の花だった!?平安時代から続く日本の国民的行事【観桜】

どーも、たかしーのです。

今回は、『花見』について、書いていきたいと思います!


そもそも花見とは?

主に桜の花を観賞しながら公園などで遊び楽しむこと

現在において『花見』とは、主に桜の花を観賞しながら、公園などに出かけて遊び楽しむことを言います。別の言い方で 観桜かんおうと呼ぶこともあります。

『花見』は、日本古来の風習であり、代々桜の満開時期に合わせて行われてきました。地域や気候によって、桜の満開時期にブレはあるものの、だいたい3月の終わりから4月の上旬にかけて行われる、日本人にとってはおなじみの行事となっています。

元々は梅の花を観賞する行事だった

『花見』は奈良時代の貴族の行事が起源であると言われています。また、当時は桜の花ではなく、梅の花を鑑賞する行事として始まりました。

当時、梅の花は、唐から渡来した植物であり、日本人にとっては珍しい花であったことから、貴族たちがこぞって、鑑賞会が催したものと考えられます。

ちなみに、2019年5月1日から施行された元号「令和」は、「万葉集」に収録された梅花の宴で詠まれた歌の序文が典拠となっています。

↓ 「梅花の宴」については、こちらをどうぞ。

花見の歴史

日本で初めて花見を行った嵯峨天皇

そこから平安時代になると、貴族たちは梅の花ではなく、桜の花をめでるようになります。

実際、奈良時代に編纂された「万葉集」には、桜の花を詠んだ歌が43首、梅の花を詠んだ歌が110首ほどあり、梅の花が大きくリードしていましたが、平安時代に編纂された「古今和歌集」では、桜の花の歌70首に対して、梅の花の歌18首と、桜の花が逆転をしています

これは、平安時代初期に編纂された勅撰史書である「日本後紀」に、812年2月12日に嵯峨天皇(第52代天皇)が神泉苑で「 花宴の節かえんのせち」を催したと記述されており、ここから貴族たちに広まったものと考えられています。

第52代天皇 嵯峨天皇(wikipedia)

また、この「花宴の節」が、日本で初めて行われた花見であると言われています。

大規模な花見を催した豊臣秀吉

そこから鎌倉・室町時代に入ると、武士階級にも、花見の風習が広がるようになります。また、兼好法師が書いたとされる日本三大随筆の一つ「徒然草」には、都に限らず、地方でも花見の宴が催されていたことが書かれています。

兼好法師(wikipedia)

安土桃山時代に入ると、かの豊臣秀吉も花見を好み、「醍醐の花見」と呼ばれる大規模な花見を、正室の北政所(ねね)や淀殿(茶々)ら約1,300人もの女性を招いて、醍醐寺の三宝館で催したと言われています。(もうこれフェスやん)

喜多川歌麿作 醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」
(wikipedia)

庶民に花見を浸透させた徳川吉宗

そして江戸時代に入ると、花見は庶民にも広がるようになります。

江戸で最も名高かった花見の名所が、寛永寺(東京都台東区)の境内にあった 忍岡しのぶがおかで、天台宗の僧・南光坊天海によって桜が植えられていました。
※現在、忍岡には上野恩賜公園があり、桜の名所として親しまれています。

南光坊 天海(wikipedia)

しかしながら、その当時は、格式高い寛永寺で人々が浮かれ騒ぐことを許していなかったので、第8代将軍・徳川吉宗は、庶民に娯楽を与えるため、江戸の各地に桜の植樹を行うよう指示します。

第8代将軍 徳川吉宗(wikipedia)

これによって、隅田川堤御殿山飛鳥山といった桜の名所が次々と生まれ、その結果、庶民にも花見の風習が浸透するようになったと言われています。

墨堤(隅田川堤)の花見客を描いた三代広重の「東京名所第一の勝景墨水堤花盛の図」
(wikipedia)

江戸時代に庶民が花見を楽しむ様子は、「長屋の花見(貧乏花見)」「花見の仇討ち(桜の宮)」「花見酒」などの落語にも描かれています。

なぜなんだ!?花見の風習

なぜ花見だんごは三色だんごなのか?

江戸時代から庶民にも花開いた花見ですが、当時から桜を観賞しながら、酒を飲んだり、花見だんごを食べたりしていました。

花見だんごとは、ピンク、白、緑の3色のだんごを串に刺したものを言い、江戸時代から花見の季節になると、茶店で売りに出されていたため、花見シーズンの定番だんごとして定着をしました。

この3色の意味ですが、一般的には、ピンクが桜を、白は冬の名残を、緑は夏への予兆を表現しています。

なお、”風流よりも実利を選ぶ”という意味の「花よりだんご」ということわざがありますが、これは花見だんごから生まれたと言われています。

なぜ桜餅は関東と関西で違いがあるのか?

お花見シーズンに食べる和菓子として、桜餅がありますが、一般的には、以下の2種類が存在します。

水溶きした小麦粉をクレープ状に焼いた皮で餡を巻く「関東風(長命寺)」と、

道明寺粉(水に浸した餅米を干して粗めにひいたもの)を蒸した生地で餡を包む「関西風(道明寺)」の2種類です。

これらの違いは、それぞれ起源が異なっているからです。

まず「関東風(長命寺)」の桜餅は、江戸時代後期に、隅田川堤に植えられた桜の葉を利用して売り出されたことをきっかけに、花見客からの人気を集め、全国に広がった、とされています。

また、この桜餅を考案したのが、山本新六という長命寺(東京都墨田区)で門番をしていた人物ということもあって、"長命寺"という名前でも知られるようになりました。

一方、「関西風(道明寺)」の桜餅は、実は関東風よりも歴史が浅く、明治30年頃に、京都で「嵯峨名物桜餅」として考案され、売り出されたことをきっかけに広がった、とされています。

嵯峨には、桜の名所として知られる嵐山があり、関東の桜餅に対抗したかった、日本で初めて花見を行った嵯峨天皇ゆかりの地で、桜で名物を作りたかったという思いがあったかもしれません。

↓ 「嵐山」に行ってきたときの記事はこちら

また、同様に"道明寺"というお寺の名前でも知られていますが、これは道明寺粉を使っているという意味であり、関西風の桜餅の発祥地ということではありません。
※道明寺粉は、道明寺(大阪府藤井寺市)が発祥です。

おわりに

今回は、『花見』について、書いていきました。

2024年は、3月末になっても、気温があまり上がらず、例年よりも桜が咲くのが遅かったので、開花していない桜を見に行く「おnull見」という言葉も、SNSでは話題となりましたが、この記事を書いている4月7日時点では、ちょうど見ごろとなっているようです。

なので、こうした歴史的な背景などを頭に入れながら、お花見に出かけてみると、また一段と楽しいかもしれません。

この他にも、歴史上の人物神話などをベースに、このような記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!

それでは!




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