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出身・生い立ち、予備校講師時代

とりあえず自己紹介をしましょう!
私が生まれたのは1963年、そう、東京オリンピックの1年前です。
当時の東京の様子は山崎貴監督の映画「ALWAYS 3丁目の夕陽1964」で忠実に再現されています。銀座や新宿などの繁華街には市街電車が走り回り、家の周りは、夕方になると、豆腐売りのラッパの音や、サオ竹売り(わかるかなー?)の声が聞こえる、のどかな時代でした。

私の出身は東京都新宿区です。
そこで、幼稚園→公立の小中学校→都立戸山高校→早稲田大学・大学院、と幼稚園から大学院まで通いました。

私は、時々自分の人生を振り返る事があるのですが、やはり、これまでの自分の人生で大きかった出来事のひとつは成増塾を始めたことだと思います。
大学卒業後、いったんは民間の会社に就職したものの、勉強をやり直したくて大学院に入り、親に学費を出してもらうのも申し訳なくて始めたのが塾講師のアルバイトです。

塾講師時代のカルチャーショック

昔から人にものを教えるのが好きだった私は予備校で英語を教える事にし、結局落ち着いたのが、当時の3大予備校のひとつ、Yゼミナールの英語講師でした。

Yゼミで教え始めた時は本当にカルチャーショックの連続でした(ここら辺の話はまた別の記事にしますのでそちらをご覧ください)

あの当時の状況を今振り返ると「何が何だかわからずに周囲の環境に振り回されていた」といった感じでしょうか。

Yゼミの「人気講師」と呼ばれる人達の圧倒的な熱量の前で完全に自分を見失っていました。今思い返すとその当時の代ゼミの「人気講師」の多くは「ハッタリ」をかますだけの怪しい人達だったのですが、彼らは「君も人気講師になりたかったら生徒ウケするように、派手なスーツを着たり、茶髪にしたり、90分授業で40分は雑談をしたりしなきゃだめだよ」というアドバイスを私にしてきました。

彼らの1人の話によると、彼は「マジメに授業をするのを辞めて、髪を茶髪にし、サングラスをかけ、90分授業で40分を雑談に当てたところ、生徒によるアンケートが100位くらいから2位に上昇した」のだそうです!

私も、その話を真に受け、派手なスーツや茶髪とまではいきませんが、生徒ウケする雑談のネタを考えたりはしましたね。

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同僚の『人気講師』から、派手なスーツ、茶髪にするよう勧められたが、
マジメ路線を貫きさっぱり人気が出なかった頃の私です。

ですが、そういう事をしながらも「こういうやり方は長続きしないのでは?」という疑いの気持ちは、いつも持っていました。

現に、私にアドバイスをしてきた「人気講師」は、その後ほどなく予備校業界から姿を消してしまいました。また肝心のYゼミでさえ、全国に27校あった校舎は2014年には20校閉鎖し7校になり、現在では「風前の灯」?ともいえるあり様です。

それに対して1996にスタートした成増塾は着々と生徒数、合格実績を伸ばし、難関大学を目指す生徒の間ではかなりの存在感を示せるようにすらなりました。

結果からみると、私たちのやり方、つまり「マジメに授業をして本物の学力を伸ばす」指導こそが生き残った訳です。

成増塾が生き残ってきた秘密

ただ、マジメに授業をして本物の学力を伸ばす、といっても、そういう指導をしている塾は他にもあります。

ではなぜ成増塾は激しい競争が繰り広げられる受験業界の中で生き残ってこられたのか。それをこれからお話ししましょう。

ひと言でいうと「講師にも生徒にも最高のシステム」を成増塾は実現している、という事です。

まず「講師にとって最高のシステム」とは何か?
この問いにお答えする前に皆さんに聞いてみたい事があります。

みなさんが中学生や高校生を教える立場にいると想像してみてください。
例えば皆さんがこれから東大志望の高校1年生に英語の授業をするとします。

授業を始めてみたところ、東大を志望すると言ってはいるものの、その人達は英語の基礎もろくにわかっておらず、塾が用意したテキストは難しすぎるとします。

それでも皆さんは塾が用意したテキストを使い続けますか?

多くの塾、予備校ではそういう事が行われています。
つまり、現場を担当する講師が「このテキストはこの子達には難しすぎる」と思っても、それを使って授業をしなければならないのです。

次は私が成増塾を設立するに至った強烈な原体験について書きます。
「私は学生時代、人生初のアルバイトだった塾講師を初日にクビになりました!」

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