渡邊 貴詞のラーメンアーカイブ 『ラーカイブ』

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渡邊 貴詞のラーメンアーカイブ 『ラーカイブ』

普段の食べ歩きはInstagramで https://www.instagram.com/acidnabe/ 何を食べるかよりどう食べるかを大切に / ノス活発起人 / 日本ラーメン史編纂委員会 / 背脂ラーメン地位向上委員会(非公認) / ブリティッシュロック愛好家

最近の記事

ちゃぶ屋の功“財”

~ ちゃぶ屋の歴史 ~ ちゃぶ屋は1996年三河島に誕生した。正式な店名は『柳麺ちゃぶ屋』。ちゃぶ屋という言葉の意味は“いい加減な”、“手を抜く”仕事をする人というもので、15歳から洋食のコックの修行に入った店主森住康二につけられたあだ名でもあった。 その後、各地のホテルなどを転々としキャリアを積んでいったが、自分の店を持つに至らず、ふと出会った『ラーメン花火』というチェーン店の人材募集が目に止まり(※漫画『一杯の魂』より)、ラーメンの世界に飛び込むことになる。その後

    • 【びぜん亭】アーカイブ

      ~ びぜん亭との思い出 ~ アーカイブではあるが、びぜん亭との個人的な思い出から語りたいと思う。僕は通った大学が御茶ノ水だったこともあり、その近辺、神保町から東は秋葉原、神田、西は飯田橋付近までのお店は徒歩圏内で、そのときに知ったのがびぜん亭だった。その頃にはすでにラーメンの食べ歩きを行っていたが、当時は新しい知識をより多く得たい、より多く食べたいという欲求に満ちていて、ひとつでも多くのお店に行きたいと思っていた。食べたら次へ、とまさに情報を食らっていた。楽しかったが、青か

      • 餅中華の世界

        ~ 甘味屋のラーメン ~ ラーメンの歴史は戦前と戦後で大きく変わってくる。甘味屋のラーメンも同様で、日式のラーメン自体が1910年頃に誕生した後、昭和に入ると甘味屋でラーメンを出すところが出てくる(後に紹介する大釜本店等)。当時は「甘辛ホール」などと端的な愛称で呼ばれていたようだ。 戦後の甘味屋のラーメンは、まず物資が圧倒的に欠乏していたところがスタートである。闇市というマーケットはあるにせよ、自由に商売をすることすらできない事情があった。敗戦直後は食材は厳格に統制されて

        • 【ajito(ism)】アーカイブ

          ~ 常に革命は異端者によってもたらされる ~ 音楽の長い歴史の中において、ロックンロールは異端として始まった。しかし、次第に多くの人の心を捉え、やがてメインストリームへとなっていった、という変遷を辿る。当時異端には見えたかもしれないが、その時点で多くの人のコアに訴えかける力を備えていたのである。音楽としてはシンプルな構成だったが、シンプル故、いろいろな要素(クラシックやR&B、ジャズなど)を取り込みながら垣根を超えた魅力を発揮していった。そして、何より大切なことは若さの象徴

          【地雷源】~ 20周年ラーメン ~(2002年編④)

          ~ 時代のアイドル ~ 誰しも自分の時代のアイドルが、永遠のアイドルになる。好きな音楽、映画なども同様だ。最新かどうかや、歴代のものと比較してどうかなどの客観的な基準は、すべて「いい時代だった」と言いたいだけの多くある理由のひとつで、言い訳に過ぎない。ただ、熱狂的なファンだった、という一言で済むのだ。もし、議論を交わすなら、その上で、健全に世代を超えた「好き」の議論をすればいい。 ラーメン自体が時代の色を帯びるように、食べ手もまた時代を背負って、それを考え方の軸にしながら

          【地雷源】~ 20周年ラーメン ~(2002年編④)

          家系ラーメンのミッシングリンク

          〜 家系ラーメンのルーツ 〜 家系ラーメンがかつてないほど盛り上がりを見せている。家系ラーメンとはどういったものなのかの解説はここではいったん省く。簡潔に説明することも可能だが、あえて“本物の家系”論争に頭を突っ込むつもりはない。 言うまでもなく家系ラーメンの祖は吉村実が新杉田(現在は横浜駅)に店を構えた吉村家である。1974年(昭和49年)のことだ。 吉村実は元トラック運転手で、平和島の京浜トラックターミナルにあったラーメンショップで働き、そして、店を構えたという流れ

          日式醤油担々麺と久田大吉の世界

          ~ 汁有り担々麺、その先に ~ もともと中国では汁無しの拌麺として親しまれている担々麺。四川料理の代表的な料理で成都の屋台で特に盛んであったものを、日本に持ち込み広めたのが、日本における四川料理の父ともいえる陳建民だった。そして、それを日本用にアレンジし、今日よくある汁そばの担々麺にした、というヒストリーはよく知られるところだ。 しかし、この汁有りの日式担々麺には、さらに日本に向けて改良、親和性を増したものがあった。担々麺というメニューを一括りにしては、浮かび上がってこな

          【季織亭】~ 20周年ラーメン ~(2000年編②)

          季織亭のパパさんこと川名秀則さんは生前、半ば冗談、半ば本気でこんなことをよく言ってお客さんを楽しませていた。 「俺はさ、ラーメン作れないから」 小麦蕎麦というありそうでなかった立ち位置で、ラーメンのような、そうでないような、ただ、ラーメン好きや食を愛する人たちを十二分に満足させる美味しい料理を提供し続けた季織亭。ジャンルや定義を超えた季織亭の魅力は、いみじくもラーメンというジャンルが素材や製法を研磨しクオリティが上がってくる以前から一部の熱狂的なファンによって語られ、また

          【季織亭】~ 20周年ラーメン ~(2000年編②)

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒13 終

          ■本家は威厳を保ちつつも静かに~ 珈琲大勝軒 2020年2月29日閉店 ~ 人形町大勝軒が姿を変えた珈琲大勝軒には、現在4代目の渡辺千恵子さんがいる。朗らかな笑顔で、わずかな憩いの時間を求めてくる客を迎える看板娘だが、昭和61年(1986年)12月31日に人形町大勝軒を閉店させた当人でもある。ご主人の武文さんは昭和44年4月27日44歳の若さで亡くなっているが、その渦中で大勝軒を仕切り直し、再興させ、そして、歴史的なお店を閉店させる決断を下した覚悟は相当なものだっただろう。

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒13 終

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒12

          〜 人形町大勝軒閉店 〜 珈琲大勝軒(人形町)には先の乃木希典の書に下に昭和初期のお店の様子を伝える写真が飾られている。ひとつは1928年(昭和3年)の人形町の本店の様子。もうひとつは1933年(昭和8年)浅草支店開店時のひとコマだ。浅草支店は一番華やかな六区にあったという。フライヤーを“鳩で”空中散布し喧伝された様子を伝えている。時代なのかもしれないが相当に派手な演出だったはすだ。 前回触れたように、人形町大勝軒本店はいくつかの独立店を生み出しつつ、大いに繁盛店していた

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒12

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒11

          ~ 唯一の現役 浅草橋大勝軒 ~ 浅草橋は1946年創業。本町や横山町などのレジェンド店たちが戦前であるのに対して、戦後誕生した大勝軒だ。味の面で総本家から受け継いだ戦前系のノーブルな部分と、戦後系の逞しさが同居し、その理想的なコントラストを描く貴重な店である。そういう意味では人形町大勝軒系の入門編に相応しいと思えるが、すでに歴史、味ともに継承する店はほぼなくなり、関係者も、口を揃えて唯一の系譜店と言う。この系譜を味わうなら選択の余地なく、この店となる。 ~ 浅草橋は大勝

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒11

          【麺彩房】~ 20周年ラーメン ~(2001年編①)

          ~ 麺彩房が教えてくれる「美味しい」の真実 ~ 僕たちは食べ歩きを行うときの大義として「情報」や「知識」という甘い蜜を吸うことがある。その代償として、一定の、好みでもなく、また、クオリティも高くはないものを、食べることを受け入れている。食べ歩きをする人は、味とは別の満たされ方をときに志向したりする不思議な人種だ。 無論、それは決して一方的に悪いことではなく、そんな知的好奇心が次の良いものを生み出していくサイクルを、人は延々と繰り返しているわけだが、一方で麺彩房のような昔か

          【麺彩房】~ 20周年ラーメン ~(2001年編①)

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒10

          ~ 戦前のラーメン店の造作 ~ 戦前から続くお店の特徴を、戦後との違いという観点で挙げようと思えばいくらでもあるが、店の造作もそのひとつである。建築様式を問わず、効率や回転などを重視するものよりも、食堂のような開放的で憩う雰囲気があり、調度品も安っぽいものがなく品があり、日常と非日常が中和したものが多かった。そして、多くは2階に宴会場を持ち、宴席を催した。 これは來々軒もそうであった。当然、ラーメン(支那そば)店が、中華(支那)料理店とシームレスであったことがその理由では

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒10

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑨

          ~ 「大勝軒」の俗説 ~ 大勝軒という名になった由来には、いくつかの俗説があり、そのひとつに「大正元年に開店したから」というものがある。3代目の奥様こうさんも娘(4代目千恵子さん)にそう話していたという。だが、この書が乃木希典のものだとなるとその説は成り立たなくなる。乃木は、明治天皇が崩御された際に自決しているのだ。すなわち(元号があらかじめ決まっているのなら別だが)大正→大勝とするのは考えられない。 そうなると日清日露戦争で大勝したことにあやかってつけたとされる説が有力

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑨

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑧

          ~ 『大勝軒』という屋号のルーツ ~ 仁軒さんという心強いパートナーを得て、自分のお店を持つ夢に近づいた初代半之助だが、なんとその店を見る前に病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。本人にとっても、まわりの人々にとっても非常に無念で辛い出来事だったに違いない。しかし、その意志は養子に入っていた松蔵が二代目半之助として継ぎ、亡き初代の夢を果たすことになる。 1912年(大正元年)にお店が日本橋芳町にオープンする。 屋号は「大勝軒」とした。 この大勝軒という屋号は、後にいろい

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑧

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑦

          ~ 林仁軒の功績 ~ 店を任せるに相応しい、腕の立つ料理人だっただろう林仁軒さんは、まわりからも「ニンケンさん、ニンケンさん」と親しまれた方だったようだ。 仁軒さんは後に大勝軒の従業員と結婚。人形町総本店で勤め上げ、その後立川に移り住み、一度は店を開いたたがその後は閉じた。ニンケンさんのお孫さんは昭島でまだ健在だという。 人形町大勝軒は多くの独立店を生んだが、総本店はその弟子たちのお店とは少し趣きが違い、料理には品があり、いわゆる街の中華屋さんとも違う、本格的広東料理が

          ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑦