見出し画像

028:ブラジリアン柔術で紫帯に|クレイジーで行こう!第2章

まず言っておきたいのだが、今回の記事は長い。ものすごく長い。柔道だブラジリアン柔術だのと、ベンチャーや起業といったこととはまた別の世界のことについて死ぬほど熱く語っている。好きだからだ。時間があって、読みたい人にだけ読んで欲しい。

情熱:コロナウイルスが止められないもの

今年に入り、僕は毎朝2時間、ブラジリアン柔術の道場で稽古をしてからオフィスに出勤するようになった。

ブラジリアン柔術というのは、かつて柔道の創始者である嘉納治五郎(かのうじごろう)師範が柔道を世界に広めるため、弟子の前田光世(コンデ・コマ)をブラジルに送ったことがきっかけで始まった格闘技だ。

柔道のように華麗な投げ技は無く、ほとんどが寝技(レスリングのようなもの)によって戦われる、ポイント制の格闘技。

1993年のアルティメット大会(UFC)では、世界中の格闘家がこの大会に集まる中、ブラジリアン柔術という格闘技自体を代表したホイス・グレイシーが優勝し、世界中にその名を知らしめた。

ホイスの兄であるヒクソン・グレイシーは日本の総合格闘技でも活躍したので、知っている人も多いだろう。

2008年から趣味で始め、次第にのめり込んでいったブラジリアン柔術だったが、2013年、Googleとの会社売却交渉に時間をくわれたため、休会を余儀なくされた。

その後アメリカに渡り、これまた毎日フラクタの共同創業者であるラースさんと忙しい毎日を送るうち、なかなか良い道場にも巡り会えなかったところ、昨年サンマテオで素晴らしい道場を見つけ、久しぶりに練習を再開することができた

サーフィンにのめり込みつつ、柔術の道場にも顔を出す。コロナウイルスのロックダウン(自宅待機命令)で少し間が空いたが、これが明けると、僕は道場に通い続けた。

夜明け前

後述するが、いったん物事にのめり込むと、凄まじい集中力を発揮するのが僕という人間なのであり、このコロナ期間も、黒帯の先生に頼み込み、毎日夜が明ける頃に道場に来て僕と組み合ってもらうことに成功した。

画像7

そして、今年95回目に道場での練習を終えたある日、先生が、僕を紫帯に昇格させてくれたのだ。青帯を取ったのが、2012年頃だったから、それから実に8年の月日が流れようとしていた。

ブラジリアン柔術では、白帯から始まって、青帯、紫帯、茶帯、黒帯とレベルが上がっていく。また柔道のように昇段審査の試合で5人抜きをすれば、すぐに黒帯を取れるという制度が無い。

寝技だけを極めていくこの競技について、元北大柔道部で作家の増田俊也さんは、その著書『本当の強さとは何か』でこう説明している。

僕がいまジムでスパーリングをお願いして練習させていただいている感覚だと、ブラジリアン柔術青帯で柔道2段か3段ぐらいの寝技。

紫帯が3段か4段、茶帯で4、5段くらいの感覚だと思う。

だからブラジリアン柔術黒帯は全日本選手権や世界選手権クラス。

もちろん投技はあたりまえだけど柔道家の方がお話にならないほど断然強い。

でも寝技技術は(ブラジリアン柔術が)いまでは柔道をグンと引き離してしまっている。

そう、紫帯は強いのだ。思い返せば、僕にとって今年一番嬉しかったことは、ブラジリアン柔術で紫帯を取ったことなのかも知れない。

世の中の動きがコロナウイルスで完全に止まったとしても、僕という人間は止まらなかった。「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し」。そんな風に思うことができる。

また、この歳でも強くなっているのを実感できるブラジリアン柔術という競技は、何より素晴らしい。

ブラジリアン柔術を愛する人たちは、「ブラジリアン柔術は、すなわち人生だ」と言う。僕もそう思う。

しかし、そもそも何故僕はこのブラジリアン柔術というものを始めたのだろうか。話は大学時代に遡る。

青春の4年間は「畳の上」で

小学校、中学校と運動ばかりしていた僕も、高校生になると、情熱を傾けられるスポーツを見つけることができなくなった。

高校は千葉の県立東葛飾高校に通った。高校生のトレードマークであるべき「制服」というものが無く、また校則も存在しない。

校門近くの石に、

「自主自律」

とだけ書いてある。強いて言えば、あの高校では、それが校則なのであり、要は自分でやれということのようだった

自主自律

おそらく、僕はこの高校に通うことを通じて、人生で初めて本当の意味での「自由」という概念に触れた。

何か目立ったことをやったわけではない。

しかし、歴史とともに磨かれた、「自由を中心に据えた学校としての哲学」は、若かりし僕に大きな影響を与えたのだ。

もう一度言うが、高校時代は何もやっていない(ヒト型ロボットや人工知能などといったものは、だいぶ後の話なのだ)。

それでも尚、僕の哲学の基本は、この高校時代に出来上がったと言うことができる。

あの頃、やりたいことは何も見つからなかった。

激しい運動に打ち込むこともできず、何ら文化的な活動に打ち込むこともできない。

僕は、それこそ前回の記事でも書いたような、さなぎの時期を過ごした(しかし、ここが重要なところだが、この時期に、僕は良き友人に出会い、本当に色んなことを考えた。それは周囲の人たちには見えなかったと思う。だからこその、さなぎなのだ)。

一年浪人して、早稲田大学に入ると、スキーサークルや当時流行ったオールラウンドサークル(要はただ男女が遊ぶだけのサークル)に入って青春を謳歌すれば良いものを、あろうことか、早稲田大学の理工学部65号館の地下にあった柔道場に足が向かっていった。

65号館

昔から古賀稔彦さんが好きで、バルセロナ五輪で彼が金メダルを取った瞬間が、いつも自分の頭の中にあった。「あんな人になりたい。あんな男になろう」といつも思っていた。

大学に入ったのだから、好きなことをやろう。そうだ、柔道が良い。単純にそう思ったのだ。

青春時代とはまさにこのことで、大学時代は体力が有り余って仕方なかったし、ボーッとなんてしていられなかった。

上で紹介した増田俊也さんが書いた渾身の実話『七帝柔道記』に書いてあることそのもののような生活で、4年間僕はずっと畳の上にいた。

早稲田大学の理工柔道部は、練習が週に3回しか無いというので、当時下宿先の近くにあった町田警察署を訪問し、いきなり「柔道を教えて欲しい」と頼み込んだ。

おっかない顔をした師範の先生から、「子供の稽古はやっているけれど、あなたみたいな歳の人には警察署の道場は開放していないんですよ」「近くに、警視庁の師範(助教)だった高橋先生という方が町道場を開いておられるから、そこに行くと良いですよ」と教わった。

帰り道に高橋先生に電話を入れ、その週から練習に通うようになった。

当時の高橋道場には、警視庁OBや機動隊の人なども練習に来てくれて、大学の練習の他、週に2、3回はそこで練習するようになった。

ここでは、本当に色んな人に柔道を習ったが、特に三船十段記念館出身の国体選手だった澤口先生に、本に載っていないような細かな技術を教えてもらい、ますます柔道が好きになった。

それでも体力が有り余って仕方ない。

新宿スポーツセンターの柔道場にも顔を出すようになり、気づけば毎日柔道をやっていた。

柔道が好きで好きで、仕方がなかった。毎日自分に成長がある。

このあいだ投げられた相手を、しばらくすると投げられるようになる。

ウエイト・トレーニングを始め、ランニングをするようになり、ロープを腕だけで毎日登った。夏には長い階段のダッシュを繰り返し、深夜に公園でチューブを引く(通りがかった警察から、職務質問を2回ほど受けた)。

誰からも、何もお願いされていない。

ただ柔道がやりたかったのだ。

ただただ、畳の上にいたかった。

この記事のタイトルにもなっている『クレイジーで行こう!』なんて、まさにこの青年のためにあるような言葉で、とにかく僕は猛烈に柔道を愛した。

大学時代、今ではテレビで(柔道)世界選手権の解説などを担当されている柔道サイト『eJudo』編集長の古田英毅(ふるたひでき)さんと出会い、同じ畳の上で毎日練習をすることができたのは、奇跡にも近い経験だった。

古田英毅さん

それは懸命に柔道を愛する人間に、神様が与えてくれた贈り物だと思った。

古田さんという人は、昔からものすごく物事を体系的、構造的に捉える人だ。

どんなに有名な柔道選手でも、こうやって柔道という競技を、一つひとつの要素に分解し、その要素一つひとつがお互いどんな関係性にあるのかということを言語化するのが上手い人はいない。

たとえば、昨日行われた日本柔道男子66kg級代表決定戦(丸山城志郎 vs 阿部一二三)に関して、古田さんが分析した記事を読むとよく分かる。

これだけ構造的に阿部柔道の弱点を言語化できる人、そもそも阿部選手の弱点のみならず、これだけ柔道という競技を構造的に捉えることができる人、言語化できる人はいないだろう。

この人が、僕が学生時代、一緒に畳の上に立ち、ずっと柔道を教えてくれたのだ。

当時、それこそ本屋に売っている柔道本は、端から全部読んだ。

しかし、どの本にも書いていないことが、古田さんの口からは語られ、僕はそれを信じて練習に打ち込んだ。

強くならないわけが無かった。

大学では、秋田県からインターハイに出場した古田さんと、今は神奈川県にある平塚学園高校で教師をされている和歌山の勇、坂本先生から柔道を習った。

丸山先輩や神谷さん、名前を挙げればきりがないほど、強烈なキャラクターの先輩たちに囲まれ(小林まことさんが描いた『柔道部物語』を読むのが分かりやすい。ああいう先輩たちは、柔道部に実在する)、本当に1ミリも悔いがない青春時代を過ごした。

3年時には僕が主将を務め、「九大学対抗戦」や「全日本理工科学生柔道優勝大会」などに出場していった。

その一瞬一瞬を、僕は忘れていない。

今でも仕事が重要な場面に差し掛かると、あの日のまま、あの試合会場にいるような気がして、本当に古田さんの声が聞こえてくるのだ。

「タカシ~!!!勝負!!!!!」

と。

ブラジリアン柔術との出会い

さて、ブラジリアン柔術との出会いだ。

銀行に就職して、東京三菱銀行の柔道部にも入り、オール三菱武道大会などにも出場したが、銀行を辞めた後はしばらく体を動かしていなかった。

ときどきふと柔道場を探してみるが、企業再建の仕事をしながら夜に通えるような道場はなかなか見つからない。

インターネットを検索しまくって、ようやく探し当てたのが、「トライフォース五反田」という、品川区五反田にある、小さなブラジリアン柔術の道場だった。

トライフォース五反田

2008年頃だったと思う。この頃、僕はブラジリアン柔術というものを全く知らなかった。

ヒクソン・グレイシーという人物については知っていたが、何か自分とは別の世界にいる人間のような気がして、ブラジリアン柔術というものに思いを馳せることが無かった。

大学時代、柔道に関してはとても良い指導者に恵まれ、青春を捧げて柔道に取り組んできた。理工柔道部では主将も務めたし、黒帯をとって2段に昇格していたので、腕にはある程度自信があった。

「ブラジリアン柔術っていうのは何だろうな。サークルみたいなもんだろうから、ちょっと肩慣らしにでも行ってみるか。寝技で、いっちょ揉んでやるか」

今になって思えば恥ずかしいことこの上ないのだが、当時はたぶん、そんな気持ちだったのだと思う。

つまり、死ぬほどブラジリアン柔術を甘く見ていたのだ(!)

ところが、トライフォース五反田での練習に参加した初日、あれよあれよという間に、ニコニコと優しい顔をした柔術家たちに、僕は簡単に抑え込まれ、関節技を極められてしまったのだった。

いったいこの人たちは、どこから来たのだろう?

話を聞いていても、必ずしも柔道出身者が多いわけではないようだった。

皆、昔は野球をやっていましたとか、格闘技はこれが初めてですとか、口々によく分からないことを言う。

気持ち悪いくらいに皆ニコニコしていて、練習を楽しんでいるのだが、とにかく寝技が強い

何がなんだか分からなかった。

競技歴はさておき、とにかくこの人たちは、「ブラジリアン柔術」、つまり寝技が強いのだ。

初日の練習が終わると、井の中の蛙とはまさに自分のことだと思い、俺の青春は何だったのかと、恥ずかしい気持ちで一杯になった。

しかし、ここが僕の良いところでもあるのだが、次の瞬間、

「ちょっと待てよ、これはすごいことだぞ」

とも思った。

「このブラジリアン柔術というものをやれば、昔柔道で勝てなかった相手にも、勝てるようになるかも知れない」

単純にそう思ったのだ。

そこから僕のブラジリアン柔術の道が始まった。

柔道とブラジリアン柔術の違い

ブラジリアン柔術との出会いは、上に書いたように、本当に衝撃的だった。

それまで僕は、柔道という競技は、完成され尽くしているものだと信じ込んでいた。

嘉納治五郎師範の時代から、歴史に洗われ、延べ何億時間という時間が多くの柔道家たちによって費やされた。

だからこそ、そこで新しい技が編み出されることなどなく、工夫の余地がないくらいに洗練されていると信じ込んでいたのだ。

ところが、かつてブラジルに渡った柔道は、こと寝技ということに関して言えば、グレイシー一族が工夫を凝らしてそれをさらに進化させていた。

Xガード、ベリンボロ、ラバーガード・・・。今でも、毎年のように新たな技がひねり出されており、進化が続いている。

考えてみれば当たり前のことなのかも知れない。

柔道だって、小説『姿三四郎』にも書かれている通り、かつて日本にあった古流柔術というものを、嘉納治五郎師範が取り込みつつ、形を変え、進化・体系化させたものなのだから。

僕はやがて、柔道とブラジリアン柔術を対比して見ることで、柔道というフォーマットに対してある種の閉塞感を感じるようになった。

柔道は今でも好きだし、青春をこれに賭けたことを何ら後悔していないが、これは一方で厳しくてつらい世界でもある。

インターハイやインカレに出る人が偉いという、確かなピラミッド構造ができあがっている。

楽しむだけでよしとするのではなく、強豪校じゃなければ肩身が狭いといった雰囲気もあるのが柔道の特徴ではないか。

また柔道を始めた学生が強くなれるかどうかは、地元で入った中学校にたまたま熱心な指導者がいたり、器具が充実していたりするという「運」にも大きく左右される。

親の財力によって成績が変わってしまう受験勉強の世界にも似ているかもしれない。

どこに住むか、入った学校が強いか、いい先生がいるかどうか。

学歴同様に、エリート至上主義のピラミッド構造になっているためか、柔道は大人になる過程で辞めてしまう人、ドロップアウトする人がとても多い。

競技人口が年齢とともにガクンと減ってしまうのだ。

僕は、過剰なピラミッド構造が、柔道の楽しみを奪うひとつの要因なのではないかと思っている。

加えて、立ち技が主体になるからこそ、筋力とスピードがものを言う競技でもあり、年齢を重ねた後に強くなるのはなかなか難しい。

僕が憧れ、平成の三四郎とまで呼ばれた古賀稔彦選手も、32歳の頃にシドニーオリンピック出場を目指すも、オリンピックへの切符を手にすることはできなかった(この頃の古賀稔彦選手の苦闘については、かつてNHKで放送された『三四郎の雪辱』を見るとよく分かる)。

ところが、ブラジリアン柔術はそれと異なり、40歳前後で世界チャンピオンになる人もいる世界だ。

パワーだけじゃない、技術の積み重ねで強くなり続けることができる競技。

ブラジリアン柔術はチェスのようだと形容されることもあり、寝技が主体であるがゆえ、頭で考えて戦略を立てる知的な要素が多い。

また、世界チャンピオンの日本人柔道選手の多くは道場を開かないが、ブラジリアン柔術はある程度強い人たちが積極的に町で道場を開き、ビジネスとして成功している例も数多くある。

そこには、かつてリングでヒクソン・グレイシーと闘った中井祐樹さんの存在と思想が果たした影響があまりに大きいのだが、それを書き始めるとこの記事が終わらなくなるので、それは別の機会に譲ろう。

こうしたことから、ブラジリアン柔術に関して言えば、僕たちは大人になってからでも、自分に合った道場を選択することができ、そこで確かな技術を学べば、大人になってからでも強くなることができるのだ。

中山徹(なかやまとおる)先生の生き方に、影響を受ける

日本で僕が教えを受けていたのは、ブラジリアン柔術の全日本選手権で優勝した中山徹先生だ(ヨーロッパ選手権でも3位を取っている)。

徹先生

いつも徹先生と呼んでいるので、ここでも徹先生と書こう。

徹先生は、あるときからフルタイムの仕事を離れ、ブラジリアン柔術道場の道場主だけをやるようになった。

そう書けば簡単な話に聞こえるかも知れないが、これを本当にやれる人は少ない。

「ブラジリアン柔術が好きなので、仕事を辞めて道場を開きました」なんて、口で言うほど簡単なことじゃないのだ。

そこにはブラジリアン柔術に対する、飽きることのない興味関心と、そこに自らの人生を賭けんとする「深い覚悟」がある。

いつも言っているが、日本も空前の資産バブルに見舞われているので、株式や債券、不動産、ベンチャーキャピタル(投資ファンド)、どこもかしこもカネ余りで、その辺のお兄ちゃんやお姉ちゃんが、「AIのベンチャーをやろうと思ってる」と言っても良い時代になった。

学歴優秀、職歴優秀。二言目には「資金調達しました」とか言ってしまう。

それは結構なのだが、そういう人たちと話をしても、僕は「すごいなあ」と全然思えなくなってしまった。

ファッションでやって、ファッションで散る。時間の問題だな、と思うだけだ。

何が足りないのだろうか?

そこには、本当に好きで好きで仕方ないことを追求する姿勢、世界の不公平に対する猛烈な怒り、そういうことを「自分の腕一本で変えてやろう」という覚悟が見て取れないのだ。

古くさい話に聞こえるかも知れない。

しかし、これこそが「ベンチャーの本質」なのであり、こうした根源的な「思い」が無ければ、時代や歴史という大きな岩を動かすことなど、できようもない。

一方で僕は、そういった「覚悟」を徹先生の生き様に見る。

先生と一緒に稽古をしていると、心が洗われる。

人生をかけて何かに取り組むということの意義が、議論なんてしなくても、徹先生と一緒に組み合うだけで分かる。

その指に、その腕に、その体幹に、徹先生がブラジリアン柔術と共に生きた歴史が刻まれていて、それは組んだ瞬間に分かるほど、不思議な「力(ちから)」のようなものなのだ。

これが自分の体に伝わる。素直に、「すごいな」と思える。何かをもらった気がする。

不思議な経験だ。

サーフィンをやっていると、テイクオフした後、波の力というか、ある種の地球の「力(ちから)」を感じることができる瞬間がある。

海

これは多くのプロサーファーもサーフィンの魅力と謳(うた)っていて、僕も本当にそう思う。

画像9

ひとたびこの力の存在に気づくと、サーフィンにハマってしまうという。

同じような力が、徹先生との練習にはあった。

この力については、文章で表現することが非常に難しい。

ヒト型ロボットベンチャーを創造して、Googleにタスキを繋ぐことができたのも、徹先生と一緒に練習していたからなんじゃないかと思うときがあるほどだ。

加藤さんは何かの新興宗教団体か何かに入られたのでしょうか?と思う人がいたならば、「トライフォース五反田」の門を叩くべきだ。

それは柔道場ではない。それは空手道場ではない。それは人生の道場であり、「そこにリスペクトがある限り、誰しもがブラジリアン柔術を楽しむことができる」という空気に溢れている。

僕は雑誌のインタビューなどで、「日本の経営者で尊敬している人は?」と聞かれることがあるが、正直答えに困ってしまう。

答えが出てこないのだ。

経営者の人はたくさん知っている。たくさん話したことがある。

しかし、自分の人生に影響を与えた、とまで言われると、答えに窮してしまう。

ただ、徹先生のことを心からリスペクトしていると、僕は胸を張って言うことができる。

こういう人には勝てないな、と素直に思うことができる。

それは僕にとって素晴らしいことで、自分の奢(おご)り、自らの不確かさを、会うたび確認させてもらえる人なのだ。

徹先生が柔術を愛しているから、先生が運営するトライフォース五反田には、柔術が好きな人が集まってくる。

皆、本当に仲が良い。

徹先生とひとこと話せば、先生が嘘を言っていないことがわかるし、柔術を心から好きだということがわかる。

僕もいろいろな道場を見てきたが、徹先生のような人は見たことがないし、トライフォース五反田ほど居心地の良い道場は他に無かった。

もちろん、今練習をさせてもらっているカリフォルニアの道場の先生を僕はリスペクトしているし、人間として大好きだ。

シリコンバレーでヘッジファンドを創業し、それを経営しながら、毎日ブラジリアン柔術の道場にやってきて、僕と組み合ってくれる。

こういう人の情熱に、周囲の人は巻き込まれていくのだ。

知らない人からすれば、僕はただのクレイジーな運動好きに見えるかも知れない。

しかし、最近特に思うのは、運動は運動機能を高めるためだけに行うものではなさそうだ、ということだ。

トライフォース五反田で見たもの、経験したことは、「運動」というカテゴリに留めるにはあまりに窮屈な気がする。

それは「人生」というカテゴリに入るくらい大きなものなのであり、その意味で、ブラジリアン柔術の裾野の広さというものに、改めて思いを馳せる次第だ。

この経験は、経営にも活きるし、僕の人生にも活きている。僕も徹先生のようになりたい。好きなこと、愛することに取り組んで、周囲を巻き込んでいくような人生が歩めたならば、本望だ。

『親子で楽しむ柔術あそび』を推薦させてくれ!

最後に、徹先生の奥様でもあり、トライフォース五反田の女将さんを務めているのは、秋川かずよ先生だ(いつもズヨさんと呼んでいるので、ここでもズヨさんと書こう)。

ズヨさん

この人のおもてなし力の右に出る人はいない。

いつもニコニコされていて、道場のガラス扉を開けるのが全く怖くないのは、ズヨさんがいるからだと思っている。

このズヨさん、これまでずっと親子柔術というもの、実際には柔術といっても、小さな子供が親と一緒にマットの上で運動することの重要性を提唱してきた人だ。

そんなズヨさんが、今回、満を持して『親子で楽しむ柔術あそび』(日貿出版社)という本を出版された。

親子で楽しむ柔術あそび

かつて初心者クラスで、僕にたくさんの柔術を教えてくれたズヨさん。

この記事の最後に、ズヨさんへの感謝を込めて、この本を日本中、世界中の人たちに向け推薦したい。

(記事終わり)

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
Feeling like coffee?
We are a Silicon Valley Coffee Shop in Tokyo!!
コーヒー1杯で、昨日より良い一日を!
メンローパーク・コーヒー渋谷店はこちら↓↓↓

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
- どうせなら、挑戦する人生を歩みたい -
「誰でも起業して成功することはできるんです」
TBS『Dooo』に出演した際の動画はこちら↓↓↓

前編20分:

後編20分:


サポートいただいた寄付は、全額「メンローパーク・コーヒー」の活動費に充てられます。サポートいただく際には、僕に対して直接メッセージを送付することができます。直接お会いしたことがある方以外からのメールには滅多に返信しない僕ですが、サポーターの方にはきちんと返信しています。