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ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑧

~ 『大勝軒』という屋号のルーツ ~

仁軒さんという心強いパートナーを得て、自分のお店を持つ夢に近づいた初代半之助だが、なんとその店を見る前に病に倒れ、そのまま亡くなってしまう。本人にとっても、まわりの人々にとっても非常に無念で辛い出来事だったに違いない。しかし、その意志は養子に入っていた松蔵が二代目半之助として継ぎ、亡き初代の夢を果たすことになる。

1912年(大正元年)にお店が日本橋芳町にオープンする。

屋号は「大勝軒」とした。

この大勝軒という屋号は、後にいろいろなお店が名乗る大名跡となっていくが、どこにその名のルーツがあったのだろうか。ヒントは人形町、珈琲大勝軒にあった。店に入るとすぐ右手に額装された大きな書が飾ってある。大勝軒と力強く書かれた書。その左に、なんとこの書を書いたとされる人物の名が記されているのだ。

乃木希典

日露戦争で武勲をあげ、人格者として知られたあの乃木大将である。4代目の千恵子さんはこの書の真贋を確かめたことがあるという。間違いなく歴史に名を刻んだ乃木大将のものだったそうだ。

珈琲大勝軒(閉店)にある書

参考:乃木希典の筆跡

~ 乃木希典 ~

ここからは5代目の推測だが、日清戦争後休職していたという乃木はよく浅草や柳橋に出ていたという。そこで初代半之助と出逢った。浅草で人脈をつくった半之助の交友録の中に、乃木がいたというのである。そこで新しく開く店の名前を相談し、決めてもらった、と伝わっている。

乃木の半生は以下のようなものだ。

生没年:
嘉永2年11月11日 〜 大正元年9月13日
(1849年12月25日 〜 1912年9月13日)
出身地:東京都
職業・身分 陸軍軍人

父は長府藩士。第2次長州征討に参加。明治4(1871)年陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍。20年戦術研究のため川上操六とドイツ留学。日清戦争では歩兵第1旅団長として従軍し、旅順を占領。29年第3代台湾総督に就任。37年大将へ昇進。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻略を指揮するも、困難を極めた。戦後、軍事参議官となるが、40年から明治天皇の意を受けて学習院の院長を兼任。明治天皇大喪の日、妻静子とともに殉死。
引用:国立図書館 近代日本人の肖像

乃木の国民からの人気は凄まじく、葬儀には40万人もの人出があったとも言われている。また、これまで「幽霊坂」と不吉な名称で呼ばれていた坂を、乃木希典が住んでいたことにちなんで、「乃木坂」と改名している。また、その後も、乃木邸を訪れる人はあとを絶たず、東京市市長は、乃木邸内の小社に乃木夫妻の霊を祀ることにした。乃木神社である。

果たして、渡辺と乃木はいつ出会ったのであろうか。それは日露戦争の後、つまり、1905年から1907年に学習院の院長に就任するまでの間と考えるのが自然だろう。

元来酒好きであったとされるが、規律を正す立場にあった軍人の乃木は、そんなに頻繁に飲み歩いていたとは思えない。また幼い頃から武人を志すよう厳しく父より躾けられ、また松下村塾で心身ともに鍛えられたことを考えるとあまり道を外すようなことは考えられない。

また、学習院の院長に就任してからは、宿舎では、生徒と寝食を共にする生活で誰よりも早く朝4時半に起床し、質実剛健を地でいくような日々だったという。大の酒好き、煙草好きだった希典だが、寮生活中は禁酒禁煙を守るほど。
引用:日本文化の入り口マガジン

という話が残っており、1907年以降はより知り合う機会も限られることになるだろう。

日露戦争で武勲を立てたとされる乃木だが、その一方で辛い思いもしている。

明治37(1904)年の日露戦争では、第三軍司令官として出征。難攻不落といわれた旅順要塞を3回にわたって総攻撃するも陥落せず。延べ15万人の兵力を投入し、そのうち約6万人が死傷。戦死者は1万5,000人と、その犠牲の多さに国内からも批判が出る。

なお、この日露戦争で、長男の勝典(26歳)、次男の保典(24歳)の2人が戦死。乃木家は後継ぎがいない状態に。そんな中での旅順奪還に、悲劇の将軍として、乃木希典は国民的敬愛の念で迎え入れられる。
引用:日本文化の入り口マガジン

~ 乃木希典と渡辺半之助の出会い ~

戦争には勝利したが、旅順攻撃の失態と愛息二人の戦死。人一倍責任感の強い乃木は、多くの命が失われたことを非常に悔やんでいたことだろう。この後、学習院院長を任せられることになるわけだが、子を失った乃木に、その代わりではないが、多くの子を預けるとの明治天皇の意図があったと言われている。

つまり、この2年の間、乃木は軍人としての評価とは裏腹に失意の時期を過ごしていたということになる。

その期間にきっと渡辺と乃木は出会ったではないだろうか。酒が少しまわったところに周囲の喧騒。少しの間でも、その辛い思いから逃れられる時間だったのかもしれない。

初代渡辺半之助

果たして乃木は大勝軒の支那そばを食べることが叶わなかっただろうか。來々軒で、大勝軒が開店する前の試食として。それは分からない。ただ、この出会いがなければ、大勝軒という屋号が生まれなかった。国民からの人気に応えつつ、一方での失意の狭間で揺れ動いていた時期に書いた大勝を意味する『大勝軒』という書。そんな実直さが生み出した屋号はこの後100年以上に渡って国民から愛されていくことになる。この書もまた、かの生徒たちのように思いのこもった乃木の作品であろうと思いたい。

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